温泉に浸かる時、邪念は捨てよ
大浴場は平日ということもあり、ほとんど人がいなかった。浴場は床も板張りで、湯船はヒノキだろうか。全身に木の匂いを感じる。
薄々分かっていたけど、この旅館とんでもなく高級だな。こんな浴場入ったことないぞ。
身体を洗い、折角だから露天に浸かる。
「ふぅい~」
思わずおっさんのような声が出てしまった。
いや、それくらい気持ちいい。もはやこれは息を出さない方が失礼だ。身体の中にあった良くないものが全部絞り出されたような気がする。
さっきまで考えていたことが全部溶けて輪郭を無くしていく。
これ、間違いなく椿先輩のコネだよなあ。
普通に考えて出張でこんなところに泊まったら怒られるじゃすまないだろう。
『あー今回のミッションでお金のことは気にしなくていいから! 全部私が経費で落とすからね! 任せて! これでもA級守衛魔法師だから!』
と言ってたけど、いいのかなあ。
こんな温泉に入れるなら、いいかぁ。
ごめんなホムラ。俺は一足先に大人の階段を上ってしまったよ。
人がいないことをいいことに手足を伸ばし、ゆるゆると身体を浮かしていたら、壁の向こうから声が聞こえてきた。
『ツッちゃん、露天風呂だよ! 露天風呂! 私露天好きなんだよねー!』
『先輩、恥ずかしいからそんなはしゃがないでください』
『露店ではしゃがないなんて失礼じゃない⁉』
『失礼じゃありません』
椿先輩と紡の声だ。
そうか、この壁の向こうが女性用の露天風呂なのか。
『火焔』で身体強化を繰り返してきた結果、最近は素の肉体能力も向上している。
魔法を使えば使う程、肉体もまた魔法の使用に耐えられるようになっていくのだ。だから鬼灯先生は魔法なしでも強い。
何が言いたいかというと、本来ならあまり聞こえないはずの女性風呂の声がよく聞こえてしまうのである。
『ツッちゃんとお風呂に入れるなんて最高だね。一緒にシャワー行こって言っても逃げられるし』
『当たり前です。というか椿先輩はもう少し隠してください』
『え、なんで? 私たちしかいないし隠す必要なくない?』
『だから一緒に入りたくないんです』
『辛辣!』
‥‥何というか、相性がいいんだか悪いんだか分からない二人だな。
紡は同級生とあまり話そうとしないし、ああやってぐいぐい話しかけてくれる存在がいるのはいいことだと思う。
しかしその気はなくても、声を聞いているだけでいけないことをしている気分になってくるな。
待て。悪いことをしているわけじゃない。俺はこの露天風呂を楽しんでいるだけだ。
心頭滅却し、思考を湯に溶かせ。
『オトちゃんもいつまで固まってんのー。ほらこっち来て入ろ!』
『‥‥あの、やっぱり私は後で一人で』
『そんな寂しいこと言わないでさ』
音無さんも一緒にいるのか。音無さんはおどおどしてたり、妙に踏み込んでくる瞬間があったり、不思議な女の子だ。
専属エンジニアということでわざわざ付いて来てくれる時点で、いい子なのは間違いない。ホムラとの約束がなければコロッと好きになってたかもしれないくらいにはいい子だ。
クラスでもああいう一見目立たないけど優しい子がモテるんだよな。
中学時代、男子たちが狙っていたのは一軍女子ではなく、その影に隠れる子たちだった。ま、勉強しながら聞いてただけの話なんですけどね。
『ほらオトちゃんも身体冷えちゃうから! 冷えは万病の元なんだから!』
なんかさっきから椿先輩の言動が孫を可愛がるおばあちゃんっぽいな。ギャルなのかおばあちゃんなのか分類の分かり辛い人だ。
それからなんとかかんとか格闘があり、椿先輩が勝利したらしい。
女三人寄ればなんとやら。
温泉ってのは一人邪念を洗い流し、思考も身体も休める場だ。そこに余計なノイズは必要な――
『うわ、でっか――』
何が?
何がでっかいんですか椿先輩。
一言だけで口を閉じないで、もうちょっと状況を詳しく説明できませんかね!
『だから嫌だったんですー! 私、二人より太ってますし‥‥開発科だから運動量が足りないのは分かってるんですけど』
『いや、ごめんごめん。全然太ってなんてないよ。ただちょっとその、驚いたというかなんというか』
『‥‥』
――ふぅ。
落ち着け。さっきから紡が一言も喋ってないことも気になるが、それよりもどこに驚いたのか具体的に説明してほしいところです。
どこが! どう! どんな風にでっかかったんですか!
ちょっとずつ湯船の中で壁に向かって動く。これは違うのよ、波で流されてるだけだから。
そこに音無さんの泣きそうな、消え入りそうな声が聞こえた。
『それに、隣の露天風呂‥‥真堂君も入ってるみたいなので‥‥』
――退散‼




