毒煙の男
九州なまりの爽やかな声が、ざわめきの食堂によく通った。
ちょうど今出ようとしていた入り口に、その声の主は立っていた。
「食堂に来るなんて珍しいなぁ。デザートでも買いに来たのかい?」
長身痩躯という言葉に相応しい男だった。
こげ茶の長い髪を首の後ろで一つに束ね、一重の目が笑みの形にしなっていた。
まるで書生のようなたたずまいながら、服の下に仕込まれた肉体がたくましいものであることは、まくり上げた袖から見える腕だけでもよく分かった。
桜花魔法学園二年、雲仙煙霞。
彼のことはよく知っている。
星宮。日向。雲仙。
その姓は日本の魔法師を牽引する御三家の証だ。
秩序を重んじる星宮。
強さを求める日向。
変革をもたらす雲仙。
煙霞は雲仙家の次男だ。
雲仙家は長崎に本家を構える魔法師の名家であり、本来なら東京の桜花魔法学園ではなく、西の名門に進むべき人間。
そんな彼が桜花魔法学園に入学したのは高等部からだった。
その類まれな才と研鑽された実力をもって、一年で確固たる地位を築き上げた。
今も彼の後ろに連れ立つ生徒たちが、煙霞の立場を如実に表していた。
「雲仙さん。お久しぶりです」
「その呼び方やめてよー。雲仙じゃあ先生とも被るし」
「お戯れをおっしゃらないでください。雲仙家のご子息を気安く名前で呼ぶことは出来ません」
「硬いなぁ。うちはそういうの気にしないって知ってるでしょ」
煙霞は話しながら距離を詰めてくる。
間にいた学生たちが波が引くように道を開けた。
綾芽だけが「うげっ」と潰れた蛙のような声を出しながら、有朱の方に身を寄せた。
――聞こえるからやめなさい。
正直同じ気持ちではあるが、下手なことを言うと後に響く。
「雲仙さんはどうしてここに? 家の者が食事を用意してくださっているでしょう」
「栄養価満点の奴をねぇ。美味しいには美味しいんだけど、たまには菓子パンとかジャンキーなものが食べたくなるんだよ。どこで生まれようが、男子高校生の舌ってのはそういうもんなのかね」
「あらそうでしたか。私は家の料理の方が好きですけれど」
「星宮家のお料理は俺も好きだよ。あっちは本家だから、また違うのかな」
いけしゃあしゃあと言ってのける煙霞に、有朱は崩れそうになる笑顔を全力で取り繕った。
この男との因縁は御三家というだけに留まらない。
こうして話している今も、まるで蛇が首に絡みついているかのような感覚になる。
そういえばと煙霞はおもむろに話題を変えた。
「桜花序列戦、参加おめでとう。戦えるのはまだ先になると思っていたけど、存外早かったね」
「――ええ。望外の喜びです」
本当に。
星宮有朱には守衛魔法師になる以外にも目標がある。
魔法師の家に生まれた以上、この身には切っても切り離せない毒がある。
それは生まれた瞬間から有朱の魂を蝕み続けている。
煙霞が顔を近づけ、囁いた。
「女の子なんだから、魔法なんてやめて料理を習えばいい。武機じゃなく針を持てばいい。桜花戦が始まれば、そういう現実が見えてくる」
「‥‥」
変革をもたらす雲仙が聞いて呆れる。
御三家は世界改革以降表舞台に台頭してきた家系だが、その歴史は遡れば底なし沼のように沈んでいく。
古臭い伝統としがらみが、毒の鎖となってまとわりついている。
「私の夢は人々を守る守衛魔法師です。何を学び、何を持とうと、その理想を果たすために努力し続けるだけです」
「有朱ちゃんは本当可愛げってもんが足りないねぇ。顔も整い過ぎてて怖いし、少しくらい隙ってもんがないと男は寄ってこないよ」
「誉め言葉として受け取っておきますね」
有朱はにこやかに返した。前に出ようとする綾芽を手で押しとどめ、煙霞の目を正面から見据える。
ここで逸らしてはいけない。何の勝負でもないけれど、この蛇の目を睨み返せる人間でいたい。
そう生きていかなければ、毒の鎖はすぐに立ち上がる力さえも奪い、有朱の身体を地面に押し付けるだろう。
「――はぁ」
吐息さえ聞こえる距離で、有朱は怯まなかった。
他の誰も入って来られない二人の距離に、突如としてその声は割り込んできた。
「星宮! 先生呼んでるぞ!」
両者の視線が同時に入り口に向けられた。
「――真堂君?」
真堂護が立っていた。
星宮と雲仙。桜花序列に関わらぬ御三家の重みに他の誰もが一歩を引く中、護はそんなこと知ったことかと歩いてくる。
「おいお前、今煙霞君が喋ってるんだよ」
「大体なんだよお前」
二年生たちが護を留めるように立つが、そこが好機とばかりに声を重ねる者がいた。
「真堂君! 呼んでるのは鬼灯先生?」
隣に立つ綾芽が大きな声で返事をしたのだ。
その瞬間二年生も、周囲の生徒たちもざわついた。
真堂、真堂護。高校からの外部入学でありながら剣崎王人と引き分け、ランク2と戦い、化蜘蛛を倒した一年生だ。
この桜花序列戦に名を連ねた以上、これまで噂でしかなかったものが、一気に信憑性を帯びてくる。
エナジーメイルすら使えない不適合者であり、戦果を掠める卑怯者。そして、異形の人型怪物。
あの鬼灯薫が、専攻練に取った二人目の生徒。
まさしく得体の知れない少年の登場に、二年生の壁が揺らいだ。
「ほら行くよ」
「すみません、失礼します」
その隙間に滑り込むように、有朱と綾芽は護の方へと歩いて行った。
煙霞はそれを引き留めない。
その視線の先には有朱ではなく、護がいた。
「真堂君、行きましょう」
「あ、ああ」
護の手を引こうとして、軽く触れた指先が熱く、有朱はパッと手を離した。
自分のしようとしたことに驚きを感じながら、真っ直ぐに歩く。
囁かれた毒も蛇の目も、どこかに消えてしまったかのようだった。




