覚悟
◇ ◇ ◇
教授は知恵の沼に頭のてっぺんまで沈んだ人間だ。
更なる濃さと重さを求め、新たな血肉を引きずり込み、解体する。
その沼にいるのは常に教授一人だ。
しかしこの瞬間、泥濘を貫いて鮮烈な光が教授の目を焼いた。
久方ぶりに感じる熱と痛みに、わずかに目を細めた。
「ホムラは、渡さない」
半死半生の少年だ。左腕は力を入れられないのか、だらりと垂れ下がったまま、全身を襲う痛みに身体は老人のように曲がっている。
たとえ電電蟲を受けていなくとも、変わらない。真堂護は、煉瓦の塔で鍛錬を積んだ同世代の子供と比べても、拙く、弱い。
だというのに、彼の眼光は沼の底にさえ届くほどに、異質な輝きをはらんでいた。
あるいはただの威圧であれば、教授も一瞥で切り捨てていただろう。
しかし二つの驚くべき事実が、彼の興味を引いていた。
一つは、電電蟲を受けながら立ち上がったこと。
幾度となく実証実験を重ね改良を続けてきた電電蟲の痛みは、気合や根性でどうこうなるものではない。
生物としての本能が頭の命令を無視し、肉体の動きにブレーキをかける。
その状態で動けるということは、肉体を魔法で操作しているということだ。
暴れる野獣の如き本能を、頑強な理性で支配した証拠だ。
並々ならぬ精神力。あるいは執着か。
そしてもう一つ。
真堂護が今なお放ち続けている火炎だ。それは彼を中心に嵐となって吹き荒れ、部屋を蹂躙していた。
魔法がなければ既に立っていられない熱気だ。
たしかに『火焔』は強力な魔法だが、真堂護の魔力ではこれ程の火炎を維持することは不可能なはず。
それを可能にしているのは、『強奪』の力だ。
左腕に牙を突き立てたままの電電蟲、それを魔力に変えているのだ。
進化魔法は込められた魔力の量も別格。その密度は凄まじく、大顎は炎の強化を突き破り、甲殻は捕食の牙を通さない。
だから左腕に電電蟲を絡みつかせたまま炎で縛り上げ、甲殻を炙り、削り取っているのだ。
進化魔法を、魔力貯蔵庫として運用している。
「既に思考は働いていまい。直感による判断にしては、合理的だ」
場合によっては化蜘蛛戦で見せた炎剣で、左腕を落とすという選択肢もあったはずだ。
しかしそうはしなかった。
それでは勝てないからだ。
真堂護は、勝利の為に苦痛に耐える道を選んだのだ。
ごうごうと炎が渦巻き、白い部屋を深紅に染め上げる。
直接的な攻撃ではない。炎は教授ではなく、部屋全体に広がっている。
「そうか。室内の酸素濃度を低下させるつもりか。それもまた、合理的だ」
「‥‥」
護は荒い息を繰り返しながら、教授を睨みつけた。
まともに動けない今、近接戦闘は諦めて耐久戦に持ち込もうという腹だ。
室内の酸素がなくなれば、お互いに動けなくなる。
こちらが脱出の為に出入口を開けるのが先が、護が倒れるのが先か。
「しかしそれは、満身創痍でするものではあるまい」
もはや立っていることさえ不思議な護に向けて、サンダーウィスプを放つ。
「ぐっ――」
護は爆縮に弾かれ、雷撃を避けた。それでも避けきれず、火花が脚を焼き、無様に床を転がる。
サンダーウィスプが周囲の炎に反応して拡散した。
酸素を奪うだけではなく、デコイとしての役割も持たせている。それに気付かない教授ではなかったが、護は避けながらそれを意図的に行った。
土壇場で魔法の操作性が上がっている。
「何度もつかね」
連射。
雷撃が雨の様に降り注ぎ、執拗に護を襲った。
護は虫のように地面を転がりながら、極力身体を小さくして避け続けた。時には爆縮に吹き飛ばされ、炎に身を隠し、なんとか命を繋ぎ止める。
それを幾度繰り返しただろうか。
教授は攻め手を変え、『電電蟲』に命令して護の小指を折った。
「ぁぐっ!」
停止は一瞬。左目からせき止めきれない涙を流しながら、それでも逃げ続ける。
折れない。
この男はどれ程の痛みを与えても、屈しない。
どうすれば折れる。
教授は考え、答えを出した。
「酸素を奪うのは悪い手ではない。君の再生は失った血も補完しているようだが、酸素も補完できるものなのかね。このままいけば君自身も酸欠で倒れるぞ」
「‥‥」
「それとも私が出入口を開けるまで待つか」
杖を鳴らし、教授はシルクハットのつばを持ち上げた。
そこにあるのは誰も知らぬ、あるいは本人すらも忘れた黒い面貌だ。
彼が教授と呼ばれる所以。
「私のエナジーメイルは特殊でね。ガスによる攻撃や環境の変化に対応するために、圧縮した酸素を内側に仕込んである。酸素ボンベのようなものだ。端的に言えば」
「私に酸欠はない」
「‥‥」
護は何も言い返さず、身体を起こした。
たとえこの部屋の全てが炎で包まれたとしても、教授は倒れない。間違いなく護が先に力尽きる。
折れる。
ここで折れなければならない。
実力でも戦略でも上を行き、叩き潰したのだ。
ここで折れなければ――、
「じゃあ、直接ぶちのめすだけだ」
今にも崩れ落ちそうな膝に手を着き、顔を血と涙で汚しながら、護は顔を上げた。
その瞳には、未だ光が宿っている。
――そうか。それほどか。
「ならば、命以外は一度捨てなければならない。約束しよう、必ずあとで再生する」
教授は杖を構えた。
一触即発の状況、そこへ割って入る者がいた。
護の目前に、鈍色の大剣が差し込まれたのだ。まるで彼を守るように。
「もういいでしょう。これ以上やったら、本気で死んでしまいますよ」
百塚一誠が教授を制した。
教授は煉瓦の塔の『監督者』。百塚は下っ端の一員でしかない。その立場の差で忠言を口にするのは、どれほどの重圧か。
立場だけではない。教授がその気になれば、百塚など容易く殺せる。
それでも尚そうしたのは、一度は拳を交えた仲、見ていられなかったからだ。
「いかな理由でそこに立つか理解出来ない。私のすべきことの邪魔をするのであれば、排除する」
「教授‥‥、あなたなら他にいくらでも拘束する方法が」
言葉は最後まで続かなかった。
踏み込みから捻転。
遠心力を乗せた右フックが、百塚の横っ面を殴り飛ばしたのだ。
とんでもない音がした。
その威力を示すように、百塚は独楽のように回転しながら地面に倒れた。
「はぁ‥‥はぁ‥‥」
殴ったのは護だった。未だ電電蟲に侵された体で、それでも両足で立ち上がり、百塚を見下ろす。
「なにをっ⁉」
「――せぇ」
百塚の声は護に気圧されて小さくなった。
彼を見る目は明確に怒りに満ちていた。それこそ、教授に向けるそれよりも純粋な怒りだ。
「うるせぇんだよ。さっきから何もかも諦めましたって顔で、賢しらなことばかり言ってんじゃねえぞ」
普段の彼とは比べ物にならないくらい、低く、重い声色だった。
何もかも取り繕っている余裕なんてない。胸に親指を立て、むき出しの感情が、言葉に宿る。
「俺にはなぁ、譲れない物があるんだよ! それがある限り、この炎は消えない!」
心に焼き付いたホムラとの思い出。彼女と交わした言葉、体温、約束。その全てが護の胸の中で燃えている。
右手の黒鉄が開き、雷光を纏う炎剣が現れた。
彼は知らない。音無律花が興奮のあまり伝えそびれてしまったから。黒鉄に使われた素材。その持ち主は、ランク2『黒鬼』。護が倒し、鬼灯薫が預かっていたものだ。
鬼が使った魔法は、『負荷雷光』。受けたダメージを己の力へ変換する、人間離れした耐久をもつ怪物だからこその力。
何の因果かそれを、けた外れの再生能力をもつ護が手にしたのだ。
紫電はより強く、純白に輝き、刃となった。
「さあ、続きを始めようか」
『×』を刻む右目が、教授を射抜いた。




