83. 仲直り
屋敷が震えあがった大喧嘩から一夜。ベルナールの出仕の時間になってもレオノラはまだ謝れていなかった。
朝からずっと機会を伺ってはいたのだが。食堂に入った瞬間から、目を合わせず気まずい空気を醸し出すベルナールに、こちらも切り出すタイミングが分からなくなってしまった。
それに、いざ謝ろうとしても、なんと言ったら良いのか言葉が見つからない。
うだうだと悩んでる間に見送りの為、玄関まで来てしまっていた。
「あの、ベルナール様……その…」
「昨日は!」
「へ?」
若干上擦った声のベルナールがゆっくりと振り返る。しかし視線は合わされず、気まずそうに逸らされた。
「昨日は、言葉を選ばず…悪かった…と、思っている」
「………っ!?」
途切れ途切れに紡がれたのは、間違いなく謝罪の言葉。
その事実が、すぐには信じられなかった。だって相手はあのベルナールだ。謝罪を口にするなど、天地がひっくり返ってもありえない。
これは夢か。だとしたら悪夢か?とレオノラは呆然とするが、ベルナールの眉間にグッと強く皺が寄ったことで正気に戻る。
「わ、私も!…私の方こそ、ごめんなさい。考えの足りない行動でした。その後も、色々と余計なことを言ってしまって…」
言葉を並べながらも、いまだに信じられない気持ちが大きい。まさかあのベルナールが謝るなんて。
あり得ない、と思ったのはレオノラだけではなかった様で、使用人達の驚愕する顔が目の端に映る。ニクソン含めた年配の使用人数人は、感激したのかそっと涙を拭っていたが。
反応は色々でも、全員が一斉に少しずつ距離を取り、レオノラとベルナール二人だけの空間を作っていく。一番近いニクソンでも、十歩程離れた位置まで下がっていった。
きっと、やるなら今しかない。
「あの、ベルナール様…」
「…な、なんだ?」
レオノラの次の言葉を怖がる不安そうな顔が、どうしようもなく可愛く見えた。
「よろしければ、仲直りがしたいです」
「……それで?」
「なので…仲直りの証に、抱き締め合うのはどうですか?」
「はぁっ!?」
「ギュウってするんです」
頓狂な声をあげて仰け反ったベルナールに向かって、レオノラは両手を広げて見せた。
「な、なっ!なに、を…」
「どうですか?」
目をキョロキョロさせ混乱するベルナールに、レオノラは更に腕を上げた。安心させるように優しく微笑んで、戸惑うベルナールを待つ。
すると、少ししてから漸く状況を理解したのか。ゴクリと喉を鳴らして一歩近付いてきた。
「いいんだな?」
「はい。ベルナール様がよければ」
「さ、さわるぞ。いいんだな!!?」
「どうぞ」
一歩進む度に確かめてくるから、レオノラは何度でも肯定する。そうして漸くベルナールが、すぐ目の前まで来た。
「……触っていいんだな?」
「クスッ。はい」
最後の確認を終え、おずおずと腕が伸ばされる。
背の高いベルナールが前のめりに身を屈めれば、レオノラはすっぽりと影に覆われてしまった。細くて長い腕が蜷局を巻くように、身体の周りを囲んでくる。
ーー 蛇に、飲み込まれる ーー
そんな錯覚を覚えた瞬間、ベルナールの腕に引き寄せられていた。グルリと背に回った腕に強く抱かれる感触に、レオノラも目の前の背中に腕を回す。
自分から言い出したことだが、こうやって相手の吐息を感じてしまうと心臓の鼓動が早くなる。
「……柔らかい」
「っ!?」
耳元で響いた蛇の鳴き声の様な掠れた声に、カッと熱が上がった。
おかしい。こういう時、いつも顔を赤くして焦るのはベルナールの筈なのに。
「んぅ!?」
耳の横にスリスリと頬擦りまでされて、レオノラは咄嗟に悲鳴を飲み込むが、そこで少し息苦しくなり目を白黒させた。
「っ??はっ、ふぅ…んぅ」
締め付けが強くて、息が詰まる。我慢できない程ではないが、呼吸は浅くなった。
しかも、ベルナールの腕が長い。片手はグルリと背中を回り肩を掴んでるし、もう片方は背中を通り越して腰を掴んでくる。完全に巻きつかれた所為で、僅かな身動ぎもできない。
「小さいな」
「ヒァッ!」
ゾワリと背筋を這う低い声に、成すすべなく腰が砕けてしまった。膝が崩れて倒れそうなところを腰に巻きついた腕に引き上げられる。結果、下半身が余計に密着してしまった。
(うわああああああ!!)
叫んで暴れたいのを必死に堪える。そもそも、拘束が強すぎて暴れるなど無理なのだが。
そんな殆ど宙に浮いた状態で、レオノラは「ぐっ」と息を詰まらせながらひたすらこの恥ずかしい行為が終わるのを待った。
しかし、幾ら待ってもベルナールが離れる気配が無い。十分ほど経てば流石に心配で、レオノラは恐る恐る声を上げた。
「…………ベルナール様…?」
「……」
「その、そろそろ、お仕事に…」
「行きたくない」
「はい?」
思わず聞き返した途端、ギリッと締め付けが更に強くなった。
「うぐっ、…あ、あのベルナール様?」
レオノラの戸惑った声を、ベルナールは無視した。今ここでこの柔らかな存在から手を離したら、二度と触れられなくなる不安が、どうしても拭えない。
「……離したくない……」
掠れた呼吸と、低く切な気な声がレオノラの耳に吹きかけられる。
これは一体誰だ。あの仕事と派閥争いのことしか頭にない蛇宰相はどこに行った。レオノラが目を瞬く間も、ギュウギュウと締め付けは強まっていく。
あのベルナールが、レオノラに初めて我が儘を言ったのだ。
こんな風に求められたらどんな無茶でも叶えたくなる。その理由が、相手が推しだからなだけではない気がして、レオノラはドクドクと心臓が高鳴った。
(ど、どうしよう…)
助けを求めてベルナールの背中越しに視線を彷徨わせる。が、ニクソンもケイティもその他の使用人も、戸惑ったような顔しか見せない。
「今日はもう良い。このまま屋敷で過ごす」
「ええぇぇ」
そうは言うが、彼はこの国の宰相だ。
この奇跡の様なベルナールの我が儘を叶えてやりたいが、果たして本当にそれで良いのか。
「お仕事を休んで大丈夫なら、私は良いんですけど…」
ベルナールの肩がビクリと僅かに跳ねた。耳元からも「ぐぅ」と辛そうに唸る声が聞こえる。
これは、きっとダメということだろう。
「じゃ、じゃあ、今日帰ってきたら、またこうするのはどうです?」
「………」
反応が無い。
「これから毎日。お出掛けの時と、お帰りの時にこうやって抱き合うのは?」
「……………」
またしても反応無し。
これでもダメか、と困る気持ちはあるが、それよりも頬が熱い。こんな風に心を開いて見せられて、嬉しくなってしまうのは仕方ないことだ。
「それじゃあ、今日だけは王城まで一緒に行くので、馬車の中でもこうしてましょう。それならどうですか?」
「……………いいだろう」
***
ゲルツ家の馬車が王城に着いたので、レオノラはベルナールと一緒に馬車から降りた。
移動中ずっと肩や手に回っていた腕が離れ難そうにするものだから、レオノラはまたもや負けてしまい、結局宰相執務室まで付いていくことにしたのだ。
さすがに王城で抱き締められはしないが、その代わりに手を強く握られ、エスコートの距離が普段より近いところまで引き寄せられてしまった。
離れ難いと巻きついた蔦のように密着してくる手が嬉しくて、レオノラはついニヤケそうになるのを我慢必死に我慢する。
妻を伴って出仕し、しかも手まで繋いでぴったりとエスコートする蛇宰相。
そんなあり得ない光景を目撃した衛兵達は。顎が外れるほど驚愕した。
「ゲ、ゲルツ宰相様。大変恐縮ですが、本日侯爵夫人がいらっしゃる理由はなんでしょうか」
「……なんだと?」
「ヒッ!い、いえ、その。普段の差し入れとは時間も様子も違うので、我々としては御用向きをお聞かせいただきたく」
王城を守る衛兵が、予定外の訪問者に確認を取るのは何もおかしくないのだが、今回は相手が悪かった。
「私の妻だぞ。身元は当然この私が保証している。それで問題があるのか?」
「い、いえ、それは…あの、」
「そんな当然のことが分からず、よく衛兵が勤まるものだな。所属と名前を言え」
「そんな!どうかお許しくださいぃ!」
露骨な左遷の空気に青褪めてガクガク震える衛兵の男を、ベルナールが冷めた表情で見下ろす。
このままではまずい!と、それまで黙っていたレオノラは慌てて割って入った。
「ベルナール様!お仕事があるのですから、早く行きましょう」
「……」
「ねっ。ほら、行きましょう」
繋がれた手を引いて、多少強引にその場から離れる。ベルナールもそれ以上追及する気はないのか、無言でまた歩き出してくれた。
どうやら、勇気ある衛兵を左遷の危機から救えたようだ。
チラリとレオノラが背後を振り返れば、例の彼が唖然とした顔を向けてくるので、視線だけで謝っておく。
この後、当人とその場に居た衛兵達の口から蛇宰相の蛮行を止めることができるその妻の雄姿が兵舎で語られるのだが。「いやいやまさか」と信じる者はいなかったとか。しかしその者達の中の一部は、近い将来似た様な場面に出くわし、漸く理解するとかしないとか。
そんな未来の話などまるで知らないレオノラは、とにかくベルナールが可笑しな事をしなくて良かったと安堵した。ただの八つ当たりで、評判を落としてますます嫌われるのは避けたい。
(あ、そうだ。王女様とアレク様にも謝らなきゃ)
評判といえば脳裏を過ぎるのは、つい昨日、庭園で遭遇した二人のこと。
あんな言いがかりをつけてしまったのだ。アレクはともかく、王女殿下には何かしら弁解しておかなければ。
その為にも…
「それじゃあベルナール様。私はここで」
宰相執務室の前で、レオノラはここまでだとベルナールを見る。この後王城内を少し探せば王女殿下が居るかもしれない。
それに、レオノラがベルナールに付いていけるのはここまでが限界なのだが。
ベルナールが手を離してくれない…
「さすがにこれ以上は…お仕事の邪魔になりますし」
「分かっている」
全く分かっていなさそうな顔に、レオノラまで名残惜しくなってしまう。無理に手を引き抜くのも躊躇われるので、執務室の前で無言で立ち尽くすという奇妙な時間が流れていたのだが。
「あぁぁ!ゲ、ゲルツ宰相様!!」
廊下の向こうから響いた声に、レオノラはビクッと肩を揺らした。
「いったい何なんですか!昨日は急に帰るって言って。あの後僕がどれほど大変だったと…」
髪や服が乱れたクリスがフラフラと覚束ない歩調で、レオノラの横のベルナールを睨みつけてくる。
しかし何かを思い出したのか、すぐにハッとして背筋を正した。
「そ、それどころでは…つい今しがた、使いの方が居らして」
「誰の使いだ?」
「ですから!王女殿下が、レオノラ様をお呼びです!」
思わず「はっ?」と漏れたレオノラの間抜けな声が、荘厳な王城の廊下に響いた。
蛇宰相、駄々を捏ねる
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