82. 大喧嘩
逃げるようにゲルツ邸へ帰ってきたレオノラは、自室のソファの上で痛む頭を押さえていた。
あれはどう考えても自分が悪い。
通常であればまた違っただろう。けれど今はレオノラの「触れるな」宣言があり、ベルナールもそれをヤキモキしつつ守っていた。だから、こちらも配慮は必要だったのに。
いや、アレクとのあれは決して意図した訳ではない。タイミングが悪かっただけ、と思わないでもないが、それでも責任はレオノラにあるだろう。
「ちゃんと謝ろう」
それしかない。
そう思って謝罪の言葉を考えていると、ふいに廊下の方が騒がしくなった。
「だ、旦那様!ここは奥様のお部屋です。どうか、気をお静めに…」
「下がれ!暫くは誰も近づくな!!」
廊下から声が聞こえてすぐ、荒々しく部屋の扉が開かれた。バン!と乱暴な音に慌てて顔をあげれば、怒りの形相のベルナールがこちらを睨みつけている。
ただならぬ事態に身を強張らせると、ベルナールの背後の廊下に顔を青褪めたケイティが見えた。しかし、その姿もすぐに閉められた扉の向こうへ消えてしまう。
「ベルナールさ、ま…」
何故彼がここに?仕事はどうしたのだと、疑問が頭を占める。
なにせレオノラが帰宅してからまだ一時間ほどしか経っていない。
居る筈のない存在に呆然としていれば、乱暴な足取りで近付いてきたので反射的に後ろに一歩下がった。そのまま二歩、三歩と続ければ、あっという間に壁際に追い込まれてしまう。
背が壁に当たって、これ以上は下がれない。逃げ場のない状況に「あー」とか「うー」と言葉を選んで失敗していると、顔の真横からガッ、と鈍い音が響いた。
「うぁっ!?」
壁に手を付いたベルナールの顔が、すぐ真上にある。その表情はどこまでも冷たく、怒りと侮蔑が混ざったように歪んでいた。
「先ほどは、随分と楽しそうだったな」
ゾクリと冷気が首筋を撫でるような声に、反射的に肩が跳ねる。
「王城の庭園で逢引きとは、手が込んだことだ。私への差し入れもその為の方便か?」
「なっ!?ご、誤解です。あれはたまたま会っただけで…」
とんでもない嫌味に頭がカッと熱くなった。アレクを嫌っているのは百も承知だが、この言い草はあんまりだ。
咄嗟に叫びそうになったが、レオノラは必死に言葉を飲み込む。
悪いのは自分。謝るべきは自分なのだから。ここは冷静にならなければ。
アレクと逢引き云々は八つ当たりみたいなもので、ベルナールが本気でそう思ってる訳はない。そう己を納得させ、落ち着いた声が出るように努める。
「……本当に、ごめんなさい」
静かに耳に届いた言葉に、ベルナールは息を飲んだ。
弁解よりまずは謝罪を、というレオノラの考えは伝わらず。むしろ、それはアレクとの仲を言い当てられたことに対しての謝罪の様に聞こえたのだ。
「…えっ?」
レオノラがほんの僅かに空気の揺らぎを感じたのと同時に、すぐ真上にあったベルナールの顔が更に近付いた。
少し動けば唇が触れそうな距離のせいか、ギリッと鈍い歯ぎしりの音まで聞こえる。
「そんなに、あの男が良いのか」
怒りと同じくらい、声に苦しみが滲む。
「貴様もどうせ、あの男と一緒になりたいと言うんだろう」
覗き込んでくる緑眼は、まるで仇でも見るかのように憎らし気だ。そのどこまでも暗く切実な色が、ベルナールが本気でそう思っていることを語っていて。
それを理解した瞬間、レオノラの中でさきほど沈めた筈の怒りが今度こそ爆発した。
「バカなこと言わないで!!」
グワンと耳を突き抜ける程の怒声。唇が触れそうな距離でそれを食らったベルナールはたまったものではない。流石の蛇宰相も、急な衝撃に目を白黒させ数歩後退した。
よろめきながら離れていった距離に、レオノラは多少の余裕を取り戻す。
キスしそうな距離とか、壁ドンとか、凄く怖い凶悪な顔とか。ちょっとトキメキそうだったのに全部がもうどうでも良い。
今の言葉はレオノラのこれまでに対する侮辱に他ならない。
ベルナールに向かい合い、ダンッ!と片足を床に叩きつけて応戦の体勢を構えた。
「あの男が良いってなによ!あの男もその男も無いでしょう!私はずっと、ベルナール様と関係を結ぼうとしてきたじゃないですか!」
「わ、私に触れさせないクセに、あの小僧に髪を触らせたのは貴様だろうが」
「ただゴミを取って貰っただけです!そもそも、先に『要らない』なんて言ったのはそっちでしょう!」
そこは指摘しないよう配慮していた所だが、もう知るか。あんな風にレオノラのこれまでを否定するなら、こっちだって我慢しない。
口から飛び出す言葉は、既に遠慮も何もかなぐり捨てたものだった。
「せっかく進展しそうだったのに、そっちが先に拒んだのが悪いんじゃない!」
「だから、私にはもう二度と触らせなくても仕方ないと。そう言いたいのか!?」
「二度となんて言ってない!暫くって言いましたよ!」
「あたかも二度と触れるなと言わんばかりだっただろうが!」
「そんなことない!そもそも、私だっていちいち拒否したり意地悪言ったりするのは楽しくないんです。それでも、貴方とちゃんと夫婦になりたいから、気持ちを通わせたいから私なりにどうすれば良いか模索してるんじゃない!ベルナール様にされてきたことに比べれば大したことないのに、なんでこんなに罪悪感を感じないといけないんですか!」
「だったら止めたら良いだろう…」
「そっちの態度が悪かったからこうなってるんでしょうが!」
これだけ言って理解しないのか、とレオノラが鋭く相手を睨む。
強い視線を受け止めたベルナールは怯むかと思いきや、こちらも剣呑な目つきで忌々し気に顔を歪めた。
「だったらそっちはどうだ!?一番初めに、私は関わらなくて良いと言った。なのに頭のおかしな理由でしつこく近付いてきたのは貴様だろうが。それで私の気持ちを変えておいて。かと思えば突然手のひらを返して拒絶する貴様はなんなんだ!?」
そんな戸惑いが、ずっとベルナールの中にあった。
あれほど夫婦になりたいと言っていたのに。「好きだ」「素敵だ」と、好意の言葉を向けていたのはレオノラなのに。
家出した彼女を追いかけ、色々とぶちまけてしまった時に「好きではない」と言われ、そこから急に態度を変えられた。
その時は必死だったので言われるまま流してしまったが、ずっと不安だったのだ。
「それは、ベルナール様が急に訳分からないこと言うから!…本当かどうかも分からないのに」
「なんだと!?」
「大体、気持ちがなんて言いましたけど、結局は『要らない』なんて言うんじゃないですか!」
そう言ってしまったが、あれがベルナールの本心からの言葉でないことはレオノラとてもう分かっている。しかし、頭に血が昇った状態では、言葉を選ぶ理性は残っていない。
「そんなだから、結局私のこと好きかどうかだってまだ分からないんですよ!」
「だから、好きだと言ってるだろうが!」
カチンッ!とレオノラの頭で鐘が鳴った。
「一度も言ったことないでしょうが!!!」
「はっ?」
レオノラの叫ぶような声にビリビリと部屋が震えた。
なのに、返ってきたのは間の抜けた声で、レオノラはふと我に返る。そして目の前のベルナールは、ぽかんと放心していたかと思えば、見る見る顔を赤く染め上げていった。
「あ、ちがっ!これは…」
何か、取り返しのつかない過ちを犯したかのような焦りよう。その間もどんどん顔は赤みを増していき、耳や首まで真っ赤だ。片手で顔を覆っているが、潤んだ目もへにゃりと曲がった口も、まったく隠せていない。
「これは…別に、そういう……いや、言うつもりは……か、考えていただけで」
焦りからかしどろもどろに言い訳しているが、己の瑕疵を余計に増やしていることに気付いていないのだろうか。
狼狽えるばかりのベルナールに、レオノラも思わず呆気に取られてしまった。
「考えてただけって……」
言うつもりはないとは、なんだそれ、と本来は腹が立つ所の筈なのに。
言葉を理解すると同時に羞恥心が胃からせり上がってきて、じわっと頬が赤くなる。
(あ、ダメ。ダメだこれ…)
元からベルナールの赤くなった照れ顔には弱いのに、あんなことを言われたらたまったものではない。
それではダメだ、とレオノラは己を奮い立たせ、必死に言葉を探す。
「か、考えてるだけならやっぱり言ってないじゃないですか!」
「言ってるも同然だろうが!!」
「言葉にしなきゃ言ったことになりませんよ!」
「だから、似た様なことを言ってるだろう!」
「似た様なことだって言ってないじゃない!いつそんなこと言ったんですか!」
「食事に誘っただろうが!」
「だからなんだって言うんですか!」
双方顔を真っ赤にして、売り言葉に買い言葉で「言った」「言ってない」と繰り返し喚き散らす姿は、ただの意地の張り合いだ。
そのまま支離滅裂になっていく言葉の数々に、レオノラはこれ以上は良くないと首を振った。
「も、もういいから出てってください!」
「なっ!お、おい!なにを!?」
「今はこれ以上お話したくないので!続きは明日にしましょう!」
「おい!!」
グイグイとベルナールの背中を押して、廊下の外へ追いやる。そのまま何か叫び続けるベルナールを無視し、レオノラはバタンと扉を閉めた。
その途端、足の力が抜けてズルズルと床に座り込む。頬に手を当ててみれば予想通り、とてつもなく熱かった。
「危ない…許しちゃうとこだった」
「好きだ」などと言われたことはないのに。まるでいつも言っているかのような勢いだった。
まさか、それだけいつも考えていたのか、と思うのは良い方に捉えすぎだろうか。
それ以外にもなんだかんだ言われた気がする。最後の方は何を言い合ってるか分からなくなるほどレオノラは頭が回っていなかったが。そこはベルナールも同じだったような気がする。
少しで良いから冷静にならなければ、と深く息を吐き出した。
「……明日、ちゃんと謝ろう」
そこだけはしっかり心に決める。
そうして落ち着けるかと思いきや、レオノラは今度はとある失敗に気付き、ハッと顔を上げた。
もしや、さっき自分は、とてつもなく惜しいことをしたのではないだろうか。
「……ベルナール様の顔、じっくり見てない」
壁ドンでキスできる距離まで顔を寄せられたのに。
色々と少しずつ違うが、あれはもしやレオノラが願ってやまない王女殿下を我が物にせんと無理やりキスを迫る蛇宰相の、“ヒロインのトラウマ”シーンに値する瞬間だったのではないだろうか。
いや。顔はゲス顔ではなく、めちゃめちゃ怒った凶悪な顔ではあったが。
それにキスを迫られていたのかも分からない。というより、キスの距離で飛んできたのは嫌味だったのだから、違う可能性が高い。
しかし、悪役顔がキスの距離まで迫ってきたことに変わりはない。
「ああああ、私のバカぁぁぁ!」
それどころではなかった為、じっくり鑑賞ができなかった。それでも覚えている限りでは、目の前まで迫ったベルナールの凶悪面は、心臓が止まるほどかっこよかった。
筈なのだが…
「もったいないことしたぁぁぁ!」
まさかこんな形で、この世で一番見たかった瞬間が来るとは思わないではないか。しかもその相手が自分になると、どう予想しろと言うのか。
一世一代の機会を棒に振った悔しさに悶え、レオノラは自室のベッドに倒れこむ。
そうしてベルナールの事を考えれば、「好き」と言われたも同然の羞恥が再び思い起こされてしまう。
レオノラはそのまま、後悔と羞恥が混ざり合う奇妙な感覚に、バタバタとベッドの上で数時間悶絶することになったのだった。
言ってないよ、蛇宰相
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