81. 風が吹けば
空気を切り裂くような緊張感に、レオノラはハッと振り返る。
視線を向けた瞬間、温度をまるで感じない冷たい緑眼と目が合い、その奥から漂うただならぬ空気にサッと血の気が引いた。
(あ…ダメだ、これ…)
王城の外回廊と庭園の境目に立つベルナールは、口元に薄っすらと取り繕う時の笑みが張り付いているのに、瞼がピクピクと不自然に痙攣していた。
抑えきれぬ怒気を纏った様子に、レオノラは胃が痛くなる。何をどう考えても、これは自分が悪い。
「あ、あの…ベルナール様」
「フェザシエーラ公爵令息。なぜ私の妻に触れるのか、説明して貰おうか?」
レオノラの言葉は見事なまでに無視されてしまった。
底冷えする様な低い声を発したベルナールの、薄い笑みはピクリとも動かない。蛇がにじり寄る様に歩いてくるその迫力に、急に矛先を向けられたアレクもビクッと肩を揺らした。
「あ、あぁ。これは、風で…夫人の髪に木の葉が…」
「自分で処理させれば良いところを、わざわざ私の妻に触れる必要がどこにある」
「いや、その…触れたというほどでは…」
これまでに見たことのない蛇宰相の様子に戸惑ったのか、アレクも言葉が若干弱い。
僅かに冷や汗を流すアレクの横で、レオノラも大いに焦っていた。
どう弁明すれば良いのか、必死に考えるのに思考がから回る。
「あ、あの、ベルナール様…」
とにかくなんとかしなければとそっと呼びかければ、瞳孔が開いた緑眼が睨みつけてきた。次の瞬間、大きな手がレオノラに向かって伸ばされる。
しかし、その手はレオノラの手首を掴もうと触れる寸前でピタリと止まった。
「……チッ!」
まだ「触れるな」宣言を守っているのか、短い舌打ちと共に手が離れていく。
「ベルナール様…」
「貴様は今すぐ帰れ」
「あ、う…その………はい」
最近は“お前”呼びだったのに、“貴様”に戻ってしまった。
地割れかと思うほど低く、苛立ちを隠せていない声に、レオノラは了承するしかない。
セラフィーネ王女とアレクにこんな状態のベルナールを見せたままにしたくはないが、この場での解決は無理だ。
王女殿下に変に思われたくないが、説明は日を改めるしかない。
「では王女殿下、フェザシエーラ様。失礼いたします……王女殿下、よろしければ、いずれまたお話を…」
「はい!ゲルツ侯爵夫人。是非、今度はゆっくりお礼をさせてください」
思いのほか明るい声が返ってきた。見れば王女の顔は、まるで何かを期待する様に、頬が若干上気している。
この状況でなぜ嬉しそうなのだろう。
一瞬疑問が脳を掠めるが、今はそんな場合ではない。
レオノラは、不敬にならないギリギリに手早く淑女の礼をすると、その場に背を向けた。未だ恐ろしいオーラをまき散らすベルナールを置いて。
「フェザシエーラ公爵令息殿としては、王女殿下の御前で他人の妻と随分慣れ慣れしいようで」
「い、いや!だからこれは誤解で…」
「その様な不埒者が彷徨くなど城内の品性も落ちたものだが、私の知ったことではないな。どこぞの小僧と違って私は忙しいので、失礼する」
不穏な会話が背後から聞こえてきたが、レオノラにはどうしようもない。セラフィーネ王女達に対しても、そしてベルナールに対しても申し訳ない気持ちで一杯になりながら、声にならない悲鳴をあげて逃げるように足を動かすしかなかった。
***
ただならぬ雰囲気で辛辣な嫌味を言い放ったゲルツ宰相が庭園から完全に消え去るまで、アレクは動けなかった。
彼とはこれまで何度か衝突してきたが、こんな風に肝が冷える暗い怒気を向けられたのは初めてで、どうにも衝撃から立ち直れない。
あれがゲルツ宰相の本気の迫力なのか。もしそうなら、今まで自分と衝突した時に向けられた敵意など、単なる子供騙しだったのでは。
政略の上で蛇宰相に幾ら睨まれようと、自分なら渡り合えると思っていたが、間違いだったかもしれない。
手足の先から下がった体温が戻らず、ほんの僅かに背を震わせるアレクだったが、ふいに横から「クスッ」と笑う声が聞こえてきた。
「フィーネ?」
「アレク様見ました?宰相様ったら、ヤキモチ焼いてましたね」
「はっ?」
楽しそうな微笑みと共に言われた言葉が理解できず、アレクは間抜けな声が出てしまった。
「今、なんと言った?」
「だから、ヤキモチですよ」
「……?」
「ハァー。宰相様が怒ると本当に怖いですね」
怖い、と言いながらセラフィーネの表情に緊張はない。アレクは、あの今にも首を締めてきそうな眼光を思い出してしまい、未だに粟立った腕が戻らないのに。
「ヤキモチなのか?そんな風には見えなかったが……どうしてそう思ったんだ?」
「だって……」
純粋に疑問に思って聞けば、セラフィーネが恥ずかしそうに俯いた。
「私も、ちょっとだけヤキモチ焼いたから」
ほんの少しだけ、拗ねた様な声に、アレクがパチパチと目を瞬く。そしてどこか縋る様な瞳で見上げる美少女の姿に、下がった筈の熱が途端に頬に戻ってくるのを感じたのだった。
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