80. 風の悪戯
謝りながら駆け寄ってきた美少女、セラフィーネ王女の可憐な姿に、レオノラは咄嗟に淑女の礼を取った。
「あ、ゲルツ侯爵夫人!」
「これは、王女殿下。本日もご機嫌麗しく」
「ごめんなさい。刺繍の課題が風で飛んでいってしまって」
申し訳なさそうに瞳を揺らすセラフィーネ王女の視線は、レオノラが掴んでいる小さな布に向けられている。慌てて確認すれば、布はハンカチだったようで、全体に丁寧な刺繍が施されていた。
「しっ、失礼しました。王女殿下の大切なものを、乱暴に掴んでしまって」
「そんな!私が飛ばしてしまったのが悪いので。侯爵夫人にお怪我などありませんでしたか?」
「私は大丈夫です。こちらはお返しいたしますね」
セラフィーネ王女が近道で裏庭を通ろうとしたところで、淑女教育の為に刺繍したハンカチが風に飛ばされてしまったのだ。
ハンカチを顔面で受けとめることになったレオノラは、それを丁寧に畳んでセラフィーネ王女に返した。
柔らかく「ありがとうございます」と言ってセラフィーネ王女が受け取ったところで、後ろから「フィーネ!」と心配した声が追いかけてきた。
声の方へ視線を向ければ、王子様の様な美青年が、早足なのに優雅にこちらへ駆けてきた。
「アレク様!」
「セラフィーネ殿下、刺繍が見つかった様で良かった。でも急に走り出したら心配するだろう」
「ごめんなさい。ゲルツ侯爵夫人が拾ってくださったんです」
「そうだったのか。侯爵夫人、私からも礼を言いたい。感謝する」
顔だけはレオノラを向きながら、アレクは王女殿下の小さな手をハンカチごとキュッと握った。
絵になる美男美女のそんな姿だけでも麗しさに目が潰れそうだが。レオノラはアレクが、「フィーネ」と王女殿下を愛称で呼んだ声をしっかり聞いている。これは『二人きりの時は愛称で呼んでもいいか?』イベントを済ませた後なのでは。
着実に二人の仲は進展している。
初々しい恋人達を見るのは嬉しいが、果たしてこれはベルナールの破滅回避に近づけているのか。
曖昧にレオノラが微笑みで返事をしたところで、王女がアレクから一歩離れておずおずと姿勢を正した。
「あの!ゲルツ侯爵夫人…それで、こんなところで言うのも何なのですが。次にお会いできたら、またお礼を言わなきゃと思っていて」
懸命さが伝わるような真剣な声に、レオノラは首を傾げた。少し考えてみるが、何も身に覚えがない。
「この間の舞踏会で、アレク様と庭園で踊ったんです。そしてそれが、ゲルツ侯爵夫人のご提案だったって、アレク様から後で聞いて」
「えっ!?」
レオノラは咄嗟に、王女の隣に立つイケメンに視線を向けた。当の本人は輝く美貌に穏やかな笑みを浮かべ、「その通りだ」と言わんばかりの顔をしている。
そこは本来カッコつける為に黙っておくべきところだろう!と、内心で思い切り突っ込むが、真面目で清廉で律儀な公爵令息は、そんなことはしないらしい。
「私、あの日は本当は少しだけ落ち込んでて。アレク様にたくさん練習に付き合って貰ったのに、それが全部ダメになった気がしてて。だから、ゲルツ侯爵夫人のご提案に、本当に救われたんです。だから、どうしてもお礼が言いたくて」
健気に瞳を潤ませるセラフィーネ王女は、天使かと思うほどに可愛かった。そんな風に見つめられたら、アレクに手柄を譲りたくともそうは言えなくなる。
「身に余るお言葉ですわ。日々、努力をされる王女殿下にとって、あの夜が少しでも良い思い出になったのであれば、これ以上の喜びはございません」
「わぁぁ。ゲルツ侯爵夫人の様に素敵でお優しい人が奥様で、宰相様も幸せですね」
「ん˝っ!?…」
唐突なベルナールの話題に、レオノラは変な声を咄嗟に飲み込んだ。何か意図があるのかと王女殿下を観察しても、無邪気に笑う表情には蛇宰相に対する嫌悪感はない。
「そういえば、今日侯爵夫人は宰相様を尋ねていらっしゃったのですか?」
「あ、あの…はい。お弁当を差し入れに」
「お弁当…??」
小鳥の様にコテンと首を傾げた王女殿下に、急にアレクが割って入る様にその華奢な肩をそっと抱き寄せた。
「ゲルツ侯爵夫人は週に二回、宰相殿に差し入れを届けているんだ」
「まぁ!」
「それも、侯爵夫人の手製らしい。本当に、素晴らしい献身だ」
言葉では称賛しているが、アレクの頬はほんの僅かに引き攣っている。こちらは王女殿下と対照的に、唐突な宰相の話題に若干の嫌悪と戸惑いがある。
今の会話も、「幸せ者な宰相殿」から「献身的な侯爵夫人」に話題を移そうとしている様にも聞こえる。
しかし王女殿下は気付かないのか、更にパァッと顔を輝かせて強烈な一言を放った。
「素敵!愛妻弁当ですね」
『ブフッ!』と笑い声が後方で待機する王女の護衛達から聞こえたが、レオノラにはどうすることもできない。
王女殿下の言う通り、レオノラのそれは愛妻弁当、という奴なのだろう。
王城の衛兵達に困惑されていた時は平気だったのに。純粋な瞳で言われたその響きが妙に気恥ずかしくなり、レオノラは早々に矛先を変えねばと妙な焦りが湧いた。
「もしよろしければ、王女殿下もお作りになられるのは如何でしょう?きっとフェザシエーラ様もお喜びになるかと」
「えっ?」
途端にアレクの驚いた声に、何か間違えただろうかとレオノラは不安になる。
「ゲルツ侯爵夫人。王女殿下が厨房に立つというのは…」
「あっ、」
たしかに王族は、本来は貴族もだが、料理などしないものだ。レオノラは”夫への差し入れ”を言い訳にしているが、セラフィーネ王女ではそうもいかない。
流石に空気を読めない発言だったかもしれない、とレオノラは咄嗟に言葉を探した。
「それは、その…」
「あ、あの!」
可憐な声に遮られ、レオノラは言葉を飲み込んだ。そのまま視線を声の主に向ければ、アレクも同様に、肩を抱いたままの王女の顔を覗き込んでいる。
「セラフィーネ殿下?」
「その、私が…アレク様にお弁当を作ったら、迷惑でしょうか?」
「え…?」
勇気を振り絞った声に、アレクは驚きに目を瞬く。しかしそれも一瞬で、懸命にこちらを見上げる澄んだ瞳に正気を取り戻すと、ふわりと蕩けるような笑みを浮かべた。
「迷惑だなんて、とんでもない。すごく嬉しいよ」
「じゃあ、今度作りますね。料理は小さい頃からやってたから得意なんです」
「あぁ、楽しみにしている」
幸福に満たされた笑みで見つめ合う二人。まるでそこだけこの世から切り離されたかの様な、神々しいまでに美しい空間。
そんな光景にレオノラが見惚れてぼうっとした瞬間。
一陣の強い風がその場を通り過ぎた。
「きゃぁ!」
「フィーネ!」
ブワッと通り過ぎた風に乗り、木の葉がその場で舞い踊る。
咄嗟に耳元を通り過ぎた風の音に驚いたセラフィーネが短く悲鳴を上げれば、アレクがその華奢な身体を守る様に引き寄せた。
そんな悪戯な風が通り抜けた後、セラフィーネ王女を強く抱いたアレクが、そっとその体を離す。
「ありがとうございます。すみません。大袈裟に驚いてしまって」
「いや。大したことなくて良かった……あ、セラフィーネ殿下。髪に葉っぱが」
「えっ!?」
「動かないで」
まるで宝物に触れるような、優しさと慈しみの篭った手付きで、アレクが王女の赤い髪の間の葉を取り除く。
その光景に強烈な既視感を覚え、レオノラはうん?と首を傾げた。
光景…というよりも、この展開だろうか。どうにも覚えがある気がする。
「ほら、取れた」
「わ、三枚も。こんなにくっついてたの?」
クスクスと笑い合う美男美女だが、そこで漸く、もう一人の存在を思い出したようだ。「あっ!」と気まずい声が重なった。
「ゲルツ侯爵夫人…その、貴方は、大丈夫か?」
「いえ…そんな大したことじゃないので。平気です」
微妙な空気が気まずい中、レオノラは直撃した風に巻き上げられ、ボサボサに乱れた髪を梳いて直した。
思いっきり王女殿下を庇った後で、二人っきりの世界のイチャイチャを見せつけたのだから、そりゃ気まずいだろう。
誰にも守って貰えず、風の猛攻に晒されたレオノラは全身に木の葉が纏わりついている。
とはいえ、アレクが想い人のセラフィーネ王女を守るのは当然なので、別にレオノラとしては不満はない。それよりも、この正体不明の既視感の方がよほど気になる。
「侯爵夫人、手伝おう。後ろにもついている」
「あ、いえ。お気になさらず」
「そうもいかない…あ、ほら。ここだ」
律儀で清廉な王子様タイプとして、この流れはバツが悪いのか。罪滅ぼしの様に髪に絡まった葉を取ってもらう。
そこで漸くレオノラは、“風の強い日に攻略対象がヒロインの髪から葉っぱを取る”流れへの既視感の正体に思い至った。
(……あ、そうだ!これミニイベントだ)
既視感の正体はゲームの画面だった。
スチルは無い。ボイスも無い。ただ立ち絵と会話のみで展開が繰り広げられる。短い数行の文章。
王女殿下のステータス上げ作業の合間に幾つか挟まれる、ほんの僅かな攻略対象達とのひとコマ。
ゲームの進行上に少しだけ変化を付けるのが目的で、強い印象は残らない。それをレオノラがしっかりと覚えていた理由は一つ。
ミニイベントでは滅多に登場しない蛇宰相が、珍しくバッチリと現れる回だったから。
「……何をしている」
背後から響いたゾクゾクと背筋を凍らす声。
その瞬間、レオノラは己の失態を悟り「しまった!」と内心で悲鳴をあげた。
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