78. 仕返し
清々しい朝の空気が蒸発するほど気まずい緊張感が食堂に流れる中、レオノラは貼り付けた笑みのまま朝食をつついていた。表情こそ笑顔だが、心の中ではいつベルナールのお仕置きを宣言しようかとタイミングを計っているところである。
そんなレオノラの視線の先では、ベルナールが目を彷徨わせながら、何かを言おうとしては失敗して、また口を開いては閉じ、を延々と繰り返している。
気まずい雰囲気にレオノラもなかなか切り出せずにいたのだが、いつのまにやらデザートまで終えてしまった。このままでは、ベルナールは仕事へ行ってしまう。と、覚悟を決めて、レオノラは顔を上げた。
「ベルナール様、昨日の件ですが」
「な、なんだ!?」
ビクッとベルナールが怯えた様に肩を震わせるが、だからといってここで怯んだりはしない。
「どうもベルナール様は私に触りたくないみたいなので…」
「ち、ちがう!そうでは…」
「なので!暫くは、私に触れないで結構です」
「はっ!?」
「指一本、触らないでくださいね」
違う、と弁明を挟んで来ようとしたベルナールに負けじと、言葉を被せてレオノラは宣言した。これが、昨日一人で考えた今回の仕置きだ。
しかしその宣言の意味が分からないとばかりに、ベルナールは困惑気味に目を瞬かせる。
「な、なぜそんなことになる!?」
「昨日、“要らん”って言ったのはベルナール様ですよ」
「それは、言ったが…言った…が、……」
呆然としたベルナールの顔色がサァッと病人以上に青くなる様に、レオノラの胸を罪悪感がチクリと刺す。この様子を見れば、彼が本当に嫌がっていた訳ではないことは分かった。
しかし、レオノラもそれなりに心を決めて”髪に触れる”という恥ずかしい行為に同意したのに、それを目前であんな風に「要らん」と拒否されたのだ。照れだろうが、恥ずかしさだろうが、理由が何であれ安々と許すこともしない。
レオノラのツンとした態度に焦ったのか、ベルナールの口元がわなわなと震えだした。
「ま、まったく触れないなど無理だろう。たとえば…エスコートの時はどうするつもりだ!?」
「エスコートもしないでください」
短くバッサリと切り捨てる。
そもそも、エスコートが必要だった機会など、これまで数える程度しかなかったのだから、その言い分は苦しい。そう考えると、これまでの生活を振り返り、何の支障も出ない事に気付いた。
「普通に、なんの問題もありませんね。これまでまったく触れ合ったりなんてしてこなかった訳ですし」
「うぐっ!」
喉を絞められた様な呻き声をあげてベルナールは俯いてしまった。
顔は下を向いたまま、言葉を探すようにギョロギョロと彷徨う緑眼から逃げるように、レオノラはフイッと顔を逸らす。
普段の生活では手も触れない関係なのだから、これまでと何も変わらない。とはいえ「触れるな」と敢えて言われてしまえば多少なり胸がざわつくのが人の性だろう。
そうやって二週間ほどは、ちょっとヤキモキしてれば良い。
と、レオノラとしてはこれは良い塩梅の仕返しだと思っているのだが。
しかし、どうやってもう一度触れる許可を貰おうか、と一晩中悩んでいたベルナールとしては目の前が真っ暗になるほどの報復措置だった。
髪に触れられたなら、手を握ったり、肩を抱いたりしても良いのだろうか。などと妄想も膨らませていたものだから、その萎んだ期待がズンと胸に重く圧し掛かる。
「ち、違う…要らんとは言ったが、別に…触れたくないとは言ってないだろう」
「触らないでください」
「うっ…」
取り付く島もなく切り捨てるレオノラは、そういえば同じような言葉を聞いた記憶が、ふと脳裏を過ぎった。弁当を初めて差し入れた時も、たしか全く同じことを言っていた。
どちらにしろ屁理屈も良いところで、情けなく俯く姿は、とても国を背負う蛇宰相には見えない。
もしや言い過ぎただろうかとレオノラの胸に更に棘が刺さる。思わず心配の声を掛けたくなるが、そもそも酷い事をされたのはこちらだし、そんなに大した仕返しではない筈、と口元を引き結んだ。
あまりにも気まずい空気に、レオノラが救いを求めるようにニクソンを見やると、老紳士執事が小さく頷いてくれた。
「旦那様。そろそろ出仕のお時間です」
「…………」
「お時間です」
動こうとしないベルナールをニクソンが再度促せば、渋々と言った様子でゆっくりと立ち上がった。それでも往生際悪く、ノロノロと足を重くさせるので、ニクソンが繰り返し急かして玄関へ追い立てる。
レオノラも立ち上がって見送りの為に後ろをついていくのだが、チラチラと情けない視線が何度も投げ掛けられて若干憂鬱になる。
自分が酷いことをしている気になるのもそうだが、レオノラ自身もこれがベルナールの好意を前提にした仕返しなのを理解しているからだ。
別に触れたくもない相手なら、こんな条件は痛くも痒くもない。にも関わらず、それを仕返しと思って宣言したのだから。
ベルナールからの好意を、信じられないから、夫婦関係の行き先を様子見していることになっているレオノラとしては、大きな矛盾だ。
かといって、なら昨日の事を許せるのかと聞かれれば否だし、はっきり言えば、まだまだベルナールをヤキモキさせてやりたい。
(まぁ、良いよね)
触るなと言っただけでそこまで実害もなければ、事実上これまでと何も変わらないのだから、程よく焦らすのに丁度良いだろう。
と、胸の罪悪感を押しやったレオノラには、ベルナールがこれでどこまで思い詰めることになるのか、予見できなかったのである。
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