77. 御礼なら
うつらうつらとレオノラが目を閉じる間も、舞台はゆっくりと進んでいく。場面の合間にフッと意識を浮上させ話の展開は追いつつも、やはりまたすぐ目が閉じてしまう。時々ベルナールの様子も伺うが、彼も同じようなもので、眠っていたり薄っすら目を開けていたり、といった感じだった。
そんなことを繰り返す間に、物語はようやくクライマックスを迎えた。この辺りで眠気も収まったレオノラと、同じく覚醒したベルナールも開いた緑眼で物語の結末を見守っていた。
舞台の上では、本日の主役である男女が手を取り、お互いの幸福の為に別々の道を行くべきだと、嘆きつつも力強く訴えている。
お互いに愛し合った日々の思い出を糧に、それぞれの人生を応援し合う。最後の瞬間まで名残惜しそうにしつつ、別々の道を歩むように舞台から消えていく二人。
切なくも希望を残した結末に、途端に会場から盛大な拍手があがった。
やはり悲恋は好みでこそないが、情緒たっぷりに演じてくれた役者達にはレオノラも敬意と拍手を送る。
しかしチラリと確認したベルナールはそうではなかった様子で、ギョロッと眼光を鋭く光らせ、先ほどまでうたた寝していたことが嘘の様に、険しい顔で舞台を睨みつけていた。
かと思えば、まだ拍手が鳴りやまない中スッと立ち上がってしまった。
「ベルナール様?まだアンコール中ですよ」
「支配人に抗議してくる」
「へっ!?」
「明日から演目を変えさせる」
とんでもない事を言ってそのまま部屋を出ようとする男を、レオノラは咄嗟に腕を掴んで止めた。
「なっ!?なに言ってるんですか!いくら話が気に入らないからって」
やはり最初に危惧した通り、悲恋ものであることは知らなかったようである。そして、やはり今、この手の話題はタブーだったようだ。
「それだけではない………お前も、退屈だったのではないか?」
「へっ?」
「…所々寝ていた」
「あぁ、えっと…」
所々ではなく、ほぼずっと寝ていたとは言わないで置く。
気まずそうに目を逸らしたレオノラに、ベルナールはますます眉間に皺を寄せた。
「明日は違うものを上演させる」
「え?ええ!な、なんでそんな!?」
今にも扉を開けようとするベルナールを、レオノラが後ろから腕を引いて必死に止める。
しかしベルナールはよほど動揺しているのか、口元がわなわなと震え、不穏な気配をまき散らしていた。
「もっと別の…何か、お前が楽しめるものに変えさせる」
「いやいや。ちょっと待ってください!」
「少し待ってろ。すぐに済む」
「だから、待ってくださいってば!」
突っ込みどころ満載なベルナールをレオノラが全力で引っ張ると、漸く止まってくれた。その隙を逃さず、レオノラはしっかり彼の緑眼を強く見据える。
「劇は確かに好みではありませんでした。でも、これはこれで十分楽しかったから良いんです」
「はっ?」
「とにかく、今日は帰りましょう」
ベルナールが先程の言葉を本当に実行してしまってはたまらない。「行きますよ!」と腕を絡めて、多少強引に引きずって席を離れた。
廊下を通りロビーに出た頃には、腕を絡めて連れ立ってスタスタ歩く蛇宰相とその妻に、唖然とした視線が集中する。なにせ腕を絡めているのだから、通常のエスコートよりも距離が近い。
あの蛇宰相に一体なにが、と困惑する視線を全て無視し劇場を出ると、レオノラは待機していたゲルツ家の馬車にベルナールと共に乗り込んだ。
そのまま馬車が屋敷へ向かって動き出したので、ベルナールの向かいに腰を下ろしながらレオノラはフゥと一息吐いた。
もう引っ付く必要がないからか、スルリと腕も離される。
その途端、腕全体が少し冷えた様な気がしたベルナールだったが、憮然とした顔でそんな考えを振り払うように腕を組んだ。
「ベルナール様。本当に、劇場に苦情なんか入れないでくださいね。私は十分楽しかったんですから」
「しかし、退屈だったのだろう」
「たしかに劇自体はちょっと…でも、ベルナール様と一緒だったので、それが楽しいし嬉しいんです」
「……?」
意味が分からない、と顔に書いてあるベルナールに、レオノラはクスッと小さく笑った。
「ベルナール様も、退屈してましたよね?」
「それは…そうだな」
しっかり寝ていたのだし、元々観劇に興味もないベルナールは、男女で出掛ける先の定番というだけで予定を決めたことを後悔していた。
「だから良いんです。二人で観劇に行ったけど、退屈で一緒に寝てしまった、という思い出ができました。私達二人とも、悲恋モノはあまり好みではない、という共通点も発見できました。次に観劇に行く時は、もっと好みのものを探そうって楽しみまで出来ました」
「……そう、なのか?」
「はい。二人で並んでうたた寝しちゃったって、ちょっと面白い思い出じゃないですか?二人で共有の思い出を作っていく。デートってそういうものでしょう?」
「うぐっ!?」
胃を殴られた様な呻き声を上げたベルナールが、顔を手で覆いながら背を丸めてしまった。急に何が!とレオノラは驚くが、自分の台詞を思い出し、心当たりのある単語を繰り返してみる。
「……デート」
「うっ!」
「ベルナール様、分かりますか。今日はデートだったんですよ。デート」
「ぐぅぅ」
耳まで赤くしてグルグル唸るベルナールが一体何に苦しんでいるのか。レオノラに理由は分からないが、肩まで震わせている情けない姿は、ついさっき劇場に入った時の周りを見下す蛇宰相にはとても見えない。
恥ずかしいのか、照れているのか。それとも何か怒っているのか。
目を瞬くレオノラには、まさかその全てに加えて、胸を締め付けられる切なさや、今すぐ逃げ出したくなる気まずさ等、あらゆる感情が怒涛の様にベルナールの頭を過ぎっているとは、予想できないだろう。
今の今まで意識していなかったが、ベルナールにしてみれば、”デート”というものは初めての体験な訳で。しかもそれを、思いを寄せる相手に指摘されたとなれば、悶えるなというのも無理な話だ。
なのだが、そんなことがレオノラに分かる筈もなく。最初からデート以外の何でもない筈なのに、今更何を驚くことがあるだろうか。と首を傾げるしかない。
「…えっと、ベルナール様はどうでした?少しは楽しかったですか?」
レオノラの言葉に、ピタリと震えを止めたベルナールが、背は丸めたまま顔を少しだけ動かした。チラリと視線が僅かに合ったかと思えばまたフイと逸らされる。そのままゆっくりと姿勢を正して体を起こしたベルナールだが、顔の下半分を大きな手で覆ったまま、視線を窓の外へ向けてしまった。
「お前が、楽しいなら……それで、良い」
「へっ?」
蛇が鳴くように掠れた声で紡がれた予想外に夫婦らしい台詞に、今度はレオノラが頬をほんのり熱くさせたのだった。
***
いつになく素直に気遣いを表してきたベルナールのお蔭で、少しだけ良い雰囲気のなかレオノラ達は帰宅した。
出迎えてくれたニクソンが「どうだったか」と問う様な視線を投げてきたので、レオノラはニコリと笑みで上手くいったと伝えておく。
同時に、あちこちから隠れながらもこちらを伺っている数人の使用人たちにもこっそり目で応えておいた。
だが、そんなことをしている間に、何も言わないままベルナールがさっさと自室の方へ歩きだしてしまったので、レオノラは目を見開く。
「あ、ベルナール様!」
「なっ、なんだ!?」
胸を擽る訳の分からない熱と、妙な気まずさから、さっさと退散しようとしていたベルナールは、ビクリと肩を揺らした。
振り返った顔がまだ若干赤い様子に、レオノラも機嫌を損ねた訳ではなさそうでホッと安堵する。
「今日はありがとうございました。ご一緒できて楽しかったです」
「そ、そうか」
「はい。それで、何か御礼にできることはありませんか?
「はっ!?」
レオノラとしては折角良い雰囲気になったのだし、歩み寄るなら今だろう、と考えての言葉のつもりだが、それより本音ではもう少しだけ一緒に居たいと勢いで言った部分の方が若干大きい。
「私にできることで、何かして欲しいこととか、無いですか?」
「……」
そっと伺ったレオノラの目に飛び込んできた、眉間の深い皺が、ベルナールの混乱を表していた。眼光鋭くなった緑眼がギョロギョロと忙しなく動き、口が開いたり閉じたりを何度も繰り返している。
「…みを、…らせ……れ」
「え?なんですか?」
「髪を…触らせて………くれ」
掠れた音が聞き取れずレオノラが聞き返せば、今までにないほど低く唸るような声が僅かに聞こえた。思わずレオノラは「へっ?」と間の抜けた声が出てしまう。
この流れで髪に触りたいとは、また随分と大胆な。とレオノラは少しだけ逡巡した。髪を異性に触らせるのは、信頼と好意がなければ、嫌悪感が強い行為だ。
ここで是と言うのは、レオノラが大分ベルナールを信頼しているという事になる。今の二人の関係はまだ曖昧で、ここで受け入れて大きく歩み寄るのと、嫌味の一つでも言って断るのと、どちらを選ぶべきか。
しかし、こちらを見詰めるベルナールの熱を孕んだ緑眼と、今日を準備した彼の奔走ぶりを思い返したレオノラは、ゆっくりと手を頭の後ろで髪を纏めるピンへと伸ばした。
スルリと髪留めを抜き取れば、豊かな金髪がフワリと背中に落とされる。
その瞬間、玄関ホールの明かりを反射したかの様な金色の輝きに、ベルナールは目が眩んだ。それと同時に、触れたいと口にする時に、手や頬の様に地肌同士が触れる場所より、神経の通っていない髪ならまだ簡単だろう、と考えた己の過ちを自覚する。
背中に流れた髪を手で梳きながら「どうぞ」と微笑むレオノラの姿を見ると、手などよりも髪に触れる方がよほど性的に思えてきた。
それでも、許可が出たのだ。ゴクッと生唾を飲み込んだベルナールは、じわりと手に汗が滲ませながらゆっくりと腕を上げた。
ピンと張った緊張感に、レオノラも思わず肩に力が入ってしまう。
玄関ホール全体を覆う張り詰めた空気の中、落ち着かない気持ちでブルブル震えるベルナールの腕が、ゆっくり近付いてくるのを見守る。
あとほんの少しでその指先が毛先に届くか、と思われたがその直前、バッ!と勢いよく離れて行った。「えっ!?」と驚いてレオノラがベルナールに視線を向ければ、顔は真っ赤にしつつ、緑眼がこちらを睨むように釣り上がっている。
「や、やはり要らん!」
「………えぇっ?」
「私は寝る!!」
ガツガツと乱暴な足音をさせるベルナールの背中を、レオノラは呆然と見送るしかできない。
「……」
ベルナールの後ろ姿が見えなくなってもまだ、レオノラはすぐには何が起きているのか頭が追いつかなかった。
漸く正気に返って事態を理解しても、言葉が出てこない。これは、それなりに怒って良いのではないだろうか。
キッと少しだけ釣り上がった目元を自覚しながら、同意を求める様に視線を動かせば、横に控えていたニクソンも、いつの間にか駆け寄ってきてくれたケイティも、レオノラと目が合った途端に、うんうんと頷いている。
二人の同意も得られたのだし、所々から隠れて見守っていた使用人達も、一斉にレオノラに小さく頷いたり、ベルナールの去って行った方へ冷たい視線を向けている。
これだけ同意を得られるのだから、レオノラが多少仕返しをしたとしても、きっと仕方がないことなのだ。
どうしてもやらかす、蛇宰相
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