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75. 劇場の選択

 レオノラがベルナールに差し入れと一緒に、デートの要望を出してから数日。

 その間にレオノラが観察した限り、ベルナールは何やらずっと考え込む様に眉間に皺を寄せている。


 もしや仕事で何かトラブルが。とレオノラはタイミングが悪かったかと心配したのだが、ニクソン曰くレオノラを誘う場所で悩んでいるからだそうだ。

 連日夜遅くまでベルナールの私室の明かりは着いたまま。ほとんど眠ってもいないらしい。


 そんな状態で大丈夫なのか、といよいよ不安になりレオノラは気まずいながらも声を掛けようと決め、朝食の席に着いていた。


 レオノラがジッと顔色を伺うが、ベルナールの顔はいつも通り不機嫌そうではあり、疲れている様子は見えない。しかし、ニクソンのオロオロ具合をみるに、無理をしていることは確実だ。


 そこまで悩むくらいなら、適当に流行りのカフェでも。と提案しようと、朝食のサラダを突きながら眉間に皺を寄せたベルナールに、レオノラはそっと口を開いた。


「…あの、ベルナール様」

「今日の夜…」

「へっ?」


 急に遮られ思わず間の抜けた声が出たが、ベルナールはそれに気づかなかったのか。自分の皿を睨みつけたまま、蛇の鳴き声の様な低い声で続けた。


「観劇は、どうだ…?」

「え?……あっ!あぁ、観劇ですね」


 あまりにも怖い顔で言うものだから、もっと物騒な話題かと思って理解が遅れてしまった。


「はい。是非、行きたいです」

「そうか」


 安堵したのか、ベルナールの顔から途端に険しさが消える。


「ならば私も、夕方前には支度の為に屋敷に戻る」

「そんな…お仕事もあるのに、大丈夫ですか?」

「問題ない。必要なものは昨夜の内に終わらせてある」


 だから、それで体調は大丈夫なのか、とレオノラは心配しているのだが。それに、当日ではなくもっと早く言ってくれれば、それに合わせてお互いにゆっくり準備も出来たのではないだろうか。


(まぁ、観劇なら途中で寝てれば良いか)


 と、考え直しレオノラは納得しておく。


 その後「詳細はニクソンに聞け」と言い残し出仕していったベルナールを見送り、レオノラは指示通りニクソンから説明を受けた。のだが、告げられた劇場に驚きで聞き返してしまう。


「え?西地区の劇場ですか?」

「はい。その様です」

「でも、ゲルツ家がボックス席を持ってるのって、中央劇場ですよね?」


 レオノラも侯爵家の夫人として最低限の家政に関わる事情は勉強している。ゲルツ侯爵家が年間契約しているのは、王都中心の一番立派な劇場だったはず。


「その通りです。ただ、今回は旦那様が劇場や演目を調べていらしたところ、事情を聞きつけた御懇意にしている貴族家から、是非にと招待を受けたようでして」


 派閥の誰かだろうな。とレオノラはなんとなく察した。


「では、今夜はその方々とのお付き合いとして行く、ということですか?」

「いえ。そちらはお気になさらず。旦那様も、最後まで中央劇場か、西劇場か迷っていらっしゃいましたので」

「何か他に心配事が?契約してる中央劇場で良いと思うんですが」

「それが……」


 招待はされたものの、ベルナールとしてはすんなりと受けることも、しかし断ることもできない事情があったのだ。そのことで、毎晩遅くまで悩んでいたのをニクソンは知っている。


 それを言って良いものか、とニクソンは一瞬迷った。ベルナールの名誉の為などではなく、それを告げた後で自分が引き続き完璧な執事の顔を保てるのか、という心配で。


「今の季節ですが、中央劇場が上演しているのは古典民話であり。西劇場は……恋愛ものとのことでございます」


 シンッ、と部屋の中が静寂に包まれた。レオノラもニクソンも、ついでに部屋の隅でお茶の用意をしていたケイティも、固まってしまい身動き一つしない。

 そのまま誰も、何も言えないまま時間が過ぎるが、その内に最初に耐えきれずニマッと笑ってしまったのはレオノラだった。


「フフフ、ククッ!……フフ、ベルナール様がそこまでしてくれるなんて。嬉しいです」


 笑ってはいけない、と思えば思うほど止められなくなるのは仕方ない。

 チラリと確認したニクソンもケイティも表情が若干崩れているので、レオノラも我慢しきれずにクスクスと肩を震わせていた。


 ベルナールが恋愛劇を選ぶか悩んでいる時の顔は想像に難くない。親の仇かの様に眉を寄せて、憎々し気に表情を歪め、目もきっととてつもなく不穏な色をしていたのだろう。


「クフッ!…悩んでる時の顔、見たかったなぁ。絶対素敵だったのに」

「奥様。それはさすがに…旦那様にも、矜持というものがございますので」


 そう言って口ではレオノラを止めるニクソンだが、目元と口の端がへにゃりと笑いを堪える為に下がっている。


「そうですね。残念だけど、諦めた方が良いですね」


 本当は、嬉しさに熱くなる胸の内を思い切りぶつけたい。あのベルナールが、悩んだ末に恋愛ものの舞台を、わざわざ選んでくれたのだ。中央劇場の古典演劇を選んでも何の支障もないのに。

 とはいえ「悩んだ末に恋愛ものを選んでくれてありがとうございます!」などと馬鹿正直に言えば、ベルナールの機嫌が最悪になることは分かる。場合によってはへそを曲げて、デート自体が御破算になりかねない。


 仕方ないか、とレオノラはベルナールに直接言及するのは諦め。それでも発散しきれないくすぐったさに、手近にあったクッションを引き寄せてギュッと抱き込んでおいた。



ここまで読んでいただきありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
これは…これは…いいですねぇ…! 二人の進展にニヨニヨしちゃうのもそうなんですが、レオナールが誰かの感情を考えて利益や効率よりも優先しているという変化!いやあ素晴らしいですねぇ!
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