74. 昼食拒否
重厚な宰相執務室の扉をノックしたあと、中から「入れ」と低い声が響き、レオノラは素早く扉を開けた。
「ベルナール様、来ちゃいました!」
ガタン!と思い切り何かがぶつかる音がしたので視線を向ければ、驚愕の目で固まるベルナールの腰が半分浮いている。
立ち上がろうとして途中で机にぶつかった様な姿勢のベルナールに、レオノラは作戦が成功したようで「フフフ」と笑いが漏れた。
「な、なぜお前がここに!?」
「お弁当を持ってきました」
「弁当……!?」
「はい!」
主張する為少しバスケットを持ち上げて見せれば、グッと眉を寄せた険しい顔でジィッと睨みつけられる。そのまま相手の反応を少し待ってみたが、唇を引き結んだまま動かないベルナールに、レオノラはスッと手を下ろした。
「要らないならいいです。このまま持って帰りますね」
「ま、待て!!」
踵を返しそうなレオノラに、ベルナールは咄嗟に声を荒げた。距離的に届くはずもないのに、無意識に伸びた手が空を切る。
振り返ってこちらの様子を伺ってくるレオノラに弁明しなければとも思うのが。妻の差し入れに対して礼を言うべきと勉強して分かっていても、言葉がどうしても出ずに喉を引き攣らせていたのだとは、流石に言えない。
それでも早く何か言わなければ、と悩みに悩んだベルナールが、ギリギリと奥歯を噛みながら声を絞りだした。
「い、要らんとは言ってないだろう。置いていけ!」
「クフッ、…ン˝、ンッ」
レオノラは思わず吹き出してしまった笑いを必死に飲み込んだ。
相変わらず言葉が悪い。その自覚はあるのか、言った後でフイと顔を逸らしながら目をキョロキョロさせている姿は、やはり可愛いと思えた。
ちょっとした意地悪のつもりで「帰る」などと言ったが、効果は抜群で、ベルナールの顔がサァッと青くなったのも少しだけ愉快だ。
「では、ここに置いておきますね」
レオノラの言葉にベルナールが横を向いたままコクリと頷いたので、来客用の応接テーブルの上にバスケットを下ろした。
しかしこれでレオノラは大人しく帰るつもりはなく。出口へは向かわず、部屋の奥へ進みベルナールの机の前まで来た。
「ところでベルナール様。今日の私の装いはどうですか?」
「はっ?」
それまで顔を逸らしていたベルナールの顔がこちらに向いたので、レオノラはふわりとドレスのスカートの端を持ち上げて見せた。
今日着ているのは、緑色の生地に花と蔓の刺繍が見事に施された爽やかなドレスだ。レオノラも気に入って何度も着ている代物だが、感想を求めたのは初めてである。
また「目障り」と言われるかもしれないが、レオノラとしてはそれをどう受け止めたら良いか、決めかねているところなのだ。
言われれば嬉しくない言葉だが、ベルナールなりの好意だと考えると面映ゆい気持ちにもなる。
だから、夜会ほど着飾っていなくとも、今日も装いについて聞いたのだが。
レオノラの問に何も返してこないベルナールに、「どうですか?」と再度言葉を掛ければ、ぐぅっと低い唸り声が聞こえてきた。
眉間に思い切り皺を寄せ、目つきも鋭い。何かに葛藤するかの様に、喉が上下に動き、こめかみを汗が伝っていく。
「それは…め、めっ…」
やはり、目障り、と言うのだろうか。
「いや…………う、うぅ、う…」
もしや、美しい、と言うのだろうか。
しかし当のベルナールはよほど言いたくないのか、口の端がひん曲がっている。声を発しようとする度に、喉が上下し低い唸り声が上がった。
これには思わずレオノラも苦笑するしかない。この前の様に「目障りだ」と吐き捨てないだけ、彼の努力と取るべきか。
「それなら、今日はどこが目障りですか?」
「はっ?なにを…?」
「どこが、目障りですか?」
強めの口調でレオノラが繰り返せば、ベルナールはグッと押し黙る。
その内、レオノラの上から下までジロジロと蛇の様に鋭い眼光を彷徨わせた。
「…色が、明るい…」
「はい」
「眩しくて目が眩む」
「…あ、はい」
この前も言っていたが、そんなに眩しいのか?とレオノラは込み上げる笑いをそっと嚙み殺した。しかし、次の言葉は予想外の方向性で、レオノラは若干面食らってしまう。
「腰から下がふわふわと浮いている様で、眩暈がする……」
「え?……はぁ…そ、そうですか?」
確かに、草花をイメージしたドレスは、スカート部分の生地が柔らかな仕立てだ。フワリとスカートの端を持ち上げれば、浮いているように見えなくもない、かもしれない。
「首まで覆うレースの所為で、鎖骨辺りが気になって目が行く」
「え?あ、えっと…」
腰周りに向けられていたベルナールの視線が唐突に首まで上がってきたので、レオノラは落ち着かない気持ちに頬が熱くなった。
この前のレストランの時は、大胆に開いた胸元辺りが目障りと言われた。だから、今日は上品にレースで覆われた物を着てきたのだが。
結局、開いていても隠していても、目が向いてしまうのか。
そうやってブツブツと低い声で呟いていたベルナールが最後にまた「目障りだ」と零した。しかしその顔は赤いし、目は落ち着かない様子でレオノラの様子をチラチラと伺っている。
やはり、ベルナールの「目障りだ」という言葉に、好意が詰まっている気がしてならない。
レオノラは胸が擽られた想いのまま、込み上げた笑いを隠さずクスクスと肩を震わせて笑い出した。
「クスッ、フフフ……アハハッ!」
「な、なんだ!何が可笑しい!?」
ついには口を開けて笑うレオノラを前に、先ほどまで羞恥で赤くなっていたベルナールがカッと怒りで顔を更に赤くさせた。
それでも、レオノラは笑いが止められない。
「フフフ。ハハッ!しょうがないですね。いいですよ、目障りで。ちゃんと「美しい」って言ってくれなくても」
「はっ?…なっ!」
口をパクパクとさせて何か言おうとして失敗しているベルナールに、レオノラは二ッと口の端を上げて微笑みかける。
こうやって「どこが?」と聞けば気になった点を褒めてくれるのだ。とても褒めているようには聞こえなくとも、そこもベルナールらしい。
「あ、でもやっぱり、たまにはちゃんと褒めてほしいです。たまにでいいので。ちゃんとした、一般的な言葉で」
「それは……善処、する」
「フフフ」
仏頂面のベルナールだが、褒める前提の話を否定しないのだから、やはり素直でない。そこがどうにも可笑しくて、レオノラはクスクスとまた笑いが漏れてしまった。
ひとしきり笑ったところで、レオノラは「それでは、帰りますね」と一言断ってから扉へと足を向ける。あまり長居をして仕事の邪魔になってはいけない。
しかし、レオノラが背を向けたところで、ベルナールから声が掛かった。
「ま、待て!」
「え?…はい、どうかしましたか?」
「その……お前も、昼食を、ここで食っていけ」
「はい?」
「あ、いや…く、食って、いかないか?」
ベルナールは咄嗟に言い直した。
まるで、自分の全てが肯定された様な。いや、実際に肯定されたのだろう。ベルナール自身が言葉に出来ない部分を掬い上げて、それで良いと笑った顔が、あまりにも眩しすぎて。
脳が溶けたかの様に思考が止まっている間に、反対を向いて見えなくなってしまった微笑みを、咄嗟に引き留めていた。
だから、最初は命令口調になってしまったが、レオノラがそれを気に入っていないことは流石に学習している。
「え?私も、ですか?…でもお弁当は二人分しかなくて」
「そ、そんなもの厨房に用意させれば良い。なんなら王族と同じものを持ってこさせる。いや、それよりなんでも好きなものを言え。最優先だと命じればそこまで時間は掛からんだろう。この部屋が嫌なら、王城のどこでも今から空けさせる。庭園でもサロンでも…」
「えぇっと、そこまでしなくても……それに、お弁当を置いてクリスさんを放って行くのも…」
かなりの早口で捲し立てるベルナールに、レオノラは面食らってしまった。
王族と同じ昼食を好きな場所に持ってこさせるなんて、悪役で宰相のベルナールでないとやらないことだろう。
そこまでの職権乱用は止めた方が良い、とレオノラがなんとかやんわり断る口実を探している間に、ベルナールの眉間の皺がグッと深くなった。
「そもそも、どうしてお前は彼奴の分まで弁当を作ってくるんだ。妻が手ずから作った料理を…おっ、夫である私以外に食わせるなどあり得ん。妻として、弁えるべきだろう」
「えぇぇー」
とてつもなく今更なことを言われ、レオノラは頬が引き攣った。
折角さっきまで少し良い雰囲気だったのに。また以前の様に言葉が悪くなったベルナールに、内心溜息を吐いておく。
「最初にクリスさんの協力がないと、そもそもお弁当の差し入れすらできませんでしたよね?ベルナール様が許可してくれる訳ありませんもんね」
「…うっ!?」
バッサリと切り返され、ベルナールはバツの悪さに胸がズクンと痛んだ。
怯んだ様子でグッと喉が詰まったような声を漏らすベルナールを、レオノラは更に続ける。
「もう習慣になってますし。今の言葉だけでは、クリスさんの分のお弁当をやめる理由にはなりません」
「う…あっ…」
たしかにレオノラも、貴族夫人が夫の部下の分の差し入れまで毎回持ってくるのもどうかとは思う。しかし、当初はクリスにも差し入れをする名目がなければ、ここに立ち入ることも難しかったのだ。
ベルナールとはまだ夫婦関係を構築中の段階だし、既にクリスにとっても習慣化している差し入れをこちらの都合で勝手にやめるには、ベルナールの命令だけでは理由が弱い。
キッパリ拒否したレオノラに、先ほどまで真っ赤だったベルナールの顔色が、どんどん青くなっていった。
そんなに血流が乱れて、血圧は大丈夫だろうか。と心配する気持ちが胸に過ぎるが、それを押し殺してレオノラはまた出来るだけ冷たい言葉を選ぶ。
「お昼のお誘いはご遠慮します。お弁当の差し入れも、クリスさんの分も今後も持ってきます」
「………」
「それにクリスさんは、ちゃんと「美味しい」って言ってくれるんです」
「ベルナール様とは違って」という言葉はさすがに飲み込んだが、きっと察したのだろう。ベルナールの肩がビクリと跳ねた。額に汗を浮かべ、キョロキョロと緑眼が不安そうに彷徨う様子に、レオノラはまた罪悪感が胸を占める。
どうも調子が狂う。自分の方が悪いことをしている気がしてならない。
いつも偉そうな男がこうも情けなく汗を垂らして、言葉にならない「グゥ」と妙な唸り声を上げる姿は、レオノラにとっては威力が強すぎた。
「……その…お食事の誘いじゃなくて、そろそろ何か他のことに誘ってください」
「っ!?」
「じゃ、じゃあ、私は帰りますから」
一瞬で弾かれたように顔を上げたベルナールから、レオノラはさっと背を向けた。
冷たく突き放した舌の根も乾かぬ内にこれは、流石に恥ずかしくて顔をまともに見られない。
思い知らせてやろうと決めたクセに、罪悪感に負けた報いがこれか。とレオノラは赤くなった頬を押さえながら執務室を飛び出し、後ろから何か言いかけたベルナールを振り払うように乱暴に扉を閉めた。
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