73. 返却途中
静かに宰相執務室を出たクリスは、そっと扉を閉じてからハァッと溜息と一緒に肩の力を抜いた。腕には変わらず、三冊の本が抱えられている。
王城の図書館は、こういった娯楽本もなかなかに充実していた。最初は二、三冊と思っていたものだから、クリスもそこから借りることにしたのだが。
この短期間に、しかも業務中に既に二十冊も借りたクリスに、司書達の訝しむ視線が向き始めている。
しかし本当のことを言う訳にもいかず、下手な言い訳も事態を悪くするだけだ。
よって、クリスはいつもの微笑みを浮かべながら淡々と本の貸出手続きをするしかなかった。
蛇宰相が恋愛小説を読み耽っているなどと王城内で噂が立とうものなら、即刻左遷どころか、文字通り首が飛ぶ。
「クリスさん?」
「わぁっ!あ、レオノラ様!?」
俯いていたせいで相手が眼前に迫るまで気付かなかったクリスは、突然のことに飛び上がる。そして相手が誰かを認識した途端、サッと手に持った本の表紙を腕で隠した。
マズい。レオノラにこの参考資料のことがバレるのは、城中に知られるよりもマズい。しかも更に悪いことに、他の者であれば誤魔化せても、レオノラであれば本を見ただけで事情を察するだろう。
それは、本当にマズい。自分の首が飛ぶという心配だけでなく。流石にそれは、同じ男として同情してしまう。
「すみません。驚かせちゃいましたね」
「い、いえいえ。すみません、ぼんやりしていたもので。レオノラ様は、ゲルツ宰相様にご用事ですか?」
困り顔で微笑むレオノラに、クリスも乾いた笑いを返す。
手の中の本を後ろ手に隠すなどというあからさまな事はしない。さり気なく、表紙が隠れるよう、少しずつ腕の位置を調節しながら、クリスはレオノラの視線の先を注視した。
「はい。またこれを持ってきたんです」
レオノラがこれと言って少し持ち上げたのは、二つのバスケット。クリスも良く見覚えのあるものだった。
「あ、お弁当ですか?」
「はい。暫く休んでましたけど、また作ろうと思いまして。クリスさんの分もちゃんとあるんですけど、いかがですか?」
「ありがとうございます!…もしや、ゲルツ宰相には言ってないのでは…?」
「そうなんです。びっくりさせたくて。今日は内緒で来ちゃいました」
悪戯を企むようにクスクスと小さく笑うレオノラに、クリスは内心の安堵が顔に出ないよう、頬を引き締めながら「そうでしたか」と応えた。
よかった。執務室の中で、ベルナールが本を読んでいるところにレオノラが鉢合わせなくて、本当によかった。
そうなった時のあの蛇宰相の顔を見てみたい気もするが、その光景を拝む前に自分の命は飛ぶだろうから諦めておく。
だからこそ、この腕の中の参考資料は何としても秘匿しなければ。
クリスは腕で本を隠しながら必死に平静を装うが、当のレオノラはバスケットに入ったチーズをクリスに見せているところで、本の方には意識が向いていない様子だった。
クリスはホッと肩の力を抜いたのだが、「ところで」と向けられたレオノラの探るような視線に、反射的に息を詰まらせた。
「実はクリスさんにお聞きしたいことが…」
「な、なんでしょうか?」
「ベルナール様のことなんですけど」
言いながら声を潜めるように少しだけレオノラが前屈みになる。咄嗟にクリスも同じように前のめりになり、レオノラの目線から胸に抱えた本を隠した。
「その、私がお聞きすることではないかもしれないんですが…」
「は、はい…」
「ベルナール様が、最近毎日早く帰ってくるんですが。お仕事の方は大丈夫なんですか?」
申し訳なさに眉を寄せながら、レオノラはずっと疑問に思っていたことを聞くことにした。
家出事件の後、ベルナールは一日も欠かさず、夕食の時間に間に合うように帰ってきていた。明らかにレオノラの為にだ。
しかし、これまで深夜に帰ることもざらだった男の変貌ぶりにレオノラは戸惑った。
最初こそ、早く帰ってこれるなら、元からそうしてくれていたら、等と思ったりもしたが。こう毎日続くと、まさか宰相の仕事が疎かになっているのでは、と不安が膨らむ。
「あ、えっと…それはですね…その、なんというか……」
歯切れ悪く苦笑するクリスに、レオノラは顔色を悪くした。
「やっぱり、他の方々に負担を…?」
「あ、いえいえ。違います。…あ、いえ。違う、というか……」
不安そうなレオノラを前に、クリスは一瞬、城内の事情を簡単に話してもいいものかと悩む。が、隠すべきことでもないし、既に城中の文官が知っているのだから、問題になることでもないだろう、と口を開いた。
「たしかに、ゲルツ宰相様が早く帰る為に業務を減らしていますが…それが、問題ではないというか、本来ならそうあるべきというか…」
「…というと?」
「ゲルツ宰相様が、他部署への口出しを減らしまして……。今までは色々な案件に、初期段階から細かく意見を出したりしていて。むしろ自分でやった方が早いからって、なんでもご自分でやることが多かったんですが…」
本来の宰相の執務に加え、専門の部署がやるべき政策の草案を作る段階から、あれやこれや口を出し、最終的に自分でやるからと抱えこんだりしていた。
「それをやめたので、だいぶ仕事が減ったといいますか。本来のあるべき業務量になったといいますか…」
「でもそれなら、他の方々のご迷惑になってたりは?」
「それは、まぁ…」
今までこれでもかと口出ししてきた蛇宰相が急にそれを止めたので、文官達は得体の知れない不気味さを覚えた。嵐の前の静けさでは、と各部署は疑心に肩を震わせている。
それとは別に、これまで蛇宰相に任せれば良いとする姿勢だった者達も泡を吹くことになった。特に責任ある立場の者に多いが、蛇宰相がどうせやるなら、と手を抜いていた部分がそうもいかなくなったのだ。
蛇宰相の口出しが無くなったと安堵する者も、手抜きが出来なくなったと嘆く者も、驚愕と疑惑の目を向けてくる訳だが。それも、暫くすれば収まるだろう。
「あ、でも結局決裁は宰相様がやるので、政務の内容的にも問題はないんです」
「そうなんですか……」
ベルナールからの余計な口出しがなくなるということは、蛇宰相の評判が多少なりとも改善されるのでは。と、そんな考えがレオノラの頭に浮かぶ。
もしレオノラの為に仕事に支障が出ているようなら止めようと思っていたが、クリスの言葉と表情を見るに、そうではなさそうだ。
その上で、ベルナールがレオノラのことを優先してくれている。それなら、今はレオノラも夫婦の関係構築を優先するべきだろう。
ベルナールの仕事については、夫婦の問題を解決してから考えても遅くはなさそうだ。
「クリスさんありがとうございました。それじゃあ私はお弁当を届けてきますね」
「あ、私の分は机の上に置いておいてください。こちらこそ、美味しい昼食をありがとうございます」
ホッと何処か安堵したような顔でクリスは腰を屈めたまま、そそくさと去って行った。いつもはもっとしっかりした姿勢で歩くのにどうしたのだろう。と一瞬疑問に思ったが、そう大したことでもないなとすぐに忘れ、レオノラは本来の目的であるベルナールの執務室へと向かった。
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