52. 失敗
レオノラが侯爵邸の自室で寛いでいるとクリスの予告通り、ベルナールが数日ぶりに帰宅してきた。
ケイティの「旦那さまがお帰りに」という知らせに、レオノラはいつもと同じように部屋を出て、玄関へ向かう。
「ベルナール様、お帰りなさい」
玄関ホールの階段を降りると、ベルナールが丁度ニクソンに外套を手渡しているところだった。
レオノラに気付いたベルナールは、体ごとこちらを向き、そのまままっすぐ近づいてくる。普段はここは無視して部屋へ引っ込んでしまうところなのに、とレオノラは首を傾げた。
目の前に立ったベルナールが、喉を小さく鳴らして告げる。
「今夜、お前の部屋に行く。用意しておけ」
「へっ?…え?あ、ベルナール様?」
声が裏返ったレオノラに返事はなく、ベルナールはそのまま振り返りもせず、無言で廊下の奥へと消えていった。
取り残されたレオノラは、その言葉を頭の中で何度も繰り返しながら、ぽかんと立ち尽くす。
助けを求めてニクソンに目を向けると、敏腕老執事も珍しく目を丸くして固まっていた。
「えっと、何かお話があるってこと…?」
ポツリとレオノラが呟やくと、控えていたケイティが何かに気付いたのかハッと息を呑んだ。
「奥様!旦那様はもしかして、初夜のおつもりなのでは?」
「はぁっ!?」
思わず大きな声が出てしまった。と同時に歪んだ口の端を、レオノラは慌てて手で押さえて隠す。
「い、いやいや。あり得ないわ!ねっ、ニクソンさん」
顔の前で手をヒラヒラ振りながら、ベルナールを誰よりも理解しているであろう執事に視線を向ける。
困惑の中、矛先が向いたニクソンも、必死に主人の意図を汲み取ろうとして思考を巡らせていた。
確かにケイティの指摘は一理ある。しかし、これまで初夜を避け続けてきた主人が、今になって急に何の説明もなく押し進めようなどとは、あまりに配慮に欠けている。
「旦那様の意図は分かりかねます」
ニクソンはベルナールの真意よりも、レオノラの意向の方を尊重すべきだと判断した。
そもそも、ここで強引に初夜を迎えたところで、二人の関係が好転することなど決してない。
「申し訳ありません」
「いえ、ニクソンさんが謝ることないです……うん、やっぱりただお話があるんでしょ、きっと」
複雑な顔のニクソンとケイティ、そしてそれを固唾を飲んで見守る使用人一同を前に、レオノラはうん!と強く頷いてみせる。
そのままベルナールの指示通り、用意を進めることにしたのだ。
***
夜も深まった頃、ベルナールは侯爵邸の廊下でチッ、と短く舌打ちを鳴らした。同時にチラチラと飛んでくる使用人の視線を、ギロッと睨み返して散らしていく。
が、散らしても散らしても無くならない視線に、ベルナールは入浴直後で湿ったままの髪をガシガシと掻いた。
普段は後ろに撫でつけている髪は下ろされ、寝衣の上から上質なガウンを羽織った姿で、イライラと廊下を進んでいく。
「なにをジロジロと見ている!」
「ヒッ!も、申し訳ありません~~」
すれ違いざまに怒鳴れば、使用人は小さく悲鳴をあげて逃げていった。
「なんだこの煩わしさは」
吐き捨てるが原因は分かっている。妻の部屋が遠い所為だ。
本来の夫婦の寝室なら内扉をくぐれば済む話だった。そうすれば、こんな風に使用人の晒しものになることもなかったろうに。
今後の為にも、女主人の部屋へ居室を移動するよう命じなければ。
そんな自分の考えに、ベルナールは”今後”をはっきりと想像してしまい、胃が軋むような緊張に眉を寄せる。
しかし、ここで逃げ出す訳にもいかない。
白い結婚を解消してしまえば、レオノラから離婚を請求されても突っぱねられる。
ベルナールが応じない限り、レオノラを妻にし続けておくことが出来るのだ。
だから今夜、さっさと契りを結ぶ。
その事を思い、ベルナールはゴクッと喉を上下させて緊張を飲み込んだ。
いやいや、妙に緊張するな。とにかく、丁寧に、機嫌を損ねないように。女の好きそうな、優しい触れ方を心掛ければ良い。
未だ触れたことがないレオノラの体を思い、別の意味でまた喉が上下した。
「嫌がったりは…しないよな」
夫の求めに妻が応じるのは当然のこと。
自分達は夫婦。夜の営みがあって当たり前だ。この顔が好きだと言ってるのだし、嫌がられる理由がない。
触るのも、髪を梳くのも、口付けるのだって何の問題がある。
次々と浮かぶ思考にガツガツと足を動かしながら、いつも喧しいレオノラの艶のある唇を思い出した。
「あの、唇に……」
吸い付いたら、見た目通り柔らかいのだろうか。
グルグルと思考を巡らせながら、ベルナールはレオノラの部屋の前に立つ。そして一度深呼吸し、緊張を押し殺してノックした。
『…はい』
永遠にも感じた数秒の間のあと、中から妻の声に呼ばれ、ベルナールは扉を開く。
「ベルナール様、お待ちしてました」
初めて妻の部屋に足を踏み入れたベルナールは、そこにある予想と違う光景に目を見開いた。
明りが着いたままの部屋では、テーブルに紅茶と菓子が並んでいる。それを用意したのだろう侍女も傍に控えたままで、下がる様子がない。
なにより、自分を部屋に招き入れたレオノラは、デイドレスをしっかりと着込んだままで、これからの支度をした風には見えなかった。
眉を寄せたベルナールに、レオノラが不安そうに口を開いた。
「一応、色々用意して貰いました。お茶でもお酒でもお好きなものを。あと、お菓子と軽食とおつまみもありますよ」
「…は?」
「なにかお話があったんですよね?その為の用意をしたんですが」
上目遣いで伺うように話すレオノラの言葉を理解するまで、数秒を要した。
認識が食い違っている、と気付くと同時にベルナールはサァッと血の気が引く音を聞いた。
しかし次の瞬間には、自分が何かを“失敗”したのだ思い至り、頭に血が上る。
「……気が削がれた。戻る!」
「えっ?あ、ベルナール様?」
失敗したのだという事実と、相手は肌を重ねるなど考えてもいなかったということ。二つの気まずさに、苛立ちと羞恥が込み上げて吐き気すら覚えた。
背後から妻が呼び止める声には無視し、そのままベルナールは乱暴な足取りで廊下へ出る。
とにかく、今はこの場所からすぐに立ち去りたかった。
蛇宰相、退散!!
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