6-17.さらなる来訪者
レギーナはその後、本当にしばらくドゥリンダナに触れようとしなくなった。
さすがに目の届かないところに仕舞い込んだわけではなかったが、寝室でも枕元に置いていたのに飾り棚に据えるよう言うし、トレーニングルームでも部屋の隅に立てかけさせているだけである。時々、「うるさいわね、ちょっと黙ってなさいよ役立たずのくせに!」とか「あんたが宝剣でなかったら叩き折って打ち直してやるのに!」などと罵っているので、会話自体はしているようである。
「ああもう、ムシャクシャするわね!アル!」
「え、どうしたのレギーナさん」
「カリーが食べたいわ!明日作って!」
「いや、無理だけど」
「なんでよ!?」
困ったように、それでも意外なほどハッキリと拒否されて、レギーナもミカエラも思わず声を揃えてツッコんだ。
「だってこないだ仕入れたルーはあの時全部使い切ったからね。次の隊商が来るまでは仕入れることもできないし」
そりゃああれだけの量を作ったのだから使い切りもするというもの。そしてルーを運んでくるヒンドスタンからの隊商がやって来るのは月に一度だけである。
「「そ、そんな……!」」
愕然として、そしてガックリと崩れ落ちる勇者様とその親友。もうすっかりカリー中毒の様相を呈し始めている。そして彼女たちは気付いていないが、あのレベルの味をそう何度も作れるものではないのだ。
その時、トレーニングルームの扉がノックされ、室内に控えていた侍女のアルミタが扉に歩み寄り小さく開く。
「勇者様、ジャワドが参っております」
「ジャワド?入ってもらって」
宮殿秘書としてこの極星宮の全てを取り仕切るジャワドがトレーニングルームまで来る時は、彼だけでは判断できないような何かがある時だけである。例えば以前にライとナンディーモがやって来た時のように。
「勇者様に面会を求めて参られた方が」
室内に入り一礼して、そう述べたジャワドの顔色が心なしか青ざめている。普段の彼ではあり得ないことだ。
「また面会?王宮の誰かかしら?」
「いえ、そうではなく。——外からのお客様で」
そう言われて、レギーナもミカエラもアルベルトも首を傾げた。リ・カルンに入ってこの王都アスパード・ダナまで一直線にやって来た彼女たちには、わざわざ訪ねてくるような知り合いに心当たりがなかった。王都で付き合いがあるのも神教神殿のほかは刀鍛冶の景季くらいなものだし、景季はわざわざ極星宮を訪ねてきたりしない。
それ以外ならロスタムか、ラフシャーンか。だが彼らであればジャワドが外からなどという言い方をするとは思えない。
「じゃあ誰なの?面識がない相手なら追い返していいわよ?」
「それは……難しいかと」
追い返せないような相手とは?3人ともますます首を傾げるしかない。
「面会を求めておられるのは、英傑様でございます」
そうして疑問符を浮かべるばかりの彼女たちに、ジャワドはハッキリとそう告げたのであった。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
銀麗は普段、暇を見つけては母の痕跡を求めて王都の街に出ている。どうやら母の朧華は銀麗が生まれるより以前の旅で、当時はまだ王都ではなかったこのアスパード・ダナにも立ち寄った事があるらしい。
だから探せばきっと何か残っているはず。そう信じて彼女は当所もなくこの広い街を日々見て回っていた。
「やはりそう簡単には見つからんか……」
だがまあ常識的に考えて見つかるわけがない。ただでさえ人口108万を数える世界最大の大都市であり、しかも母が来ていたのはもう20年ほども前のことなのだ。その上母が来ていた当時からは人口が倍以上に膨れ上がっていて、だから街並みも市街規模も各種人種の人口比率も何もかも異なっている。
それでも、というかだからこそというか、銀麗は無策で街をかけずり回っているわけではない。この街には華国人の居住区もあるのだから、彼女はまずそこを当たってみたのだ。
その時には、残念ながら母の影どころか同郷人さえ見つけることができなかった。滅多に華国外に出ない虎人族にいきなり行き合うとは思っていなかったが、それでも蓉州出身者さえ見つかれば、母が行きそうな場所やその手がかりくらいは掴めるやもと思ったのに。
その代わり、アスパード・ダナの華国人居住区は1ヶ所だけでなく、他にもたくさんあることを教えてもらった。つまり蓉州人はここではなく、どこか他の居住区に固まって住んでいるらしい。
それから銀麗は、華国人の居住区を見つけては回っている。華国にある十三の州の出身者が、アスパード・ダナに数十ある居住区に分散しているそうで、ひとつひとつ回らなければ誰が住んでいるのかも分からないのだ。そしてこれまで回った居住区で蓉州人は何度か発見したものの、残念ながら銀麗の出身地である蓉州虎岈谷近郊の出身者にはまだ会えていない。
そしてこの日も彼女は、華国人の居住区を訪れていた。
そう高くない壁に設けられた懐かしい意匠の門を潜れば、そこはもう故郷の香りがする。通りには瓦屋根の建物が立ち並び軒先には縁台が置かれて、それを跨ごすように座る男たちが小籠包を肴に黒茶を飲みながら向かい合って将棊を指している。だが当然というか、虎人族はひとりも見かけない。
「おい、あれ虎人族じゃないか」
「おお、確かに。こんな僻地で見るとはなあ」
聞こえてくるのは当然ながら華国語であるが、言葉の訛りや小籠包をつまんでいることから考えても男たちは江州の産、銀麗の生まれ育った蓉州の人間ではない。
「お尋ねするが、蓉州人はここにいるか」
「なんだ、郷の知り合いでも探しているのか」
「蓉州人ならこの通りを北に行った辺りに固まっているぞ」
「そうか、謝々」
どうやら故国と同じように北方の産は北側に、南方の産は南側に固まっているようだ。銀麗は南の門から入ってしまったらしい。
礼儀正しく拱手してから通りを北に向けて歩み去る銀麗の後ろ姿を、男たちがじっと眺める。縁台で将棊を打っていたふたりだけでなく、家の中からもその両隣の家からも数人がゾロゾロと姿を現してきた。
「……虎人族だったぞ」
「ああ、それも若い娘だったな」
「……ひとりのようだが」
「いや、止めておけ」
不穏な相談を始めた男たちに、最後に出てきた大柄な男がひとつ呟く。
「兄貴、金づるだぞ」
「見て分からんか。あれは霊獣だ」
霊獣だと聞いた途端、男たちの顔から血の気が引いた。
「そうか、銀の毛並み……」
「じゃああの小娘は」
「ああ。孟 朧華の縁者だろうな。手出しすれば命がいくつあっても足らん」
虎人族は華国でも希少種であり、なおかつ心身も魔力も強靭な個体が多い。そのため護衛としても使役獣としても愛玩獣としても好事家たちの需要が高く、ひとりでいるところを拐われて違法奴隷にされる例が後を絶たない。
だが、銀の毛並みとなれば話は変わってくる。虎人族の中でも最強とされる“銀虎一族”は霊獣と呼ばれる特別な一族であり、単体で並の虎人族10名の戦力に匹敵するとも言われるのだ。そして、その銀虎一族の中でももっとも有名なのが孟朧華。彼女こそが華国のみならず東方世界全土にその名を轟かす、歴代英傑の中でも屈指の実力を誇る現役の英傑なのである。
そんなわけで、銀麗を拐って売り飛ばしひと財産を得ようと画策した男たちは企みを諦め、溜息をつくほかはない。実のところどこの華国人居住区でも似たようなやり取りがあって、銀麗はそれに全く気付いていなかったりする。
「だがよ兄貴、あの銀虎、奴隷だったぞ」
「…………は!?」
「間違いねぇよ。左胸に隷印の打刻があった」
「どこのどいつだよ、銀虎なんぞを奴隷にできる奴ってなぁよぉ」
「……知るか。そんな恐ろしい手合のことなんぞ考えたくもねえ。お前たちも命が惜しいなら忘れるんだな」
「…………違ぇねぇや」
自分でも全くあずかり知らぬところで、勝手に最強の存在にされつつあるアルベルト。本人がそれを知ることはおそらく永遠に無いはずである。
しばらく歩いて、聞いたとおりに蓉州人の住む区画を見つけた銀麗は、だがここでも落胆に肩を落とす事になる。
「やはり、そう簡単には見つからんか」
住民の話によれば、この居住区が蓉州人のコミュニティとしては最大規模であるという。だがやはりと言うべきか、虎人族が過去にこの居住区に住んでいたことも、逗留したこともないのだそうだ。
こうなると、やはりアルベルトが約20年前に実際に会っていたという旧都ハグマターナに向かうことも検討すべきなのかも知れない。ただ奴隷の身で主人とどれほどの距離を離れられるかは分からないから、場合によっては主人にも足を運んでもらわねばならないだろう。だが主人に恋慕の情を抱いている勇者殿が果たして許可してくれるだろうか。
「お前さんには悪いが、朧華はここには一度も来たことがないのう」
「……む?ご老人、母を知っているのか」
「儂はお前さんの祖父の代から虎岈谷と付き合いがあったからの。もっとも羌道からこちらに移り住んでもう20年ほどになるが」
「おお、ではご老人は羌族の出か」
「華国も儂ら西戎には住みにくくなったでな。まあこちらでのんびりやっておるよ。——そうそう、こちらに移った時には朧華も一緒じゃった」
なんとこのご老人、聞けば朧華や銀麗の故郷である虎岈谷にほど近い羌道県の出身であった。華国を支配する華民族にとって蛮族とされる、西の戎のひとつである少数民族の羌族であり、故郷に見切りをつけてはるばるリ・カルンまで家族揃って移ってきたのだそうだ。
その時に、当時すでに英傑として活動を始めていた母の朧華と同道してきたのだという。だが彼女とはこの地で別れてそれっきりであり、その後の消息は分からないらしい。
「まああの子もお役目のあろうしの。生きておるうちにもう一度でも会えればよいが」
「もし吾が母と会う事があれば、必ずやご老人を訪ねるようお伝え致す」
「ほっほ、よいよい。あの子もお前さんのような娘を儲けて息災にやっておると知れただけで満足じゃでな。それ以上多くは望まんよ」
その後も少し昔話に付き合ってから、銀麗は老人の元を辞した。結局、老人以外からは母の情報を聞くことができず、足取りは不明のままである。
だがそれでも、母を見知った人物と会えたのは銀麗にとって大きかった。母は確かにこの地に来た。それが確かめられただけでも手応えを感じられるというものである。
そうして気分良く、北門から居住区を出たところで銀麗の足が止まった。
(なっ…………なんだ、これは……っ)
銀麗の目は大きく見開かれ、その大きな目を覆い尽くすほど真ん丸に瞳孔が、瞬時に広がってゆく。普段は尻の後ろで不規則に揺れている太い尻尾が腰に巻き付き、いつもはピンと立っている大きな丸い耳は後ろ向きに伏せられる。腰を落とし頭を低く下げ、踵が浮く。いつでも瞬時に全力で動けるよう、全身が態勢を整える。
これまでに感じたこともない強烈な気配。油断すればまず間違いなく、一撃で屠られかねない。無意識に全身が震える。これほど絶望的な力の差を見せつけられているというのに、向けられた気配は殺気ですらなかった。それなのに生きて逃れられるとは微塵も思えないのだ。
今すぐこの場から逃げ去りたいが、下手に動けば間違いなく背後から首を落とされて終わる。かと言ってその場に蹲ったところで防ぎきれるとも思えないし、術の詠唱をしただけでも喉をかき切られそうだ。せめてもの抵抗にと全身の気を可能な限り練り上げ、いつでも『硬功』を発動させられるよう全身に漲らせた。まあ気休めにしかならないだろうが。
敵の正体は分からない。どこから狙われているのかも分からない。気配の出処が全く察知できない時点で実力差が隔絶しているとよく分かる。
ああ、母にも会えずに吾はこんな所で終わるのか。せっかく母の昔話を聞けてよい気分だったというのに、神仏もなんとも残酷なことをなさる。
絶望に沈みつつ、それでも何とか心を奮い立たせている銀麗の肩に、不意に、ポンと手が置かれた。
「あれぇ〜、故郷に残してきた娘とよく似た虎人族がいるなあ。こんな西の果てで同胞に会うなんて、なんとも奇遇だねえ」
頭上から降ってきた声に、聞き覚えがあった。
というか、聞き間違うはずがなかった。
ギギギ、と錆びついた機械を無理やり動かすような、ぎこちない動作で、銀麗が振り向く。
「ぴみぎゃーーーーーーっっっ!!!!」
北門の外からいきなり聞こえてきた特徴的な悲鳴に、羌族の老人が慌てて出てきた時には、そこにはもう何もなかった。悲鳴の主も惨劇の痕跡も何もなく、ただ普段の街並みと雑踏が広がっているだけだった。
いつもお読み頂きありがとうございます。
次回更新は22日の予定です。
ただしストックはありません(爆)。
出そうか出すまいか迷ってたあの人、役目が見つかったんで出演決定!




