4-41.虎人族の娘
アナトリア皇城地下の奥深く、隔離され厳重に警戒を施された薄暗い地下牢。城の地下にいくつか存在するうちのひとつのエリアの、長い通路に厳重に封じられた小部屋が並ぶその最奥の一室に、彼女は捕らえられていた。
両手首と両足首、それに首にまで[封魔]の術式が施された特別製の鋼の枷が嵌められ、その上で手足をそれぞれ人の腕ほどもある太い鉄鎖で石壁に固定されている。鉄鎖は立ち座りができる程度には余裕が持たせてあるが、横になることまではできそうにない。そして座るための椅子は用意されてはいるものの座面の真ん中に穴が開いていて、つまりそれは尿瓶である。
地下であるがゆえに窓などない。そして光源になりうるものも室内にはない。まるで暗闇に閉じ込めること自体が収容される罪人に対する罰であるかのようだ。
その牢の重い鉄扉が、軋みながら開かれる。開くと同時に通路から差し込んでくるまばゆい光にしばらくぶりに身を晒されて、彼女は眩しそうに目を眇めて顔を上げた。
『気分はどうだい?⸺まあ、こんな場所で拘束されて気分がいいはずもないだろうけど』
入ってきたのはいかにも冴えない男だった。人間の体格の良し悪しなど分からないが、大した手練でもないのはひと目見て分かる。だがこの男は我が爪撃を受けてなお、一撃で事切れなかった。それを考えると、見た目で侮るのは危険だろう。
それに何より、この男は母の名を口にした。そのことについて、是非とも聞き出さねばならない。
『君も聞きたいことがあるだろうし、こちらも聞かなくちゃいけないことがあるんだ。どうだろう、情報の交換といかないか?』
だがこちらが何か言う前に、その男は人好きのする笑みを浮かべながら、華国語でそう言ったのだった。
その提案に乗るのは吝かではない。だが残念ながら、それに応じられない事情がこちらにある。
黙したまま応えずにいると、男は困ったような顔をして頭を掻いた。
『じゃあ質問を変えようか。君は黙秘を強要されているね?』
肯定なら首を縦に1回、否定なら横に2回振れと言われたので、肯定してやる。情報を貰わねばならんのだから、このくらいは教えてやってもいいだろう。
そう。忌まわしきはこの身に施されたこの術だ。吾の抗魔がなんの役にも立たなかった程には強力で、そして強制力も高い。これさえなければ、あのような卑劣な奇襲などこの吾が成すはずもなかったというのに。
『華国語を解するはそなただけか?この城はずいぶんと大きいようだが、他に誰も居らぬのか?』
発言自体を封じられているわけではないと示すために、敢えて当たり障りのないことを言ってみる。実際、言葉が通じないことは不便この上ない。唯一理解していそうなこの男も、おそらくは平易な言い回ししか解さぬであろう。
『居らぬなら居らぬで、[翻言]の使い手ぐらい居ように』
『あー、[翻言]は、こっちの世界ではあまり必要ないんだ。各国で通用する世界共通語があるからね』
翻言とは、理解できぬ言語を解析して術者に理解できる言語に自動通訳する術式である。大半の地域で現代ロマーノ語が通用する西方世界ではほとんど使われないが、民族も国家の数も多く言語的統一性のない東方世界では重宝される魔術だ。
『ほう。河西の国々はかつてひとつの国だったという、その名残か』
『よく知ってるね。その通りだよ』
ならばやむを得まい。河東とは事情が違うということだ。
『時にそなた、驪国語はどうだ』
『リ・カルンの言葉は覚えてないんだ。現代ロマーノ語で通用したし、華国語は気功を理解するのに必要だったから覚えただけで』
『そうか。ではその華国語と気功は誰に習った?』
吾がもっとも知りたいのはそこだ。
もしこやつが、母の教えを受けたと言うのなら。
『残念だけど、そこから先はこちらの知りたい情報との交換になるんだ』
チッ。上手く言いくるめられなんだか。
「ってことで、そろそろ何か分かったかい、ミカエラさん?」
と、男が不意に後ろを振り返って誰かに何事か声をかけた。
すると開いたままの入口の陰から、ひとりの女が姿を現した。青い縁取りと金糸の刺繍の施された白い法衣に青い羽織を纏った、紅い髪の娘。
この娘はあの時も勇者とやらの側にいたな。ではこの男ともども勇者の取り巻きということか。
娘は憎々しげな目を向けてきていたが、しばらくするとため息とともにその目が逸らされた。
「[解析]は済んどる。⸺[隷属]に[制約]、ようある奴隷契約ばってん、組成が既知の術式とは全然違うて仕組みのよう分からんね」
「そんなに強い術が?」
「そこまで強力な術式やなかけど、どうも西方世界の術式やないごたる。ばってんまあ、ひとまずそれはどうでもよか」
「そうだね。どうでも良くはないけど、レギーナさんを襲わせたのが誰なのかさえ分かれば」
「そういう事たいな」
法衣の娘は、そこで嫌そうに顔をしかめた。
何を話しているのか分からんが、あの顔は自分の意に沿わぬ事を言わねばならぬという顔だ。
「術式が難解やけんが、解除するより命令権ば上書きする方が楽ったいね」
「そうなのかい?」
「そやけんくさ、⸺おいちゃん、この奴隷ば引き取っちゃらん?」
「…………は?」
今度は男の方が唖然とした顔になった。
どうやら、何か思いもよらぬ方向へ話が進んでいる気がするのだが?
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
虎人族の少女奴隷は、鉄鎖を解かれて地下牢から連れ出された。アルベルトとミカエラに先導され、周りはアルタン率いる第七の騎士たちのほか魔術師団の厳選されたメンバーで固められている。
封魔の鋼枷はつけられたままだし、両腕と両足の鋼枷はそれぞれ鎖で繋がれているため、少女は自慢の体術も魔術も封じられたままだ。それを解っているのかいないのか、彼女は大人しく促されるまま歩いている。
程なくして一行は、地下牢エリアから少し離れた別の地下エリアに到着した。そこにあったのはやはり石壁で覆われた地下の一室だが、地下牢よりはずっと広く清浄な空間だった。
床には白く光る魔方陣がすでに描かれている。先に来ていたクレアが準備していたものだ。
「これは……?」
「おいちゃん、今から手順ば説明すっけん、言われた通りに詠唱してばい」
「えっ俺がやるの!?」
「今さっき説明したやんか。[契約]主ばおいちゃんに替えるっちゃけん、おいちゃんが唱えんでどげんするとよ」
「そ、そうか。そうだね?」
言いながら首を傾げているあたり、まだアルベルトはよく理解していなさそうである。
奴隷契約を結ぶための[契約]、対象に絶対服従を強いる[隷属]、それに命令違反を犯した際に与える罰則を規定する[制約]。この三種の術式が虎人族の少女に掛けられていた。しかもそれを連動させるよう儀式魔術で複合化させ、特定の主人の命令にのみ反応するよう組まれている。
じっくりと解析して構造を解き明かし、縺れた紐をほどくようにひとつずつほぐしていけばそのうち解除できるはずだし、クレアとミカエラであればそれも可能だろう。だが解除するまでにどれほど時間が必要か読めない。少なくとも数日で何とかなるとは思えなかったし、アンキューラの皇城滞在だけでももう10日に及んでいるだけに、これ以上足止めされるわけにもいかなかった。
なので主人をアルベルトに書き換え、新たな主人の命令で洗いざらい吐かせようというのがミカエラの立てた作戦だった。
なぜアルベルトかというと、彼だけがこの獣人族の言語を理解していたからである。
正直ミカエラとしては、どんな事情があるにせよ親友を瀕死に追い込んだ虎人族の少女など赦せるはずもない。だが解析した結果が、絶対服従を罰則付きで強要する難解で複合的な奴隷契約である。身のこなしからしても相当な強者と見て取れるこの獣人族をもってして抗えない術式だと考えれば、おそらくこの少女も自分の意志など関係なしに命ぜられるままに動くしかなかったのだと理解せざるを得なかったのだ。
であれば、情状酌量も考慮しなくてはならない。勇者パーティの一員としても、神教の法術師としても、私怨で行動するわけにはいかない。
魔方陣の中央に虎人族の少女が立たされ、魔方陣の外にそれを囲むように三方にアルベルト、ミカエラ、クレアが立った。3人の間にもそれぞれ、魔術師団のメンバーがひとりずつ立ち並ぶ。
5人が聞こえるように声を上げて詠唱し、アルベルトがそれを追唱する。問題なく成立している術式に干渉して無理やり書き換えるのだから繊細さと大量の魔力が要求され、アルベルトは体内からゴッソリ霊力を持っていかれる感覚に苦しんだ。ミカエラもクレアも、それに魔術師団員たちも額に汗を浮かべている。
アルベルトは詠唱中に、あらかじめ渡されていたステラリアのポーションを3本飲み干した。自分の手持ちはダンジョン最下層で使い果たしていたので、これは魔術師団が準備したものだ。
長い詠唱が終わり、チリリと焼け付くような感覚にアルベルトは左手の甲に目をやった。
そこには見たこともない文様が、焼き印のように浮かび上がっていた。奴隷と契約していることを示す、隷紋だ。これと同じものが、奴隷の身体の同じ部分に現れているはずである。
「ふー、何とかなったばい」
額の汗を拭いつつミカエラが歩み寄ってきた。
「おとうさん、なにか命令してみて」
クレアも側に寄ってくる。
《おい。……これは、どういうことだ?》
アルベルトの脳裏で声が響く。虎人族の少女の声だ。
《もしや、術式を上書きしたのか?》
《ええと、どうやらそうみたい》
脳内に響く、つまり一種の念話のようなものだ。おそらくは主人と奴隷とで意志の疎通を可能にするために組み込まれていたのだろう。
《ということは、なにか?そなたが新しく我が主になったということか?》
《ええと、うん、そういうことになるみたいだね》
《…………何だか頼りないのう》
《ははは。それは申し訳ないけど我慢してもらえるかな》
《まあ良い、前の主は不快感しかなかったからな。それに比べれば誰であってもマシというものよ》
《じゃあ早速だけど、何か命令してみてもいいかい?》
《これは異なことを聞くな。主の命は絶対であり、下僕たる吾に拒否権などあるはずがなかろう》
《そっか。まあそうだね》
アルベルトは左右を見渡した。ミカエラもクレアも目の前まで来ていて、クレアは小首を傾げている。魔術師団員たちも寄ってきていて、きちんと成功したか確認したがっているようだ。
「じゃあこちらに来て。ここで跪いて名乗りなさい」
アルベルトは魔方陣の中央に佇んだままの虎人族の少女に手を差し伸べながら、敢えて現代ロマーノ語でそう命じた。すると少女は、理解ができないはずなのに素直に従いアルベルトの前までやって来る。
そして左膝をつき、右膝に右手を添えて左拳を地につけて、アルベルトに恭しく頭を垂れた。
「我が新たな主に挨拶申し上げる。華国蓉州の産、虎人族の英傑たる孟 銀月が娘閃月、字は銀麗と申す。以後末永く、忠を尽くすとここに誓おう」
そうしてはっきりと、現代ロマーノ語で口上を述べたのだった。
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次回更新は4月24日です。
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