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本日三本目です。
王都から西へ向かうこと七日。そろそろ結界の外へ出る頃だ。一応の目的地であるマッキンレイ辺境伯の領地には順調にいけば、あと三日というところだろう。その前に向かうところがある。この辺りか、と馬に鞭を入れて街道から細い道に入る。
「おめ、道まちがってんぞ。このままだと森の方に入んぞ。戻れ戻れ」
クリスティーナ婆さんがわめき立てる。
「このままでいいんだよ」
返事をしながらエクスは手の中にあるメモを見る。旅に出る前にドロシーから手渡されたものだ。ひどく時間を掛けて書いたらしく、字も乱れているし、インクも途中で乾いて何度も付け直している。それでもどうにか『アプデの泉』と読めた。
調べたら聖女にとっての聖地のような場所らしい。歴代の聖女が何人かその場所を訪れているという。八代前の聖女が向かったのを最後に、今では放置されている。聖女ならざる身では正確な場所すら不明だった。王宮ならばどこかに記録が残っているかも知れないが、元よりそれに触れられる身分ではない。
文字の下に書いてあるのは地図らしく、ドロシーはそこに行きたいようだ。辺境伯の領地に向かう途中のようなので、先にそちらへ向かうことにした。
道は途中で獣道に変わり、やがてそれすらも消え失せた。無論、馬車では通れないためドロシーを背負い、傾斜を徒歩で行くことになる。以前、負傷した騎士を担いで運んだことがあるが、それ以上の重量を感じる。額だけでなく背中も汗みずくだ。
「道はこっちで合ってますか、聖女様」
何度か話しかけるが、無言のままだ。無視しているのではなく、反応に時間がかかっていると分かっているので辛抱強く待つ。
すると肩越しに木々の間を指さすのでその指示に従って歩いて行く。
「おめ、こんな山ん中に何の用だあ。小便ならそこでやれそこで」
クリスティーナ婆さんも杖をつき、ぜえぜえ息を吐きながら着いてくる。馬車で待っているように命じたのだが、案の定無視された。
「おめみたいなケダモンと二人にしたら何されるっかわかったもんでねえ」
絶対にするか、と反射的に返事をしかけて口をつぐむ。背中の聖女様が気を悪くするといけない。どこぞの王子とは違うのだ。
何度か丘を越え、坂を下り、深い森を進む。奇妙なことに魔物どころか獣や虫にすら出くわさない。時折、大きな足跡を見かけるので、神聖な場所だからというより聖女様と一緒だからだろう。さもなければエクスは自分の倍以上はある相手と戦わなくてはならないところだ。クリスティーナ婆さんはすでに限界らしく、杖の先をエクスに持たせ、ロープ代わりに引っ張らせている。
「おや」
最早歩くのも困難なほど鬱蒼と生い茂る木々の隙間からきらきらと反射するものが見えた。あれは、泉だ。
遠目ではよく見えないが、透明度も高く、不自然なほど獣が立ち寄った様子もない。落ち葉一枚水面に落ちていないのだ。あそこに飛び込んだらさぞ気持ちいいだろう。
「あれが『アプデの泉』ですか?」
ドロシーに尋ねてみると肩を三回叩かれた。事前に決めておいた、『降ろせ』の合図だ。
言われるまま降ろすと、ドロシーは樹にもたれるようにして泉へと向かう。
あの体格で狭い木々を通れるのかと思ったが、まるで樹が道を空けるように斜めに傾いていく。
これが聖女の奇跡なのか、と驚いていると、ドロシーは常日頃からは考えられない速さで泉の縁へとたどり着いていた。
のろのろとした動きで特注の木靴を脱ぐと、素足を水面に漬ける。一歩、また一歩と泉の真ん中へと歩いて行く。
「まさか、身投げするつもりじゃありゃすんめえなあ」
クリスティーナ婆さんの言葉に心臓が跳ね上がった。まさか、とは思ったが否定は出来なかった。婚約者に裏切られ、聖女の地位も事実上失い、頼るべき身寄りもない。残っているのは、中年の騎士と老婆だけ。世をはかなむには十分すぎた。
「お待ちください」
あわてて追いかけようとしたとたん、硬いものにぶつかってひっくり返る。立ち上がると見えない壁のようなものがエクスの行く手をはばんでいた。殴りつけてもびくともしない。剣を抜いて切りつけてもみたが、岩のかたまりにでも当たったように跳ね返されるだけだった。
「何やってるだよ、おめ、すっとろいことするでねえだぞ。聖女様が、ほれ、もうひざの辺りまでつかっちまってるぞ」
「分かってる!」
侵入出来る場所はないかと泉の周囲をぐるぐる回ってみたが、どこかで見えない壁にはばまれ、進めなくなる。ならば上はどうだ、と手近な木に登ってみたが、てっぺん近くまで登っても見えない壁は続いている。試しに木の実をちぎって空高く放り投げてみたが、泉の真上辺りでカツンと跳ね返され、泉の向こう側へと消えていく。
横も上もダメ。ならば下から、という手も考えたが、ドロシーはもう胸の辺りまで沈んでいる。悠長に地面を掘っている時間はなかった。
普段あれだけ動作が鈍いのに、どうしてこんな時だけ素早いのか。同時にドロシーがここに来た理由も悟った。良くも悪くも聖女の周りには人が集まる。自害するにしても周囲に人がいれば止められる。毒を飲んでも首を吊っても死ねるとは限らない。応急処置が早ければ助かる可能性もある。
高所にはそもそも一人では登り切れない。ここならば入れるのはドロシーだけだ。神聖な地で終焉を迎えたいという気持ちもあったのだろう。
「ああ、いけねえ。いけねえぞ。このままじゃあ」
「おい、ふざけんな!」
一縷の望みを掛けて、見えない壁の向こうにいるドロシーに呼びかける。否、怒鳴りつける。エクスは怒っていた。安易に死を選択するドロシーにも、自分の事ばかり考えて、ドロシーの苦悩に気づかなかった自分自身にも。
「アンタ聖女だろうが! こんな形で終わっていいのか! あんなドグサレ王子とワガママ娘に一泡吹かせたくないのかよ! 俺は……こんなことさせるためにアンタをここまで連れてきたんじゃねえぞ!」
壁を叩きすぎて拳から血がにじむ。音でも声でもいいから思いとどまらせたかった。思いとどまってほしかった。
だがドロシーは一度も振り返ることなく、髪の毛まで全て泉の中に沈んでいった。泉の真ん中辺りから小さな泡が立ちのぼり、やがて消えた。
エクスはがっくりと膝をつく。クリスティーナ婆さんは顔をわななかせて祈りの文言を唱えていた。死者の魂の安寧を願うものだ。
「バカ、ヤロウ……」
助けられなかった。無力感に苛まれながらつぶやいた。その時だった。
強い光を感じた。顔を上げると、泉全体が淡い光を放っていた。光はどんどん強まり、やがて光の柱となって深い森の中に屹立する。
何が起こっているのか。エクスは目の前に光景に見入っていた。
光の柱は輝きを増しながら徐々に細くなっていった。奔流のようなまばゆい光に直視できず、手で顔を覆い、目を細めながらも見逃すまいと見続ける。
不意に光が止まった。手をのけると、光の柱が二つに割れ、中から一人の女が現れた。
エクスは我が目を疑った。女は、泉の上に立っている。素足を軽やかに動かすと、小さな波紋を立てながら一歩、また一歩と水の上を歩いている。まるでたった今、この世にやって来たかのような開放感に溢れていた。
すらりとした手足に、細身だが胸の膨らみやくびれは引き締まっていて、何よりその美貌は泉の女神か天上の妖精のように非現実的だった。今までに出会ったどの美姫や美女もかすんで見えた。だがエクスがおどろいた理由はそれではなかった。
金糸の入った白いローブを身に纏い、灰色がかった髪を首筋で切り揃えている。何より金と青の虹彩異色は、紛れもなくたった今、永遠の別れをしたばかりの聖女を想起させた。クリスティーナ婆さんがあまりの光景に腰を抜かして震えている。
女は泉を出ると水滴を垂らしながら歩いてくる。見えない壁もすり抜け、呆然とするエクスの前に立った。
「$&&%#(%$#%=)!」
「え?」
何事か喋ったのだがエクスには聞き取れなかった。知らない言語で話したというより、何十人もの人間が同時に別々の話をしたような錯覚を覚えた。
「&=O"#%")F!~`}_?*`!」
「なんだって?」
また女が話したのだが、やはり聞き取れなかった。どうしたものか、と悩んでいると女はぽん、と手を打った。それから深呼吸をすると、笑顔で言った。
「ここまで連れてきていただき、どうもありがとうございました、ピークマン卿」
流暢で透き通っていて、聞き覚えのある声だ。
「あら、いけない」
女はエクスの手を取る。壁を殴りすぎた手が今になって痛み出してきた。骨にヒビが入っているようだ。
「『治癒』」
短く唱えると、手の傷が消えた。
「調子はいかがですか?」
握ったり開いたりして感触を確かめる。痛くない。完治している。治癒の奇跡自体は聖女以外にも使えるが、これほど早く治せる者などそうはいない。すり傷程度ならいざ知らず、骨の異常ならば三百は数えないと治らないものだ。
「よかった」
女がほっとした顔をする。どきりとさせられながらも改めてエクスは抱えている疑問を口にする。
「もしかして、聖女様……ドロシー様なの、ですか」
「はい」
「その姿は……」
「ああ、これですね」
自身の姿を見回すと、ドロシーは少し困ったように言った。
「とりあえず、服を乾かしましょうか」
足下に水溜まりができていた。
今日はこれで終わりです。
明日からは毎日20時頃に更新の予定です。




