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密かに抱いていた予想が現実となり、一瞬息が詰まった。
『聖女』とはあくまでウィンディ王国内での称号であり、正式には貴族でもないのだが、問題にもならない。適当な貴族と養子縁組させればいいのだ。
ウィンディ王国からすれば許されざる裏切りだろうが、先にドロシーを裏切り、見捨てたのは王国の方である。愛国心など期待する方が馬鹿げている。良い条件で引き留めようにも、第三王子との婚約を破棄したばかりだ。人質に取れるような家族や知り合いもいない。
つまり、ドロシーとテレンスとの結婚には何の障害もない。
おめでとうございます、と言うべきなのだろうか。ただそれを口にするのは憚られる気がした。それが木屑ほどでも残った王国への忠誠心なのか、あるいは今の生活が崩れてしまうことへの恐怖なのか。それとも全く別の何かなのか。理由はエクス本人にも定かではなかった。
「ドロシー様はそれで、幸せになれますか」
口から出たのは、全く別の質問だった。
「私の口からは良い悪いを言うことはできません。ただ、あなたが幸せになれるかどうかが気がかりです」
『聖女』として任命されて十五年。十歳から二十五歳という、貴重な娘時分にたった一人で王国を支え、苦しんできた。それももう終わった。
ドロシーには幸せになる権利がある。今までの分を埋め合わせるくらいに幸せになってもらわねば、帳尻が合わないではないか。
「私やあの婆さんのことは心配いりません。どうとでもなります」
いざとなればクリスティーナ婆さんを抱えて皇国に亡命したっていいのだ。
「どうかお心のままに。今のあなたにはそれを成すだけの力があります」
ふとエクスの脳裏に幼いドロシーの姿が浮かんだ。孤児院から連れて来られたばかりで、常に周囲の顔色をうかがい、怯えているような子だった。しかも痩せぎすで、栄養が足りているようには思えなかった。見かねて調理場からもらってきたパンや野菜を半ばムリヤリに食べさせたものだ。
野ネズミのように一心不乱にパンを頬張っていた子が、今では聖女様だ。変われば変わるものだ。いずれにせよ、大切なのは彼女の幸せであろう。
「及ばずながら私も力になります。そのためなら使い走りでも何でもさせていただきます」
どうせ、死んだところで誰かに惜しまれる命ではない。損ばかりの人生だが、聖女様……いや、幼かった少女の幸せのために費やすのならそれも悪くない気がした。
「……お気遣いありがとうございます」
ドロシーの声が湿っている。泣いているのだろうか。
「けど、もういいんです。お断りしちゃいましたから」
「へ?」
間の抜けた声が出た。第二皇子との縁談を断ったというのか。ミレニアム皇国は、ウィンディ王国以上の大国である。領地の広さも経済も軍事も文化も全てが上回っている。
テレンス本人も好人物のようだ。誠実そうだし、地位や身分を鼻にかけた様子はない。本当によろしいのですか、と口に出そうとしてあわてて飲み込む。お心のままに、とたった今口にしたばかりではないか。
「理由をお伺いしても?」
「簡単ですよ」
ドロシーは顔を寄せると、蝶の仮面を外した。下からのぞき込むように二色の瞳が向けられる。
「私には、お慕いしている方がいます」
刹那、エクスは視界が真っ白に染まっていくのを感じた。音も消え、踊る仮面の男女も塗りつぶされ、目の前にいるのはドロシーたった一人だ。
二人きりの真っ白な世界で、間近にある彼女の微笑みがひどく遠く感じられた。
「それは、どなたですか?」
かろうじて絞り出すようにそれだけを聞いた。まるで泣いているような声だと、自分自身でも滑稽に思えた。
「ナイショです」
ドロシーは蝶の仮面で目を隠した。
「私には手の届かないお方ですから」
不意に音が戻った。曲が終わり、男女のざわめきが広間を満たしていた。
「今日は疲れました。先に休ませていただきますね」
仮面を着け直すとドロシーは身を翻し、会場の外へと消えていく。部屋まで送ろう、と踏み出した足が動かなかった。彼女の背中がそれを拒否しているようにも見えた。
与えられた部屋を出ると廊下は思いの外、肌寒かった。窓から夜明け前の空を見上げながら、エクスは白い息を吐いた。見つかると面倒なので、朝になる前に王国へ戻らねばならない。身を縮めながらドロシーの部屋をノックとようとして、手が止まる。
昨日の仮面舞踏会の言葉が脳裏に甦った。
旅に出て以来、たくさんの男が蜜蜂のように吸い寄せられ、愛の言葉を捧げた。数は少ないが女性までいた。
大勢から思いを寄せられたが、ドロシーから思いを寄せた相手というのに心当たりがなかった。むしろその手の話題に興味がないのか、適当にあしらってきた風にも感じられた。別れにしてもあっさりとしたものだ。あるいは、クリスティーナ婆さんなら何か知っているのだろうか。
ドロシーは「手の届かないお方」と言った。つまり恋愛成就には何かの障害があるのだろう。身分ではあるまい。昨夜、ミレニアム皇国の第二皇子から妻にと求められたくらいだ。
考えられるとしたら、相手は既に恋人がいるか、結婚しているかだろう。それならば、納得がいく。そこでエクスははたと気づいた。
もしや好きな相手とは、メレディス王子ではないだろうか。
いくらなんでもあり得ない、と自身の突飛な発想に首を振った。あれだけ手ひどい扱いを受けたのだ。百年の恋も冷めるというものだろう。しかし、そう考えると色々と辻褄が合う。
曲がりなりにも十年も婚約していたのだ。その間に情が移ったとしてもおかしくはない。昔のドロシーの交友関係は狭い。幼い頃は孤児院で過ごし、十歳からは王宮内で『結界』の維持のために、儀式の部屋と与えられた部屋を往復する毎日だ。友人もいなかったと聞いている。
その上、『結界』から流れ出る澱のせいで日を追うごとにみにくくなっていく。すがるものといえば婚約者くらいではないだろうか。
だがメレディスはドロシーを嫌悪し、その上ヴィストリア姫という恋人がいる。これ以上手の届かない相手はいないだろう。辺境旅の途中、何度かドロシーは王都へ手紙を出している。
一度だけ宛名を見かけたが、あれはメレディス王子だった。てっきり旅の報告だと思ってさして気にも留めなかったが、その中に愛の言葉が綴られていたとしても不思議ではない。
「どうかお心のままに。今のあなたにはそれを成すだけの力があります」
そう考えれば、自分はなんと軽々しい言葉を吐いてしまったのだろう。後悔が込み上げる。励まそうとあれこれ言葉を尽くしているのに、裏目に出てばかりだ。
扉が開いた。
「あら、おはようございます」
「え、ああ」
中からドロシーが現れる。人目を憚るため、頭から白いフードを被っている。まるで巡礼のような格好だ。
「それでは、参りましょうか」
にっこりと笑う。その顔に、昨夜覗き見た憂いは見えなかった。
外に出ると、テレンスが供を連れて待っていた。
「この度は本当に有り難うございました。このご恩は一生忘れません。母に成り代わりお礼を申し上げます」
丁重に、率直に感謝を述べる。どこかの第三王子に爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいだ。
「お礼はいりません。それより、くれぐれも約束をお忘れなく」
「承知しております」
テレンスが深々とうなずいた。
「約束?」
エクスが反射的につぶやくと、「後で説明します」とドロシーが言った。
それでは、とドロシーはエクスの手を取る。二人の体がふわりと浮き上がり、一気に舞い上がる。黎明の空を切り裂いて再び山を越え、ウィンディ王国へと戻って来た。
サーフィスの領主の館に戻り、与えられた部屋に窓から忍び込む。
寒々しい空気に身を震わせながらエクスはロウソクに火を付ける。
闇の中におどろおどろしい形相が浮かび上がる。
エクスは声を上げて飛び退いた。
「でっけえ声出すでねえだ。ぼけが。屋敷のもんが起きてくるでねえか」
クリスティーヌ婆さんが小馬鹿にしたように言った。夜中だというのに、部屋の真ん中に明かりも付けずに立っていれば誰だって驚く。
「腰抜かしている場合でねえぞ。どえれえことが起こってんだぞ。おら、それで夜も寝ずに聖女様のお帰りをお待ちしてたんだ」
大げ手に身振り手振りで訴えるが、口元にはヨダレの跡が付いている。
「それで、そのどえれえこと、とはなんですか?」
「見てくだせぇ」
ドロシーの問いにクリスティーナ婆さんは、窓を開けて山と反対側……王都の方角を指した。
エクスは目を剥いた。
はるか向こうの『新結界』が穴だらけになっており、その隙間から大量の魔物が入り込んでいた。




