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「お気持ちは察しますが……」
返事をしながらエクスはまずいことになったと頭を抱えたくなった。ドロシーはウィンディ王国お抱えの『聖女』である。
両国は領土問題などで今も対立関係にある。過去には戦争もしているのだ。それにテレンスといえば皇国の第二皇子である。その母といえば皇妃のテリーサであろう。勝手に敵対している隣国に赴き、皇妃を治療したとなれば立派な反逆行為である。
「ここは正式に要請していただいて……」
「それでは間に合いません」
ウィンディ王国側にとっては皇国に恩を売るまたとないチャンスだ。当然何かしらの要求をするだろう。土地か金品か、あるいは婚姻という名前の人質か。派閥の利害調整や根回しを考えれば何日もかかる。下手をすれば数ヶ月はかかるだろう。その間に皇妃の命が尽きかねない。
「お願い致します」
テレンスは翡翠色の瞳を揺らしながら懇願する。なかなか誠実そうな若者だとエクスは感心する。軍事力を盾に聖女を差し出すよう、要求する選択肢だってあったはずだ。脅迫という形を取らなかったのは、その現れだろう。
「皇都までとは申しません。母は山を越えたレッドストーンに静養という形で連れてきております。そこまで来ていただければ」
「わかりました」
ドロシーは笑顔でうなずいた。
「必ず治せるとは申せませんが、できる限りの事はいたしましょう」
「おお!」
感極まった様子でテレンスがドロシーの手を取る。
「感謝いたします……。どうか母をよろしくお願いいたします」
ほらり、と涙をこぼす。
エクスは頭が痛くなってきた。
「本当によろしいのですか」
小声でささやくとドロシーがくすりと笑った。
「ばれなければいいのですよ」
そういう問題だろうか。
「山はどうするのですか?」
テレンスの言う通り、通常のルートでは時間が掛かりすぎる。山越えしかないのだが頂上付近は今も猛吹雪だ。雪も人の背丈以上に積もっているという。聖女の力を使えば山越えなど簡単だろうが、吹雪を止めても雪を消しても目立つ。
テレンスの方を見ると、申し訳なさそうな顔をする。まさか帰りのルートを考えていなかった、と言うつもりなのだろうか。
「この町の東から登るルートならば比較的楽だと聞いていますので……」
比較的、とエクスは打ちのめされた気持ちで繰り返す。必死だったのは察するが、せめて帰りのルートくらいは計画して欲しかった。
「問題ありませんよ。私に考えがあります」
ドロシーが自信ありげに胸を張る。立ち上がると、クリスティーナ婆さんの方へ向いた。
「私は体調が優れないので、今日の夜会は欠席すると。領主様に伝えてください」
「ん、ああ。んだ」
まだ眠気の覚めやらぬ顔でうなずく。
では行きましょう、とドロシーはテレンスとエクスの手を取り、窓へ向かう。
「少し飛ばしますから。絶対に手を離さないで下さい」
窓を開けながら呪文を唱えると、ドロシーの体が宙に浮いた。
「え?」
二人の声が重なる。それが悲鳴に変わるのも同時だった。館の窓から飛び立つと、ドロシーは矢のような速さでミレニアム皇国の国境を越えた。
皇妃の治療はすんなり終わった。皇国のあらゆる術者もお手上げだった難病もドロシーの呪文によってすぐに治った。顔中に浮かび出ていた斑点もかき消え、土気色だった肌は生気を取り戻した。
テレンスはおおいに喜び、礼を申し出た。
「ささやかではありますが、母の回復を祝うパーティーをしようと思っています。是非、あなたにも出席していただきたい」
「いえ、お気持ちだけで結構です。時間もありませんので。皇妃様が快癒されたのなら我々はすぐにでもお暇させていただきたく……」
何を言い出すのか。こちらは見つかればまずい立場だというのに。エクスはやんわりと断りの言葉を続けたが、テレンスは引かなかった。どうしたものか、とドロシーに助けを求めると、困ったように首を傾げる。
「テレンス様のお気持ちは有り難いのですが、エクスの言うことも理解出来ます。明日の朝までに戻らないとおばあさんが困ってしまいますから」
がっくりと肩を落とすテレンスに、ドロシーは笑顔で言った。
「でしたら、こんなのはどうでしょう」
レッドストーンを治めている領主の館は賑わいを見せていた。内々だけの集まりと言っていたが、数十人はいる。いずれも貴族だ。
エクスは知らなかったのだが、レッドストーンには貴族の別荘がいくつもあり、今は大勢の貴族が静養に訪れているらしい。
貴族の集まりとなれば準備にも時間が掛かる。昨日の今日でこれだけ集まれるのか、と訝しんだが、元々舞踏会の予定だったところに皇妃の快気祝いをぶち込んだというのが正解のようだ。ドロシーが明日で帰るため、そのような無理をしたのだろう。
着飾った男女が華やかな音楽に合わせて踊っている。楽しそうだがその表情をうかがい知るのは難しい。
まさか仮面舞踏会とは、とエクスは感心する。参加者の素性についてはノータッチが暗黙の了解である。これならば正体はばれないだろう。エクスも犬を模した仮面を着け、壁のしみとなってワインをすする。
ウィンディ王国のものよりやや渋みが強いが、その分コクがあって美味い。個人差はあるだろうがエクスはこちらの方が好みである。
我らが聖女様は蝶の仮面を着けて、鳥の仮面を着けた男と踊っている。それがミレニアム皇国の第二皇子だとすぐに分かった。仮面の下からでも美形と悟れるような男などそうはいない。
周囲ではテレンスと踊る謎の女について噂し合っている。足取りも体の捌き方もかなりドロシーに気を遣って踊っている。いつぞやの辺境伯の令息と違って紳士のようだ。
ただその瞳に込められた熱情は、勝るとも劣らない。テレンスには婚約者はいないと聞いている。
初対面の時からドロシーに惹かれているのは承知していたが、皇妃の病を治してからは一層熱量が増した気がする。
あれは本気だ。最悪、寝ずの番をしなくてはならないのかとうんざりしかけて、はたと気づいた。ドロシーの方はどうなのだろうか。
身分や外見は言うに及ばず、性格も良さそうだ。大切にしてくれるだろう。皇族入りするとなれば、身につけるべき教養や礼儀作法は数え切れないが、今のドロシーならば問題ない。『アプデの泉』で頭脳も強化されたらしく、記憶力も抜群だ。あとは好みの問題か。
メレディスという悪例もあって異性関係の話については言及してこなかったが、ドロシーとてまだ若い。婚約破棄もされているのだし、誰に気兼ねする必要もない。今の外見と聖女の力があれば、どこの何様であろうと諸手を挙げて歓迎するだろう。
気がつけば、既に曲が終わり、別の曲に変わろうとしていた。テレンスは既に別の令嬢と組んでいる。ドロシーの姿は見えない。
しまった、とエクスは血の気が引くのを感じた。物思いに耽って護衛を忘れるなど、言語道断ではないか。
焦りながら周囲を見回していると、不意に横から手が差し伸べられる。
「一曲、いかがですか?」
振り返ると、蝶の仮面を着けた女が優雅に微笑んでいた。
「えーと……」
「曲が始まりますよ」
言葉は静かだが、有無を言わせない迫力があった。やむを得ず、一礼してから手を取る。
曲が始まった。大勢の男女に混ざって踊る。エクスは気が気でなかった。ダンスなど何年もしていない。足を踏みつけやしないか、誰かとぶつかりはしないか。失敗をしないように動きながらも視線が集まるのを感じていた。目の前にいるのは先程、皇子と優雅に踊った謎の美女である。この場にいる皆がドロシーを見ていた。
「よそ見しすぎですよ」
すねたような声に振り返る。ドロシーが不満そうに頬を膨らませている。
「私とのダンスはそんなにつまらないですか」
「いえ、そんなことはありません」
あわてて首を振る。
「ただ、ダンスなど久し振りなもので……」
「大丈夫ですよ」
仮面の下で微笑む気配がした。
「足を踏まれたってへっちゃらです。すぐに治せますから」
「そういうわけにはいきませんよ」
苦笑しながら金と青の虹彩異色から向けられる熱量に戸惑い、会話の糸口を探す。胸の中に生まれつつある感情から目を逸らしながら。
「空、飛べたんですね」
「ええ」
ドロシーはあっさりとうなずいた。
「国の端から端まで半日もかからないかと」
「どうして、今まで黙っていたんですか」
「必要ありませんでしたから」
空を飛ぶ魔力の消費量は、重量に比例する。エクスとクリスティーナ婆さんに加えて幌馬車まで持ち上げるとなれば、いざという時に魔力が使えなくなる可能性もある。急な用件でもなければ使う理由がない。
「浅慮でした」
聞いてみれば納得の理由である。自身の不明を恥じ入るばかりだ。
「お気になさらず」
ドロシーは恥ずかしげに首を振る。
「旅はみんな一緒の方が楽しいですから」
やわらかく微笑む。
エクスは目を逸らしながら次の話題を、と頭を巡らせているとドロシーが口を開いた。
「先程、テレンス皇子から結婚を申し込まれました」




