36 友情と愛情の狭間で……
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「ぷはぁっ!」
高坂が唇を放すと、秋山陽華は大きく息を吸った。それから焦点の合わない目を見開き、茫然としている。彼女の体内では今、心臓が爆発せんばかりの勢いで脈動していた。
「こ、これがキスッ!? まるで溶け合うよな――って、そんなことよりわたしと人間に、違いはあったか!? なあ、高坂!?」
「変わらない、変わらないよ――……秋山陽華。人間とエルフ、キスをした感触は同じだった」
秋山陽華に覆い被さったままで、高坂良は静かに言う。心臓も身体の一部も爆発しそうだったが、彼は精一杯、自制心を働かせていた。
「そうか。なんというか、これは――……とても幸せな感覚だ。もう一度、いいか? いいだろう?」
トロンとした緑色の瞳で高坂良を見つめ、秋山は懇願した。
高坂は彼女の頬に手を添えて優しく頷き、もう一度キスをする。最初は軽く、ついばむように。それからすぐに、お互いを貪るようにして。
もはや何の為にキスを望んだのか、秋山は失念している。ただ陶然とした気持ちが心の大半を占め、早鐘のように打つ心臓の音だけが頭の奥からガンガンと響いていた。
ただ身体の内側から溢れ出る幸福感に満たされ、何もかもを投げ出してしまいたい。そんな気持ちが合成麻薬のように彼女の心と身体を侵食して、今の行為を罪の意識から遠ざけている。
高坂良は、反対だった。
彼は人生の中で今、一番苦しんでいる。
裏切りという名の茨が全身に絡みつき、皮膚に無数の穴を開けている感覚だ。だというのに甘美な酒が喉に流れ込んで、この世ならざる酩酊を齎している。
正体は分かっていた。
茨の名は鍋島貴理子、酒の名は秋山陽華であった。
――最低だ。
高坂の頭の中をぐるぐると巡るのは、自分を咎める言葉であった。けれど彼の下半身は理性に反し、膨張を続けている。秋山陽華が身体を捩り、膨張したソレが彼女の太腿に食い込んだ。
「わ、わたしは……人間とエルフの違いの有無を確かめたい。だから、その……お前が望むのなら、だな……キス以上のことも、い、いいい、厭わんぞ」
エルフの長い耳が下がり、肩を震わせながら秋山が言う。意味は明白で、高坂の理性は今にも飛びそうだった。秋山陽華と言う名の酒は、強すぎる。けれど無理やり首を左右に振って、高坂は彼女から何とか身体を離すことに成功した。
――これ以上は、ダメだ。
秋山に酔えば酔う程、霧という茨が全身に食い込むのだ。これは自制などでは無かった。ただの恐怖が、欲望に勝っただけである。
それでも高坂良は理性の勝利だと信じ、身体を起こして再びベッドの縁に座った。
「俺達は、恋人じゃあない」
「そんなの、分かっている。分かっているから――……」
秋山陽華はボンヤリと目だけを動かし、高坂の背中を見つめている。彼女の口の中には、まだ高坂良の温もりが残っていた。
「でもエルフと人間は、十分に愛し合えると思った」
「だったら、わたしでも……高坂、お前の恋人になれるのだろう?」
「なれたとしても、秋山……俺は、お前とは友人であることを選ぶ」
「どうして? エルフも人間と変わらないと、いま自分で言っただろう。わたしもお前も同じものを食べて、同じように空気を吸って吐く。キスをしたってお互いの唾液が毒になる事も無いし、温もりだって感じていたはずだ。なにより高坂、お前はわたしで――……興奮した」
頬を赤く染め肩を震わせながらも秋山陽華は、勝ち誇っていた。太腿に当たった硬い感触が、自らの勝利を告げていたからだ。
「秋山、正直に言う。俺はお前を抱きたい。誰にも渡したくないとも思っている。でもな、俺は必ずお前よりも先に死ぬんだ。それを考えたら、お前を幸せにしてやるなんて、口が裂けても言えない」
沈黙の中、星々のきらめきは変わらない。秋山陽華は外を見つめ、闇に慣れた目を細めてゆっくりと言う。
「なぁ、高坂。お前は誰かを好きになるとき、その相手を幸せに出来るかどうか、そんなことをわざわざ考えるのか? わたしは逆だぞ。この人となら、地獄の業火に焼かれてもいい――……好きな人とならば、それも本望だと思ってしまう」
「たとえ長い年月を、一人で過ごさなければならなくなったとしても?」
「思い出さえあれば、わたしは――……」
「言うなよ、秋山。俺達は、友達だろ?」
「――うん」
窓から見える星々が滲んだ。秋山陽華は右手の甲で瞼を拭う。濡れていた。これ以上は聞くまでも無い。「高坂良は鍋島貴理子と別れない」それが現実なのだ。
だが自分に対する高坂良の気持ちも、秋山陽華はよく分かっていた。
――高坂は誰よりも、わたしのことを愛してくれている。だから、わたしを選べないのだ。
高坂は空になったビールの空き缶を、そっとサイドテーブルに乗せた。静かな部屋に、乾いた音が響く。
「俺さ、霧と結婚することにしたよ」
「そうしないと、彼女を失うからか?」
自分でも驚くほど冷静な声が、秋山の口から滑り出た。けれど、涙は枯れそうもない。
「たぶん、そうだろうな」
「わたしが人間だったら、違った選択をしたか?」
「もしくは俺がエルフだったら、別の選択をした。それは間違いない」
秋山陽華は起き上がり、高坂の肩へ頭を乗せた。この程度の甘えは、今なら許されるだろう。
「なぁ……高坂……わたし達は、ずっ友だぞ……」
「あぁ、もちろんだ」
高坂は秋山のキラキラと輝く頭を何度も撫でて、頬へ軽くキスをした。
その後、秋山陽華は低い嗚咽を漏らして再びベッドへ潜り、何も語ることは無く。
「秋山?」
「わたしは、もう寝たぞ」
「寝たやつが答えるかよ」
「……ぐぅ」
高坂は布団を被って丸くなった秋山の背中を見つめ、「ふぅ」と溜息を一つ。それから頭を少し頭を冷やそうと思い、そっと部屋を後にした。
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