第九十一話 気になる卒業生 前編
エクトルは、ナファイ国北方の農家の生まれである。
働くうちに薬草の栽培に興味を持ち始めた彼は、元々の勉強好きも手伝って、リーファンの薬学校の地方試験に奨学金つきで合格した。
王都ティルゴットの薬学校に入学し、他民族クラスで学んで三年目。彼は現在、二十歳になっている。
夏休み、エクトルは東ナファイ一人旅に出た。
(次の春に卒業して故郷に戻ったら、なかなか東方には出てこられない。あちこち出かけて、見聞を広めておこう!)
王都に来た時から、そう決めていた。旅行費用も、学生課に紹介してもらった放課後仕事で貯めてある。
そうして出かけた東ナファイは、北ナファイとは気候も食べ物も違う。何を見ても目新しく、エクトルは旅を楽しんだ。
旅の終盤、彼はフィーロ市にやってきた。
(いよいよ、ここからはまっすぐ王都に帰らないとな)
そう思うと名残惜しく、夕食もちょっといいものを食べようか、酒もつけようか、となる。
店の客とも仲良くなり、少々羽目を外してしまい──
──いつの間にやら、彼は夜の裏路地で壁にもたれ、座り込んでいた。飲み過ぎて、動けなくなったのだ。
(うう、頭が痛い……気持ち悪い)
この症状に効く薬を買わなくては、と考え、店を探して市場に向かったのは覚えている。
しかし、冷静に考えることができていれば、もうそういう店は閉まっている時刻だとわかったはずで。
おそらく宿からは逆に遠ざかっており、道を探すのもおっくうだ。それでも立とうとすると、身体が斜めになって結局倒れ込んでしまう。
(あー、動くと吐く。目が回る。もうここで寝るか……)
転がったまま、思った時だった。
「あの、どうしました?」
不意に、頭の上から可愛らしい声がした。
身体をわずかに転がして見上げると、さっきまでエクトルが寄りかかっていた壁に窓があった。そこから、若い女性がランプを掲げて顔を覗かせている。
黒髪を一本の三つ編みにしていて、柔らかな灰色の瞳は穏やかで優しい。
華奢で、儚げで、抱きしめたら折れそうで。
(うわぁ。好み、ど真ん中)
しかし、口説けるような状況ではないのが残念である。
「あー、大丈夫、だいじょぶ」
エクトルは軽く手を上げ、横向きになって顔を背けた。好みの女性に、飲み過ぎてつぶれた姿を見られて恥ずかしい、と思うくらいの理性は残っている。
ごまかすように、ぼそっとつぶやいた。
「くそぉ、シロジュだけでもあればなぁ……」
シロジュは、ラケオという花の根っこを乾燥させたものだ。二日酔いに効く薬湯にはたいてい入っている。
すると、女性が答えた。
「シロジュ? 私、持ってますよ」
「……へっ?」
驚いてまた顔を上げると、女性はニコッと微笑む。
「ちょうど昼間、市場でシロジュを買ったばかりなの。あれが必要ってことは、お酒を過ごしてしまったんですね? ちょっと待って、まずお水……」
いったん、彼女は引っ込む。
やがてガチャッと音がして、路地の奥の扉から彼女が出てきた。小走りにエクトルに近づいてしゃがみ込む。
「お水、飲めますか?」
カップを差し出されたので、エクトルはかろうじて肘をつき、頭を起こした。
「あー、ども、ども」
手を借りて一口だけ飲んだものの、水を飲むだけでも気持ち悪い。結局、顔を背ける。
彼女は質問した。
「頭が痛いですか?」
「ああ、うん」
「他には? 気持ち悪い? めまいは?」
彼の様子を観察しつつ、はいかいいえかで答えられるような質問をいくつかすると、彼女は「リョウブもレイチもあるし……」などとつぶやいて立ち上がった。
「私のついでなので、薬湯を作ります。ちょっと待ってて下さいね」
どうやら、エクトルが寄りかかっていたのは宿屋の壁で、彼女は厨房にいたらしい。
(ここも宿だったんだ。従業員か?)
扉(おそらく勝手口)から中へ戻っていく彼女を見送ると、エクトルは壁にもたれて水をちびちび飲んだ。
やがて彼女は、湯気の立つカップを持って戻ってきた。
「できましたよー」
(うう……正直、今は何も口に入れたくないけど)
何とか意識を保っていたエクトルだったが、仕方なくカップを受け取る。
ふわ、と湯気が顔に当たった。
いい匂いがして、思わず深呼吸する。
(うわ。俺の身体が『これだよこれ!』って言ってる)
匂いをかいでいるうちに症状が少し落ち着き、飲めそうな気がしてきた。
一口、口に含む。
薬湯は、すーっ、とエクトルの身体にしみこんだ。
「……ふぅ……」
ため息をつき、顔を上げて彼女を見た。
視線がブレずにしっかりと合ったためか、彼女は「よし」というようにうなずく。
すると、窓の中から「あれ、レイゼル? どこだー?」という声がした。
彼女が顔を上げる。
「あ、ペルップ、こっち! 外!」
「おお」
勝手口から、ひょこっ、と大きな頭が出てきた。トラビ族だ。
「どした」
「この人が倒れてて。飲み過ぎちゃったみたい」
レイゼル、と呼ばれた彼女が説明すると、トラビ族も近寄ってくる。
「旅行者だよなー? ここの宿、今日は一杯だって言ってたけど、何とかならないか聞いてみるかー?」
エクトルは、もたれていた壁からヨロリと背を離した。
「あ、もう、平気……平気っすから……」
平気というほどではないのだが、とにかく揺れない地面で立てるようにはなった。
「お、歩けるか?」
トラビ族は歯を剥き出して笑う。
「歩けるなら、オレが送ってやるぞ。レイゼルは早く薬湯飲んで休め。今日はただでさえ遅くなっちまったからな」
「うん、じゃあそうさせてもらおうかな。ありがと」
彼女は素直にうなずく。
そして、トラビ族に支えてもらっているエクトルに、再び微笑みかけた。
「お大事に。おやすみなさい」
気がついたら、エクトルは自分の宿の大部屋で、ベッドに仰向けになっていた。窓から朝陽が差し込み、隣のベッドとの仕切りを照らしている。
昨夜はあれだけベロンベロンだったのに、頭はすっきりしていた。
(薬湯のおかげかな)
宿の人に聞いてみると、あのトラビ族が彼を連れてきてくれたそうだ。エクトルも、宿の名前だけは言えたらしい。
(やばい。朦朧としてて、お礼も言ってない、たぶん)
エクトルは急いで身繕いをすると、宿から飛び出した。
曖昧な記憶を頼りに、ようやく昨夜の宿を探し出した時には、もう昼が近くなっていた。
宿に入ろうとしたところで、併設の厩舎からトラビ族が出てくる。
「あ」
昨日のトラビ族なのか判別できず、エクトルが戸惑っている間に、トラビ族の方から言ってくれた。
「あれー、昨日のヒトじゃないか」
「! あのっ、昨日は迷惑をかけて済みませんでした。僕はエクトルって言います。送ってもらって、助かりました」
「ぐひひ、いいってことよ! ああ、オレはペルップだ。その様子だと、レイゼルの薬湯が効いたみたいだな!」
「はいっ、おかげさまで。あの、そのレイゼルさん? その人にも、お礼を言いたいんですけど……」
ちらちらと宿の入り口を見ていると、ペルップというトラビ族はあっさりと言った。
「レイゼルなら、もう出発したぞ。今朝早くの馬車でなー」
「あ、そ、そうですか」
エクトルはがっかりした。
(会えると思ったのに……。従業員じゃなかったのかな。じゃあ、どういう人だったんだろう)
「あの、レイゼルさんって、何であんな薬湯を作れるんですか?」
思い切って言うと、ペルップは髭をぴこぴこさせた。
「レイゼルは薬湯屋だ。オレもだけどな!」
「え、ペルップさんも?」
「おう。いつもはそれぞれの村で商売してるんだが、昨日、ロンフィルダ領で薬種を扱ってるやつらの集まりがあってな」
「集まり? そんなのがあるんですか」
エクトルは興味を持った。ペルップは軽く胸を張る。
「そ。オレが発起人なんだけどなー。勉強したり情報交換したりする会だ。オレとレイゼルは薬学校出身なんで、リーファンの薬種も少し紹介したりな」
「ちょ、え、薬学校って王都の!? 僕、そこの学生です!」
「おお!? そうだったのか!」
ひょんなことから先輩後輩だと判明し、エクトルとペルップはそのまま昼食を共にした。
そしてエクトルは、レイゼルがアザネ村に住んでいることを知ったのだ。
夏休みが終わると、卒業論文もいよいよ追い込みである。
王都に戻ったエクトルは、時々フィーロでの出来事を思い出しながらも、学業に精を出した。あの時に飲ませてもらった薬湯を、自分で作ってみることもして、酒好きの学生に喜ばれた。
そして卒論の方は、残念ながら『優』は取れなかったものの、その次の『良』をもらうことができた。




