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Uターン薬湯屋の寝込みがちスローライフ  作者: 遊森謡子
第四部(完結後の物語)
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第八十九話 峡谷迷宮 前編

5月23日はキスの日だそうです。

シェントロッドもすっかり自然にキスするようになりました(レイゼルの方はまだ少し照れる)

 春の嵐が原因で起こった、山道の崩落。それをきっかけに、アザネ村には様々な変化があった。

 今まで来なかったような旅人が訪れるようになったのだ。


 この夏は特に、村の特産品ムムの旬であることと、このあたりでは珍しい真っ赤な野菜・リパム──レイゼルが王都から持ち帰った苗がきっかけで栽培に成功したもの──が味わえるという話とが口コミで広まって、またちらほらと旅人が増えていた。


 以前のようなトラブルは特になく、村の人々は旅人をもてなしていたのだが、少々困っている人物がいた。

 トマの養母である。

 トマの家は、村の大通りで雑貨屋を営んでいた。


「うちは客商売だけど、母は元々、知らない人が苦手でさ。村の人相手なら大丈夫なんだけど」

 トマは、薬湯屋のレイゼルに相談にやってきていた。

「いつもは、店の表に立つのは父と僕で、母は倉庫の管理をやってて。でも、たまたま僕が仕入れで店を開けてるときに旅人が団体で来ると、父だけじゃ手が足りないから、母も店に出なくちゃならない」

「そういう時に、具合が悪くなるのね?」

 レイゼルが聞くと、トマは眼鏡を直しながら心配そうにうなずく。

「ドキドキする、息苦しいって言って座り込んじゃったり、めまいがして立ち上がれなくなったり……。何度かそういうことがあったせいで、落ち込んでて。今朝になって『もしかして、自分はもうすぐ死ぬのかも』とか言い出したんだ。店にも出たくないって、家に引きこもってる」

「辛そう、大変ね……界脈流が完全に乱れてしまってる感じがするね」

 レイゼルは顎に手を当てて考え込む。

「ずっと不安でいると、もっとひどくなっちゃう」

「店には無理に出なくていいと思うんだけど、不安感だけでも何とか軽くできないかな?」

 トマの頼みに、レイゼルはうなずいた。

「薬湯の出番ね。界脈流を整えなくちゃ!」



 モーリアン医師とも相談した上で、レイゼルは専用の薬湯を作ることにした。

 それには、特別な薬種が必要だ。アザネ村と、北のハリハ村の間に横たわる峡谷まで採取しに行く必要がある。


「峡谷に降りて、夕方までに採取できたとしても、どうしたって谷底で一泊ね。……隊長さんに、何て言おう」

 採取のための準備をしつつも、レイゼルは困ってしまった。


 彼女が西の山に行った時は、泊まりだとわかったとたん、シェントロッドはついて行くと言った。あの時はそれでもよかったのだけれど、今の時期は事情が違う。

 夏は、隣国ディンフォラスからの使節団がやってくるため、最近のシェントロッドは両国の調整に毎日忙しい。

 明日はまさに使節団が到着する日で、峡谷に付き合わせるわけにはいかなかった。かといって、使節団が国に帰るのを待っていたら一週間も時間が経ってしまう。


 それに、レイゼルには、一人で行きたい理由があった。


「さて、どう話そうかなぁ」

 レイゼルは計画を練りながら、シェントロッドが帰宅するのを待った。



 夜遅く、エルジルディンが眠ってしまった後、シェントロッドは森の家に帰ってきた。

 レイゼルはシェントロッドにスープを出しながら、トマの養母の事情について説明した上でこう言った。

「明日、薬種を採取しに北の峡谷に行ってきます」

 彼はぴくりと眉を動かす。

「峡谷に? まあ、上り下りさえ気をつければ危ない場所ではないが……あんな薄暗い場所で、薬になるような植物が育っているのか?」

「植物もありますけど、今回取りに行くのは植物じゃないんです」

 レイゼルは椅子に腰かけながら説明する。

(つの)です」

「ツノ? ああ、そういえばあのあたりはダイセロスの生息地か」


 ダイセロスというのは、ぱっと見では小型の豚のような動物だ。谷底に生える苔を食べて生活しているのだが、体毛は水色。

 そして、額に立派な角が生えている。


「あの角、界脈流に作用して不安を和らげるための薬になるんです」

「そんなものまで薬になるのか。しかし、どうやって採取する? 生きたまま、ということはないだろう」

「はい。寿命で死んだダイセロスを見つけて、角だけもらってくることになりますね。ちょっと時間がかかるので、一泊してきます」

「一泊?」

 シェントロッドはスープを口に運びながら、しばらく考えていたが、やがて言った。

「俺が取りに行った方が早い。死骸を見つけて角を取ってくればいいんだよな」

「ダイセロスの死骸は、見つけるのにちょっとコツがあって。私、行きます」

「明日でないとだめか?」

「なるべく早く手に入れたいので」

「村の誰かと行ったら……」

「ムムの収穫期ですよ? みんな忙しいし、トマにはお母さんのそばにいてほしいし」

 レイゼルはニコッと微笑んだ。

「心配しないで下さい。遠くもないし、初めての場所でもないですし、いつも森に出かけるようなものです。谷底の川沿いを歩き回るだけだから、もし何かあったら水脈を通して知らせられるし」


「そうか、川沿い……。それなら、まあ、わかった」

 しぶしぶシェントロッドは了承したが、条件をつけた。

「谷に降りるところまでは俺も行く。それと、野宿の場所が決まったら俺を呼び出せ。夜は一緒にいる」

「でも隊長さん、お仕事が」

「夜くらいは空けられる。必ず俺を呼べ、連絡がなかったら何かあったと見なして探しに行く」

「大丈夫なのに。……でも」

 レイゼルは、素直な気持ちを口にした。

「いつもと違う場所で会えるのは、何だか嬉しい、かも」


「全く……」

 食器を下げようとしたレイゼルの手を握って引き寄せ、シェントロッドはひょいっと彼女を膝に乗せる。

 こうして触れ合うのも、すっかり自然になった。

「エルジーは置いていくんだろう?」

「はい、シスターに預けます」

 さすがに、レイゼルも子ども連れというのは不安があった。西の山でのようなことがあった時に、彼女一人では対処できない。

 シェントロッドはうなずく。

「じゃあ、早く寝ろ。体調を整えておかないと」

「ひゃっ」

 レイゼルはそのままシェントロッドに抱き上げられ、寝室に連れて行かれたのだった。



 翌朝早く、レイゼルとシェントロッドはエルジルディンを連れて出発した。

 孤児院は村の北にあるので、峡谷に向かう通り道だ。シスター・サラにエルジルディンを託す。

「行ってくるね、エルジー」

「れーぜる先生、むりしちゃだめ。つかれたら、やすむ」

 エルジルディンから真顔でこんこんと言い聞かせられて、

「はいっ。了解です」

 と素直にうなずくレイゼルである。


 孤児院から警備隊の隊舎の前を通り、東のフィーロ方面に向かう途中、わき道がある。そちらに入るとすぐに下りになっており、峡谷へと続いていた。

「昔は、この下で採れる鉱石があったらしくて、当時の道が残ってるんです」

 レイゼルが説明する。

 すぐに周囲は岩だらけになり、時々岩の隙間からひょろっと細い木が伸びて、景色にわずかな緑を添えていた。見下ろすと、底の方はやや靄がかかっていたが、かろうじて水の流れが見える。

 シェントロッドが先に立ち、足下を確かめながら、二人はジグザグに降りていった。途中、二度ほど休憩をとる。

「……グラスレーンの匂いがするな」

 シェントロッドが、スン、と息を吸った。

 グラスレーンは、スーッとした清涼感のある香りの草で、虫除けの効果がある。

 レイゼルは下を指した。

「ここを降りたあたりに、たくさん生えてるんです。この谷、匂いのある植物やなんかが多くて、上流に歩いていくとどんどん匂いが変わって面白いですよ」


 ようやく谷底の川までたどり着くと、さっそく動くものがいた。

 ダイセロスである。レイゼルの膝の高さに頭が来る程度の大きさだ。彼ら自身の手足と同じくらい大きな角が、頭に生えている。

 五、六頭の群が、二人の姿を見て「ブフォ」「ブルル」と鳴き、スッと離れていった。

「……あんな角を持っているのに、向かってこない。臆病なのか?」

「無関心なのかも。角は、雄同士でケンカする時に使うらしいですよ」

「ふーん」

 シェントロッドはまだ何か言いたそうにしていたが、区切りをつけてレイゼルに向き直った。

「じゃあ、俺は行く。くれぐれも気をつけろ」

「はい。また夜に!」

 レイゼルが笑顔でうなずくと、彼は長身を屈め、彼女の頬にキスをする。

 そして、一歩下がると、スッと姿を消した。


 照れくさくなったレイゼルは、ちょっと自分の頬に触れ、それから気を取り直して川の上流へと向き直る。

「よし。……行こう」

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