第八十七話 森の家の門衛
春。
久しぶりに、ロンフィルダ領を大きな嵐が襲った。
この地の警備隊長としてベテランの域に達してきたシェントロッドは、今回ももちろん、嵐の接近前から対策をとっていた。しかし、さすがの彼も被害をゼロにはできない。
雨は止んだものの、風が強く吹きすさび、灰色の雲が流れていく。やがてその切れ間から青空がのぞき始めた頃、各地の被害状況が届いてきた。
「西の山脈だが、山道の一部が崩れたようだ」
シェントロッドは、アザネ村の村長ヨモックに説明する。
「山脈の向こうからフィーロに至る道が、一部不通になっている」
アザネ村の北側には、谷をはさんでハリハという村がある。山脈の向こうからこちら側にやって来る旅人は、東のフィーロへ行くのにはハリハを通るルートが楽なので、主にそちらを使っていた。
しかし、そのルートが崩れ、しばらく使えなくなったのだ。
「谷を迂回し、いったん南下して、アザネ村経由でフィーロに向かう旅人が増えると思う。逆にフィーロから西へ向かう旅人も、だな。村に外部の者が入ることが増えるだろうから、対応を頼む。見回りも増やす」
「わかりました。これは、しばらく忙しくなるな」
ヨモックと、一緒に聞いていた息子たちは顔を見合わせ、うなずいた。
アザネ村に泊まったり、山越えに必要なものを買い込んだりといった客が増え始めた。
ハリハ側の山道が修復されるまでの間だけかもしれないが、村で商売をしている人々は様々な準備をして、旅人たちを迎えた。
「薬湯や傷薬が必要な人も、いるかもしれないね」
薬湯屋のレイゼルも、必要なものを用意することにした。
エルジルディンも手伝って、薬種をいつもより多めに採取したり仕入れたり。せっせと調合し、薬包を作る。
「れーぜるせんせい、売りにいくの?」
「ううん、トマの雑貨屋さんに置いてもらうことにしたよ。旅の人が寄るだろうから」
森の家は、水車小屋よりも大通りに近いとはいえ、旅人にとっては不便な位置にある。アザネ村とフィーロを行き来するのなら、馬車の発着する大通りで必要なものを揃えられた方がいいだろう。
「ふぅ、できた」
カゴに薬包をたくさん詰め、陳列の際に添える説明書も書き上げて、レイゼルはため息をつく。
「よし。じゃあ、雑貨屋さんに届けに行ってこようかな」
「だめ」
キリッとした表情で、エルジルディンは言う。
「れーぜるせんせいは、やすむ。エルジーが行きます」
「そう? うん……ちょっと疲れたし、じゃあお願いしちゃおうかな。おつかい、頼める?」
「かしゅこまりました」
エルジルディンはさっそく上着を着て、カゴを持った。
レイゼルは注意する。
「人通りの多い道を行くんだよ。知らない人がいて怖かったら、界脈を使ってもいいんだからね?」
彼女は、混血の弟子が奇異の目で見られることを、密かに心配していたのだ。
「はいっ。いってきます!」
エルジルディンは張り切って、森の家を出発した。
レイゼルに界脈を通ってもいいとは言われたが、最近のエルジルディンは、川は通らない習慣だった。村の人たちと行きあって、挨拶したり話をしたりするのが楽しいからだ。
その日も彼女は、普通に道をてくてく歩いて、雑貨屋へと向かった。
「こんにちは。……!」
雑貨屋の中に入ったとたん、エルジルディンは少々びびって立ちすくんだ。
知らないおじさん集団が、店の中にいたのだ。
村の外からやってきたお客さんたちである。
彼らはじろりと、エルジルディンを見下ろした。
「ん? リーファン族の子どもが、何でこんなとこに」
「いや、髪の色が違うぞ」
カウンターにいたトマがすぐに気づいて、声をかける。
「エルジー、こっちにおいで」
エルジルディンは駆け寄り、急いでカウンターの上げ板をくぐった。お客の視線が切れて、ホッとする。
彼女は、カゴを黙ってトマに差し出した。
察した彼は、屈み込んで商品を取り出しながら、眼鏡の中の目を細めて微笑む。
「ありがとう。今日は特にお客が多いからびっくりしただろう。裏から出な」
こくっ、とうなずき、エルジルディンは空になったカゴを受け取った。
奥に通じるカーテンをくぐると、そこは倉庫で、トマの両親が忙しく立ち働いている。
彼女は邪魔をしないようにササッと通り抜けると、店の裏に出た。
(……川、とおってかえろう)
ここから裏通りを歩けば、すぐに川に出る。知らない人と出くわすこともないだろう。
エルジルディンは無事、川にたどり着いた。
土手を降りようとしたところで、彼女は立ち止まる。耳が、不思議な音をとらえたのだ。
「ぴぃ……ぴぃ」
(とりが、ないてる?)
彼女はキョロキョロとあたりを見回す。
岸辺の草むらの中を、何かがかすかに動いていた。黄色くて、ふわふわしている。
「ぴぃ」
エルジルディンは、そっと近寄ってみた。
頭をもたげ、ピンクのくちばしを見せたそれは──弱々しく震える、アヒルのヒナだった。
「それで、連れて帰ったのか」
夜。
帰宅したシェントロッドは、カゴをのぞき込んだ。
台所の暖かい場所に置かれたカゴの中で、黄色いひなが眠っている。すぐ横に、エルジルディンが張り付いていた。
レイゼルが説明する。
「母鳥が、見あたらなかったらしくて」
どうやら、外部の人間が増えたことで母鳥が驚き、育児放棄して逃げてしまったらしい。
放っておけなかったエルジーは、カゴにヒナを入れ、急いで帰ってきたのだ。
「かいみゃくりゅう、よわい……」
振り向いて、エルジルディンが訴える。シェントロッドはヒナにそっと触れてみた。
「……確かに、弱っているな」
レイゼルもうなずく。
「えさは、あげてみたら食べたんですけど」
「しぇんとろせんせい、エルジー、あひるのおせわする」
エルジルディンがキリッと言うので、シェントロッドはうなずく。
「まあ、いいんじゃないか」
「ほんと!?」
彼女はパッと顔を明るくした。そして向き直ると、嬉しそうにヒナを見守った。
そんなエルジルディンに、レイゼルは微笑みかける。
「元気になるといいね! ……隊長さん、スープがありますけど食べますか?」
「ああ」
シェントロッドは上着を自室に置いてから、食卓についた。
レイゼルが湯気の立つ器を置く。
「今日もお疲れ様でした! オオネとシロナたっぷりスープです、とろとろに煮えてますよー」
「レイゼル」
ふと、シェントロッドはレイゼルの手をとった。
「はい?」
きゅっと握り返すレイゼルに、彼は尋ねる。
「最近は、何も変わりはないか?」
「ないですよ。どうしてですか?」
「普段のアザネ村と違うからな。俺も忙しくて、あまり家にいないし……見回りはしているが」
人の流れが変わったことで、小さなトラブルが増えているのだ。
「薬湯屋にはあまり、知らない人間を入れるなよ」
彼の言葉に、レイゼルはちょっと困って答える。
「お店ですから、お客さんを拒んだりは……。まぁ、基本的にトマの雑貨屋さんで対応してくれてますし、うちにはいつも村の人が出入りしてくれているから大丈夫です。エルジーもいますし」
「まあな。あの時も、エルジーが知らせに来てくれたし」
エデリの一件のことを思い出しつつも、シェントロッドは念を押す。
「しかし、今日はレイゼルもエルジーも、一人でいた時間があったんだろう?」
「あ、はい」
「何かやってやろうという奴は、一瞬の隙を突く。気をつけてくれ」
わずかに眉をひそめるシェントロッドに、レイゼルはうなずいた。
「わかりました。ちゃんと気をつけます」
「うん」
シェントロッドはようやく表情を緩め、レイゼルの頬を軽く撫でる。そして、エルジルディンが見つめているカゴを振り向いた。
「犬ならともかくアヒルでは、家の番はできないしな」
森の家で世話をされたアヒルのヒナは、食べては寝て、すぐに元気になった。アヒルは雑食で、割と何でも食べる。特別なえさは必要としない。
ヒナはそのまま、森の家の周囲と近くの川で過ごすようになった。エルジルディンにえさをもらっては、川で水浴びをし、あたりを散歩する。
一ヶ月も経たないうちに、黄色かった体毛はあっという間に白い羽根になって、鳴き声も『ぴぃぴぃ』から『がぁがぁ』に変わってきた。
つぶらな瞳、スッと伸びた首からフカッと広がる身体は堂々としているが、歩き方はよちよちしていて愛らしい。
「ここで暮らすって決めたのかな。それにしても、アヒルって大人になるの早いんだねぇ」
レイゼルは感心し、
「うちの子だから、エルジーが名前つける」
エルジルディンは宣言。
丸一日考えてから、レイゼルと、帰宅したシェントロッドの前で発表した。
「『ガーちゃん』」
「……何のひねりもないな」
シェントロッドは淡々とコメントし、レイゼルはそんな様子がツボに入って、しばらく笑いこけていた。
ガーちゃんはエルジルディンとレイゼルによく懐き、姿を見かけると寄ってきて撫でてもらうようになった。
シェントロッドは忙しくてあまり家にいないせいか、ガーちゃんも懐くというほどではなかったが、彼が姿を現しても警戒しない。たまたま彼がガーちゃんの身体についていた小枝をとってやるなどしても、おとなしくされるがままになっていた。
一方、ハリハ側の山道は復旧が進み、そろそろ通れそうだという見通しが立ってきた。
そんなある日。
「トマの雑貨屋さんで薬湯を売ってもらうのも、そろそろ終わりかな」
レイゼルとエルジルディンは、そんな話をしながら手を繋いで歩いていた。今日は雑貨屋に二人で商品を届けに行った、その帰りである。
農道から、森の小道に入った。木々が密度を増し、夕方ということもあって道は薄暗いが、もう少し行くと家が見えてくる。
「今日は隊長さん、お仕事が早く終わるって言ってたから、もう帰ってるかも」
レイゼルがそう言った時、すぐそこを流れる小川から、ぴょいっとガーちゃんが上がってきた。
「ガーちゃん」
エルジーが声をかける。
すると、ガーちゃんはじっと二人を見つめ、そして──
「ガァ! ガァ! ガァ!」
急に、大きな声を張り上げたのだ。
そんな鳴き方をしたのは初めてだったので、レイゼルもエルジルディンも少々驚く。
「ガーちゃん、どうし……」
レイゼルが言いかけた時、エルジルディンの長い耳が足音を聞きつけた。ハッと振り向く。
後ろから、知らない男が駆け寄ってきていた。手には、ぎらりと光る刃物。
エルジルディンがレイゼルに警告しようとした、その瞬間、ひゅっと風が吹いた。
突然、レイゼルたちと男の間に、緑の風のようにシェントロッドが出現した。男がギョッとして立ち止まろうとした時には、すでにシェントロッドは男の手首を捕らえている。
手首を捻られた男はひっくり返り、ズシン、と地面に抑えつけられた。
その間もずっと、ガーちゃんは「ガァ! ガァ!」と叫び続けていた。
男は、雑貨屋からレイゼルたちを尾けていたらしい。トマが薬湯の売り上げをレイゼルに渡したのを見ていて、ひと気のない場所で奪おうとしたのだ。
最初に、知らない男に気づいたのは、ガーちゃんだった。
家にいたシェントロッドは、ガーちゃんの異常な鳴き声を聞きつけて、窓から外を見た。そうして、森の小道をこちらに歩いてくるレイゼルたちと、その後ろから走り寄る男を目撃したのだ。
彼はすぐに、気脈に飛び込むことができた。
首尾よく男を捕らえたシェントロッドは警備隊に引き渡すと、家に戻ってきた。
「隊長さん、おかえりなさい」
レイゼルは例によって、心臓がバクバクするような出来事の後は具合が悪くなってしまい、おとなしく座っている。エルジルディンが、台所でガーちゃんにオオネの葉っぱをやっていた。
「二人とも、怪我がなくてよかった。ガーちゃんが警告してくれたからな」
シェントロッドはレイゼルの頬を撫で、エルジルディンの頭も撫でてから、ガーちゃんのそばに屈み込む。
「隊員に聞いたんだが、アヒルは警戒心が強いんだそうだな。知らない人間を見ると騒ぐと」
「声もすごく大きかったですね。びっくりしました」
レイゼルもうなずく。
「立派な門衛だ。アヒルでは家の番などできないと言ったことを詫びよう」
シェントロッドはそう言って、ガーちゃんの頭も撫でた。
「これからも、よろしく頼む」
ガーちゃんはふわふわの胸を張って「グァ」と小さく鳴き、エルジルディンもどこか得意気に、ガーちゃんの背中を撫でたのだった。
やがて山道が復旧し、アザネ村は以前のような、静かな日常に戻っていった。
少し寂しい気もするが、アザネ村を気に入った人がたまに訪れるようになったのは、良い変化といえそうだ。
「色々と商売できた人もいますしね。悪いことよりはいいことが多くて、よかった気がします」
レイゼルはニコニコしたものだ。
森の家の門衛ガーちゃんもまた、毎日お客さんを迎えながら、のんびりと暮らしている。




