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Uターン薬湯屋の寝込みがちスローライフ  作者: 遊森謡子
第四部(完結後の物語)
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第八十五話 山の薬草摘みのルール(3)

 エルジルディンの姿が消えたのは、ものの十数秒間、目を離していた隙のことである。

 レイゼルが彼女にイモをツルから外すよう頼み、そして自分のカゴから今夜使う食材をより分けて出し、顔を上げたらもういなかった。


 シェントロッドは不思議そうに見回す。

「張り切って料理し始めたところじゃなかったのか」

「ま、まさか落ちたとか?」

 レイゼルはあわてて、切り株の後ろ数歩のところから始まる斜面をのぞき込んだ。しかし、すぐ下が道なのでそれ以上落ちようがない。

「えぇ……? 何か珍しい虫でも見つけて追っかけてっちゃったのかな……エルジー?」

 レイゼルはキョロキョロし、思い切って息を吸い込むと、大きな声で呼んでみた。

「エルジー!!」


 エルジー、ルジー、ジー……と、こだまが返ってくる。


 ハッ、とシェントロッドは目を見開いた。

「思い出した」


「えっ?」

 レイゼルが振り向くと、シェントロッドは落ち着かせるように彼女の肩に手を置く。

「出発前に話したことを覚えているか? 昔、子どもが山に入る時、気をつけた方がいいことを長老に教わったと」

「山の界脈は濃いから……と言っていた、あれですか?」

「ああ。すまない、何に気をつけろと言われたか、今思い出した」

 シェントロッドは眉をしかめる。

「名前だ。山の中では、子どもは名前を呼び合うなと、長老に言われた」


「な、名前? どうして」

 ただ戸惑っているレイゼルに、シェントロッドは説明した。

「山に何者かが入ってくると、山の界脈は影響を受ける。入山者を山の一部と認識し、界脈の力で山全体を守ろうとして、入山者の界脈流と繋がろうとする」

「そんな動きが……まるで、生きているみたい」

「ある意味、そうかもな。ただ、俺たちみたいに意志を持っているわけじゃない。とにかく、山の中で何か声や言葉が発されると、それが界脈で反響するというか、こだまのように返すことで入山者と繋がろうとする。特に、呼びかけの言葉には反応しやすいと聞いた」

「呼びかけ……名前!」

 レイゼルは目を見開いた。

「じゃあ、私たちが『エルジー』と呼ぶ声にも、山の界脈は反応して……それがこだまのように返ったら、エルジー本人に聞こえたかも?」

 シェントロッドはうなずいた。

「子どもは敏感だから、おそらく聞こえている。俺たちは気づかなくても、エルジーは気づいたかもしれない。呼ばれたと思って、声に応えてしまったとしたら……山の界脈と繋がって、今、山の一部になっている可能性がある」

 急に姿が消えたのだ。界脈に入った、と考えれば合点が行く。


 一気に不安になったレイゼルは、思わずシェントロッドの袖を掴んだ。

「それって……自分の意志で界脈に入るのとは違うんですよね? 帰れますか? た、隊長さん、どうしたら」

 シェントロッドは微笑んだ。

「どうするも何も、この山の界脈の中にはいるんだ。迷子は探して連れ戻さないとな」

「大丈夫ですか?」

「ああ。少し時間はかかるかもしれないが、心配するな」

「はい……」

「スープを作って待っていてくれ」

 彼はいつものように、指の背でレイゼルの頬を撫でた。

 そして、一歩下がると、フイッと姿を消した。



 シェントロッドは光の球に姿を変え、山の界脈の中を進んだ。

 山そのものを神として崇める宗教もあると聞くが、さもありなんと思うほど、山の界脈は力強い。視界全体が、うっすらと光っている。

(レイゼルにはああ言ったが、エルジーはおそらく、意識も山の一部になってしまっている)

 彼は神経を張り巡らせて彼女を捜しながら考えた。

(時折、山で行方不明になる子どもがいるのはこのためで、だから長老は名前を呼ぶなと注意していたんだな。自分が子どもではなくなったせいか、もう関係のない事柄として記憶の隅に片づけてしまっていた)

 もしエルジルディンが、シェントロッドなどの界脈士と一緒でなかったら、やはり誰にも気づかれないまま行方不明になっていただろう。

(しかし、消えてすぐの今のうちなら……)


 しばらく探し回っていると、彼の意識の隅に、よく知っている界脈流が引っかかった。山の中心部の方だ。

 物理的に真ん中という意味ではなく、あちらこちらから伸びてきている界脈が集まっていて、生き物たちの命が無数に光っている。まるで、光る果実が大樹の枝に鈴なりになっているかのようだ。


『エルジー』

 呼びかけると、光の球の一つが反応した。エルジルディンだ。

 返事はないが、光はふよふよと、シェントロッドの方に吸い寄せられた。無意識だろうが、山の界脈よりもまだ、よく一緒に過ごしているシェントロッドの界脈流の方に馴染みがあるのだろう。

(あまり長いことここにいたら、離れられなくなってしまっただろうな。今なら大丈夫だ)

 シェントロッドは思いながら、再び呼びかけた。

『戻ろう。レイゼルが心配している』

 先導すると、エルジルディンの光は彼の後についてくる。

(よし)

 そのまま、彼女は山の中心部から離れかけて──


 ──途中で止まってしまった。


(あ?)

 思ったより、山の界脈は吸引力が強いようだ。光は迷うようにふらふらしている。

(困ったな。ここが心地いいのだろう。どうしたものか)

 シェントロッドは困ってしまった。



 一方、レイゼルは祈るように、両手を握り合わせていた。

「エルジー……」

(心配……だけど、界脈の中のことじゃ、人間族の私は手を出せない)

 転がったツルイモに視線を向ける。

(そう、隊長さんに任せていれば大丈夫。私は私にできることをしよう。時間がかかればお腹も空くだろうから、美味しいスープを用意して待っていよう)


「よし」

 ぱん、と手を打ち合わせてから、レイゼルは料理に取りかかった。スープ用に、出汁に使う海藻とジニー手作りのロミロソは持ってきてある。

 洗ったツルイモと海藻を鍋に入れ、水を注いでかまどの火にかけた。煮立ったら、エルジルディンのカゴから出したリッコロタケをナイフで削ぎながら入れていく。

 リッコロタケは、香りがいいことで有名だ。

(あぁー、いい香り。エルジーはキノコが好きだから、喜ぶな)

 野草の緑も加えてさっと煮たら、ロミロソを溶き入れて出来上がりだ。レイゼルは鍋を火から下ろす。


(仕上げは、エルジーが戻ってきたらにしよう)

 レイゼルは、空を見上げた。

「早く帰っておいでー……」

 一番星が瞬き始めた空に、スープの湯気が白く立ち上っていく。



 界脈の中、その場で揺れるばかりだったエルジルディンが、ふっ、と動いた。

 ふわりふわりとシェントロッドに追いついたかと思うと、追い越していく。

(お?)

 まるで、この山を登り始めた時の彼女のようだ。シェントロッドは後をついて行った。

(何か、温かなものを感じる。エルジーはこれに惹かれているのか? ……ああ、この匂いは)

 光は山の界脈の中をスーッと泳いでいき、中心部から離れ、やがて……



 気配を感じてレイゼルが振り向くと、そこには淡い金髪の小さな姿が立っていた。

「エルジー!」

 レイゼルがガバッと立ち上がると、エルジルディンはニコリとする。

「おなかすいた。……あれ? ツルイモ……」

 自分の手にツルイモがないことを確認してから、エルジルディンはあたりを見回し、首を傾げた。

「おてつだいは?」


「あぁ、無事だったのね!」

 レイゼルはぎゅっと彼女を抱きしめる。

「んん? れーぜるせんせい、なに?」

 何も覚えていないらしいエルジルディンは、モゾモゾする。

 すぐにシェントロッドが姿を現し、ニッと笑った。

「エルジルディンは食いしん坊だな。山の界脈からなかなか離れなかったんだが、レイゼルのスープの香りで一発だ」

「ええ? 本当?」

 レイゼルが手を離してエルジルディンの顔を見ると、彼女は不思議そうにするばかり。

「香りでも何でも、帰ってこれたんだもの、よかった!」

 もう一度、レイゼルはエルジルディンを抱きしめた。



 スープを温め直している間に、レイゼルは今日大岩の上で拾ったヤマパッペの皮を石の上ですりつぶした。爽やかな香りが立つ。

「ロミロソに合うんだよ。辛いから少しだけ入れようね」

 パラッとスープに加え、出来上がりだ。


 シェントロッドは森の家にいったん戻り、器など必要なものを運んできた。レイゼルはスープをそれぞれの器に取り分けて渡す。

「それじゃあ、お疲れさまでした! 食べましょう!」

 かまどの火を囲んで、夕食になる。まずは全員、スプーンでスープを一口。

 三人の口から同時に、「はぁー」というため息が漏れた。

「沁みるな……」

「キノコ、おいしい!」

「ヤマパッペのおかげか、ぽかぽかするねぇ」

 それぞれ、さすがに疲れている三人である。

 いい香りを吸い込み、両手のひらに伝わる器の温度も心地よく、滋養たっぷりのスープに癒されて、ようやく心も身体も緊張が緩んだ。


 食べながら、山の界脈の特徴について、シェントロッドはエルジルディンを怖がらせないように説明した。

「界脈がそこにあるんだと、しっかり意識するように。そうすれば、知らない声で名前を呼ばれた時、変だと思えるだろう」

「はい」

 先生の言葉に、エルジルディンはうなずく。

 レイゼルは肩をすくめた。

「薬種の勉強に連れてきたつもりだったけど、界脈の勉強をすることにもなっちゃったね」

「まさかの、身をもっての勉強になったな」

 うなずき合う教師陣だった。


 満天の星空、パチパチと昇る火の粉、かすかに聞こえる虫の声。まだスープのいい香りがたゆたう中、三人は小声で話しながら今日の出来事を振り返る。

「……んー……」

 やがて、エルジルディンは座ったまま船を漕ぎだした。彼女自身は気づいていなくても、いつもと大きく違うことが起こって、心身は相当疲れているのだろう。


 レイゼルはそっと彼女の手から器を引き取り、シェントロッドは持ってきた毛布で彼女を包んだ。

 さすがに今日は色々と心配で、見えるところにエルジルディンを横たえ、ちゃんといるかどうかチラチラ確認しながら片づけをしたレイゼルとシェントロッドである。


 長い一日が終わり、エルジルディンを抱いたシェントロッドとレイゼルはようやく山小屋に入った。

 重ねた毛布の上で、大人二人がエルジルディンを挟み、毛布やら上着やらをかけて身を寄せる。

「あったかい。三人で寝るの、初めてですね」

「そうだな」

 二人で寝たこともないのだがそこには触れず、シェントロッドは手を伸ばしてレイゼルの髪を撫でた。

 レイゼルは、シェントロッドの緑の瞳を見つめ、微笑む。

「みんなで来れて、良かったです。……おやすみなさい」

「ああ。おやすみ」

 ふっ、とランプの火が吹き消され、山小屋は温かな闇に包まれた。 



 こうして翌日、再び色々な薬草を確かめながら、三人は下山した。

 森の家に着いてから、エルジルディンはその日のことをノートにまとめた。


『山でやくそうをつむときのきまり

 ・すくないやくそうは ねっこをのこす あと、ばしょをひみつにする

 ・山のなかでなまえをよばれたら かいみゃくかも』


(山を怖がってないといいけど……)

 レイゼルがちょっと心配しながらチラチラ見ていると、エルジルディンは振り向いた。

「れーぜるせんせい」

「なに?」

「春になったら、また、やまのぼりできる?」

 レイゼルはシェントロッドと目を合わせてから、エルジルディンに笑いかけた。

「もちろん。春の薬草を勉強しに、また行こうね!」

 エルジルディンも、にこっ、と笑った。

このお話は、遊森の勘違いから生まれたお話です。

以前、Twitterで「子どもが森で遊んでいる時は名前を呼んではいけない」というツイートを見かけたことがあって、その理由として「あやかしとかそういう存在が、親の声を真似て子どもを連れて行ってしまうから」という言い伝えがあるとなぜか思い込み、いつかネタに使おうと思ってたんです。

今回、このお話を書くにあたって確認してみたら、そういう不思議系じゃなくてめっちゃ動物の話でした……オーストラリアに「コトドリ」という鳥がいて、聞いた音を完全再現できるのだそうです。名前を呼ぶとコトドリがそれを真似てしまい、子どもが騙されて森の奥に迷い込んでしまうから、名前を呼んではいけない、というわけだったんですね。まあ、だいたい一緒一緒(笑)

とにかく、そのあたりのお話を薬湯屋の世界に落とし込んでみました。楽しんでいただけたら嬉しいです。


あ、味噌と山椒は合うらしいです。

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