第七十八話 帰ってきた女(ひと)(3)
「さ、できた。今のレイゼルに、必要な薬湯」
エデリは楽しそうに、土瓶からカップに薬湯を注いだ。
そしてレイゼルの前にしゃがみ込むと、彼女の手にカップをそっと握らせる。
「いい子ね、これをお飲み。私の『薬草姫』さん」
(……懐かしい)
朦朧としながら、レイゼルは思い出す。
『薬草姫』という呼びかけは、幼い頃にエデリがレイゼルによくしていたものだ。
『薬草をたくさん飲むと、レイゼルの身体は薬そのものになって、たくさんの人を助けられるのよ。魔法を使えるお姫様みたいにね』
そんな風に聞かされていた。
けれど大人になって、物語の中に『毒姫』という存在があることを知った。
幼い頃から身体に毒を取り込んで慣らし、身体が毒そのものになって、かかわる人々を殺すという……
(お母さんはそれになぞらえて、私を『薬草姫』と呼んでいたのね。私が素直に、薬を飲むように)
今、ぼーっとしたレイゼルは、その言葉にとらわれてしまっていた。
手元のカップから、強い香りが立ち上る。
エデリの薬湯を、口元に近づける。
その時だった。
小さな物音がして、レイゼルはカップを持ったまま、ゆっくりと振り向いた。
水車の前に、小さな姿が立っている。
エルジルディンだった。
「あら?」
エデリもすぐに気づき、目を見開く。
「いつの間に……気づかなかった。最初からいたの? いなかったわよね?」
エルジルディンは、この時間はシェントロッドくらいしか店に来ないのを知っていたから来たのだ。それなのに、知らない女性がいるのに驚き、その場に立ち尽くしている。
エデリは立ち上がった。
「レイゼル、それを飲んでしまってね。……こんばんは、お名前は? 可愛らしい子」
エデリが、エルジルディンに近づく。
その光景は、レイゼルに危機感を思い出させた。
かつての自分のように幼い子どもに、エデリが――
「っだめっ!」
カップが床に転がり、薬湯が土間にこぼれる。
レイゼルは立ち上がりながら、とっさに叫んだ。
「エルジー、逃げて!」
ビクッ、とエルジーは怯えたように身体を固くし、そして身を翻した。彼女の身体はふわりと光り、水路に消える。
「な、なに? あの子は界脈を通れるの?」
エデリは界脈士について知っていたようだ。
「困ったわね、誰か呼ばれてしまうかしら。まぁいいわ、すぐ済むし」
そしてスタスタとかまどに近寄ると、土瓶に残った中身を改めてカップに注ぎ、レイゼルを振り向いた。
「レイゼル、さぁ」
レイゼルは作業台に捕まって立ち上がりながら、首を横に振った。
「いや、飲まない」
「聞き分けのないことを言わないの。お母さんの薬湯、飲めるわよね?」
(身体が、重い)
作業台の上の、あるものを握り込み、レイゼルは口元を覆いながらよろよろと逃げる。
エデリはレイゼルを、壁際まで追いつめた。
壁に寄りかかるレイゼルを振り向かせ、片手で優しく頬を包む。もう片方の手で、カップを口元に近づける。
「いい子ね、『薬草姫』さん」
その言葉は呪文のように、レイゼルを縛りつけた。
エルジルディンは孤児院には戻らず、川から上がると警備隊の隊舎に走った。
隊舎にはその日、シェントロッドの留守を預かる界脈士がいた。連絡役に、シェントロッドが知り合いをゴドゥワイトから呼び寄せたのである。
「ん? おっと」
気配に振り向いたとたん、まっすぐに突っ込んできたエルジルディンが足に衝突し、界脈士の彼は一歩よろけた。そして眉を顰める。
「ああ……お前か。人間族との混血だとかいう」
「……!」
一瞬、エルジルディンはビクッと身体を引いたが、すぐに口をぱくぱくさせた。
「……し」
「何だ? しゃべれないのか?」
界脈士はいぶかしむ。
エルジルディンは口を大きく開け、息を吸っては吐き、喘ぐような息づかいになり――
――やがて、一言、発した。
「しぇんとろ!」
「あ?」
「しぇんとろ! しぇんとろ!」
一度あふれ出した声は、とどまるところを知らない。
「うるさい。シェントロッド・ソロン殿のことか?」
「しぇんとろ! しぇんとろ! れーぜる! しぇんとろ!」
エルジルディンが連呼するので、他の隊員たちも何だ何だと覗きにくる。
「どうなさいました?」
「よくわからんが、この娘はシェントロッド殿が後見人をしていると聞いた。何かあったら知らせろとも言われているし、仕方がない。行ってくる」
うんざりした様子の界脈士は、エルジルディンの声から逃れるように、無造作に界脈に入った。
「エルジー。ソロン隊長に知らせてくれるから、落ち着いて」
知り合いの隊員に言われて、エルジルディンはゼーハーしながらもとりあえず黙った。
当直の隊員は、顔を見合わせる。
「さっき、さりげなくレイゼルの名前も入ってなかったか?」
「ああ。ちょっと、薬湯屋を見に行ってみるか」
そして。
知らせを受けたシェントロッドは、文字通り光の速さで界脈を奔った。
彼が薬湯屋に飛び込んだ時――
レイゼルは、知らない女に壁に押さえこまれていた。カップが口元にさしつけられている。
「何をしている!」
シェントロッドは女の肩をつかんでレイゼルから引き離した。
「あっ」
女が土間に転がる。レイゼルはその場に崩れ落ち、ごほっ、と咳をした。
「くっ」
女は立ち上がって逃げようとしたが、シェントロッドが首筋に手刀で容赦のない一撃を与えたことで昏倒し、動かなくなった。
「う……何だ、この匂いは」
一瞬めまいを覚えながらも、彼はレイゼルの前に膝を突く。
「レイゼル!」
抱き起こすと、彼女はゆらりと視線をさまよわせた。
「……スープが……焦げる」
「は?」
「鍋……下ろさないと……」
「言ってる場合か!」
シェントロッドはレイゼルをかっさらうように抱き上げると、外に出た。冬の夜の冷たい、けれど澄んだ空気が、レイゼルを清める。
とたんに、レイゼルが「っくしゅっ」とくしゃみをした。
「しっかりしろ」
シェントロッドは片膝をつき、胸にレイゼルをもたせかけておいて外套を脱いだ。その外套で彼女をすっぽり包む。
「あ、す、すみません……あぁ、やっと頭がはっきりしてきた」
細っこいレイゼルは、大きな外套の中で泳ぎそうに見える。彼女は目をパチパチさせた。
「……おか……エデリは?」
「何だって?」
「エデリ・キコラ、私の養母です。あっ、倒れて」
扉から店の中を見たレイゼルは、あわてたようにシェントロッドの軍服の袖をつかんだ。
「隊長さん、その人を動けないようにして身体検査をっ。毒や薬を、たくさん持っているはず」
「わかった」
聞きたいことは山積みだったが、シェントロッドはすぐにレイゼルの言う通りにした。
やがて、警備隊の馬の足音が近づいてきた。




