第七十七話 帰ってきた女(ひと)(2)
「大きくなったわねぇ。あの頃は、長生きできるか心配していたものだけれど」
エデリは目を見開いて、まじまじとレイゼルを見つめた。
心臓が大きく打ち始め、レイゼルはエプロンの胸元を握りしめながら喘ぐ。
「どうして……だって、捕まって……亡くなったって」
「心配かけて、ごめんね。実は生きていたの」
エデリは申し訳なさそうに眉尻を下げる。
「処刑される前に、薬を飲んだのよ。アンダルベやシラギートなんかを使ってね」
「! か、仮死状態に!?」
「あら、よく覚えていたわね」
感心したようにエデリは目を見開いたが、レイゼルは喜ぶどころではない。
(自分の身体で知っているもの。アンダルベの実で瞳孔を開いて、シラギートの葉で脈を少なく……。他にも、効果を高める薬草を一緒に使えば死んでいるように見えるかもしれない。処刑を免れるために、フリをしたんだ!)
エデリは、レイゼルの反応などお構いなしに続ける。
「それでそのまま埋められて、効果が切れてから脱出したわけ。深く埋められなくて良かったわ。賭けに勝ったというところかしら」
「今まで、どこに」
「西の方を中心に、流しの薬売りをしているわ。ほら、決まった場所に住んでいると見つかっちゃうかもしれないでしょ」
エデリの話し方を聞いていると、まるで久しぶりに会った娘に近況報告をしているだけのように思えてきて、レイゼルは混乱した。
(しっかりしないと。家を燃やしてまで、決別したでしょう? この人は、罪を犯して捕まった人。そして、脱走した人)
手を握りしめながら心に言い聞かせ、レイゼルはちらりと水車を見る。
(隊長さん……あっ、ダメだ。レド川にいるから連絡が取れない……!)
背筋を寒気が駆け上った。
(一人で、何とかしなくちゃ。でも、どうしてここに来たんだろう)
理由を知りたいが、聞いてしまったら何か恐ろしいことが起きそうで、レイゼルは話を逸らすように別の質問をした。
「お母さん、どうして毒薬を作る仕事なんて、することになったの?」
「あぁ、そういえばそういう話、したことなかったわね。レイゼルはまだ小さかったから」
エデリは、うんうん、とうなずいてから、ふんわりと微笑む。
「私ね、人の生死を握っていると、安心するのよ」
「……安心……生死を握るのが……?」
絶句するレイゼルに、エデリは世間話のようにちょっと手を煽ったりしながら語る。
「子どもの頃、閉鎖的な村で暮らしていたんだけど、色々と理不尽な目に遭ってね。ある日、気づいたの。毒があれば、子どもでも女でも、大の男を殺せるんだ! って。それでこっそり勉強したのよ」
(そうか。私の生死も握って、安心していた……)
レイゼルは呆然とした。
しかし、直後に胸がギュッと締め付けられるような痛みが襲ってくる。
(そんなことでしか、安心できなかった……?)
「レイゼルもたくさん勉強したんでしょ? フィーロで評判を聞いたの。村の若い子も褒めていたし、お母さん鼻が高いわ。あ、そうだ」
エデリは照れ笑いを浮かべる。
「嫌ね、懐かしくてつい、本題を忘れるところだった」
「!」
警戒するレイゼルに、エデリはさらりと言った。
「レイゼル、ミューティオカの種を持っているでしょ? あれ、お母さんにちょうだい」
びくっ、と、レイゼルは身体をすくませた。しかしすぐに切り返す。
「そんなの、持ってない!」
「嘘よぉ、だって私たちのおうちの畑になかったもの。レイゼルが掘り出して、移動させたんでしょ?」
エデリは軽く首を傾げる。
「瓶に入った、ミューティオカの種。どこに隠したの?」
レイゼルはめまいがしてきて、ベンチにへたりこんだ。
子どもの頃からの、大事なものを瓶に入れてリスのように埋める習慣。それは、エデリの真似から始まった。エデリが貴重な薬草の種をそのようにして隠しているのを見たからだ。
ミューティオカは美しい黄色い花をつける薬草で、その根っこは心臓の弱い人のための薬になる。なかなか手に入らない、貴重なものだ。
しかし、とても強い薬種で、根っこを決まった温度で煮て効力を弱めなくては使えないほどだった。
もし何の処理もせずに使えば、ほんの少量で人を即死させる毒になる。口に入れなくとも、皮膚からの吸収でさえ死に至る。しかも、解毒剤が発見されていない。
(いつか心臓の弱い人の役に立つかもしれないと思って、家を燃やす前に瓶を掘り出してあった。その後で、東の森のシダレチェルーの下に埋めて……)
春にシェントロッドと二人で、花を眺めたのを思い出す。垂れ下がった枝が埋もれるほどたくさん、薄紅色の花をつけたシダレチェルー、その周りを賑やかすように溢れる、黄色いナフワ花。
その奥に、ミューティオカの種は眠っているのだ。
(使ってしまったと言えば良かった。どうしよう。渡さないと、帰ってくれないかも)
一瞬、迷う。
けれど、その迷いをすぐにレイゼルは振り払った。
(ダメ。きっとミューティオカで誰かを殺すつもりなんだ。絶対、渡すわけにいかない)
ギュッと目をつぶり、必死で首を横に振る。
エデリの優しい声が耳に届いた。
「心配しないで、大丈夫。薬として使うだけだから。ミューティオカが必要な人がいるの。とっても大事なお客さんでね」
「おか、お母さん」
レイゼルは目を開き、まっすぐにエデリを見つめた。
「もう、お母さんを、信じることができないの。……ごめんなさい」
エデリは、しばらくレイゼルの顔を見つめたまま黙っていた。
店の中は、静かである。かまどの上でスープがいい匂いを立てていたが、もうずいぶん煮詰まっているだろう。
放っておけば焦げついてしまうな……と、レイゼルは頭の隅でどこか冷静に考えていた。
やがて、エデリは小さくため息をついた。
「そう、仕方ないわね。じゃあ、そろそろお暇しようかしら」
「…………」
「でもその前に、一つだけ、お母さんのお願いを聞いてちょうだい」
エデリは懐から、薬包を取り出した。
「これね、身体の弱いあなたのために調合したの。レイゼルのことは忘れたことなかったから、貴重な薬草が手に入って、つい作っちゃった。煎じるから、飲んで」
レイゼルは思わず、声を強めた。
「お母さん、やめて」
「お願い。きっともう会えないんだから、最後に。いいでしょう? あらっ、火脈鉱があるじゃない。これ便利よねー」
レイゼルが戸惑っている間に、エデリは話を続けながら土瓶に水を入れ、薬包の中身も入れた。そして、鍋の隣に置かれていた石壷に載せる。
「お母さんもちゃんと勉強して、新しい知識を入れるようにしているのよ。飲んだら驚くかも。ふふ、まだまだレイゼルには負けないわ」
煎じられていく土瓶の中身の香りが、スープの香りを覆い隠すように、強く漂い出す。
(飲むのは、断らないと。でもこれ、何の香りだろう)
レイゼルの脳が、勝手に分析を始める。
(ケッシーの皮の香りに隠れているけど、コフィの実、ロガラドの根……。あっ、それにこれにも、アンダルベの実が入ってる?)
一瞬、視界がぶれた。
(いけない、匂いだけで……)
反射的に立ち上がろうとしたが、膝の力が抜け、ベンチの前に座り込む。
ぼーっとする頭、しかしその片隅の明瞭な一角が、危険を知らせていた。




