第七十六話 帰ってきた女(ひと)(1)
本日から第三部の終わりまで、5日間連続更新です。
今にも雪の降りそうな、どんより曇った日のことだった。
昼前にシェントロッドが薬湯屋に行ってみると、今日は三人も同時に客が来ている。
「積もったら動きにくくなるからな、薬湯を多めにもらっておこうと思って」
腰と膝の悪いナックス――前ロンフィルダ領警備隊隊長――が言い、その横で金物屋のジニーと揚げ物屋のノエラがウンウンとうなずいた。みんな、同じような理由で来ているらしい。
若い者がいる家はいいが、そうではない家は確かに、雪が降ったらここまで来るのは大変だろう。レイゼルの方も、なかなか届けには行けないのだ。
「なるほどな。……店主」
「はいっ」
水車の近くで臼に何か入れていたレイゼルが、振り向く。
「これからちょっと、レド川まで行くことになった。連絡がつかないから気をつけろ」
シェントロッドは告げる。レド川周辺は界脈が乱れているため、もしレイゼルが水脈を通して彼を呼んでも聞こえない、という意味だ。
レイゼルもわかっているので、うなずく。
「あっ、はい。レド川で、何かありました?」
「前に話した、レド川周辺の国々でディラジア病について情報交換する件、本格化しそうでな。俺も同席することになったから、行ってくる。今日は遅くなるからスープはいらない」
「わかりました、お気をつけて」
まるで夫婦の会話である。
「昼間は皆が来ていて心配はいらなさそうだが、夕方以降は気をつけろ」
「はい。もうすっかり寒くなりましたし、今日は店から出ないで暖かくしてます。お約束します」
にこ、とレイゼルは微笑んだ。
「おーい、レイゼルー」
入り口からまた一人、入ってくる。木工職人のところで弟子をしているジョスだ。
「師匠が腹壊したぁ。モーリアン先生が薬湯作ってもらえって」
「はいはいっ。何を食べたの?」
忙しそうなレイゼルにそれ以上話しかけることもできず、シェントロッドは「ではな」と言って薬湯屋を辞した。
界脈に入ろうとして、ふと空を見上げる。
「……降り始めたか」
灰色の空を背景に、白いものが舞い始めていた。
同じ頃。
養鶏農家で住み込みで働いているミロは、卵を警備隊隊舎の食堂に届け、代金を受け取ると、大通りに出た。
「わ、降ってきた。寒っ」
肩を縮め、白い息を吐きながらながら歩いていくと、向かいからショールをかぶった女性がやってくる。両脇の家や店を、確かめるように見ていた。何か探しているらしい。
口元までショールを巻いているので顔はよく見えないが、目尻に皺のあるおとなしげな目元が覗いている。アザネ村の住人ではなさそうだ。
「おばさん、何か探してるの?」
親切なミロは声をかけた。
黒い瞳が、彼を見て瞬く。
「ああ、ありがとう。実は、フィーロで噂を聞いてきたのよ、アザネ村に薬湯のお店があるって」
「うん、あるよ。薬湯屋を探してたのか」
「そうなの。とてもよく効くと聞いて、私も作ってもらいたくてね。でも、若い女の子が一人でやっているって、本当?」
「本当だよ。レイゼルは若いけど、ちゃんと勉強しててすごいんだ。おばさんもきっとびっくりするよ!」
ついつい友達を自慢したくなるミロである。
女性は少し眉尻を下げた。
「そう……そんなにすごいお店なら、きっと混んでいるでしょうね」
「まあ、昼間は割と、入れ替わり立ち替わり……かな。午後遅い時間になれば、いつも空いてるよ」
ミロは教える。
シェントロッドが薬湯屋を訪れる時はたいてい夕方なので、村の人々は遠慮してその時間には行かないのが普通になっていた。
目を細めて、女性はうなずく。
「ありがとう、助かるわ。じゃあそれまで、村を見物させてもらおうかしら」
「でも、降り出したよ」
「泊めてもらうことになってるから、大丈夫」
「そっか。じゃあ、気をつけてね!」
ミロは片手を上げて、村の南へ向かう道へと折れた。
(すげーな。レイゼルの噂、フィーロで広まってるんだ!)
軽い足取りで歩き、ふと振り返る。
女性は、なぜかさっき来た方、大通りを西の方へと戻っていくところだった。
(そういえばあの人、西から来たけど、まさか一人で山越えしてきたわけじゃないだろうし……何やってるのかな。まぁいいや、仕事仕事)
ミロは元気に、家に向かって走り出した。
黒い瞳の女性は、果樹園の前を通り過ぎて歩いていく。
小川にかかった橋を越えると、西の山の手前の森だ。現在では保護領になっている。陽も射しておらず、森の中は昼間とはいえ薄暗い。
女性は地面に積もった枯れ葉を踏みながら、慣れた足取りで歩いていく。
やがて、少し開けた場所に出た。かつて火事で燃え落ちた建物が、黒々とした骨組みをさらしている。
近くの木に馬が一頭繋がれており、ブルル、と鼻を鳴らした。
実は、女性は朝まだ暗いうちにひっそりと、馬でアザネ村を訪れていた。そして、まずこの場所に来て、捜し物をしたのだ。しかし、いくら捜しても見つからなかったので、馬は目立たないようにここに繋いでおき、村へと出た。
「私を知らない子から情報が聞けて、よかったわ。十五年経っているから、知り合いに会っても気づかれないと思うけれど」
ショールの口元を下げ、女性はうっすらと微笑む。
「あれはここになかったから、レイゼルが掘り出して持っているはず。暗くなったら、あの子に聞きに行きましょう」
冬は陽が短く、あっという間に暮れる。
夕闇に沈んだ畑の中、そこにぽつんと建つ水車小屋の扉が開き、柔らかな明かりが漏れた。明かりの中を、雪の陰がチラチラと横切る。
レイゼルは小屋の外に積んである薪を一束サッと抱えて、また中に戻った。扉を閉める。
「うー、寒っ。うっすら積もってたなぁ、あんまり積もらないといいけど。さて、スープ作ろう! 今日は隊長さんは来ないって言ってたし、鳥の出汁を使おうかな」
鳥ガラから取った出汁に、賽の目に切った根菜をたっぷり入れて、柔らかくなるまでゆっくり煮ていく。
待っている間に、干した薬草をしまってしまおうと、レイゼルは天井の梁にぶら下げた束をいくつか下ろした。
その時、トントン、とノックの音がした。
「はーい、どうぞ!」
レイゼルは振り向き、声をかける。
きぃ、と扉が開き、頭からショールを被った女性が入ってきた。この季節はみんな着膨れているので、一瞬誰だかわからない。
「いらっしゃ……」
言いかけたレイゼルの鼻に、ふっ、と覚えのある匂いがかすかに届いた。
(……? 何だっけ、この匂い)
脳裏に、ある一場面が浮かんだ。
潰した薬草を、誰かがレイゼルの腕に塗っている。塗り薬から立ち上る、青臭い匂い。
塗っているのは……
「っ!」
悲鳴を上げそうになりながら、レイゼルは思わず一歩下がった。
女性はするりと、ショールを取る。
リツ色の髪には白髪が混じり、黒い瞳の目尻には皺が増えていた。昔とはずいぶん変わったけれど、よく知っている、細面の顔。
薬草を扱う仕事を生業としているからか、いつも薬草の香りをまとっていた人。
「……お、かあ、さん」
「久しぶりね、レイゼル」
にこっ、と、エデリ・キコラは目を細めて微笑んだ。




