第七十三話 友人たちの名案
水脈を通してレイゼルに呼ばれた時、シェントロッドはフィーロの警備隊本部から隊舎に戻ろうとしていたところだった。
道路脇の水路から、声が聞こえる。
『隊長さん、助けて……!』
(レイゼル!?)
シェントロッドは即座に界脈に入り、アザネ村の薬湯屋の前に出現した。ノックもなしに扉を開ける。
「店主」
「たいちょうさんっ」
水車の前で振り向いたレイゼルが、シェントロッドに駆け寄ってきた。涙目になっている。
「何があった」
短く尋ねると、彼女は両手を握りしめた。
「エルジーが来ちゃったんです!」
「…………は?」
思わず聞き返すシェントロッドに、レイゼルはつっかえつっかえ事情を説明した。
シェントロッドは前髪をかきあげ、軽くため息をついてから、レイゼルに断って彼女の私室を覗く。
ベッドの上、盛り上がった毛布はゆっくりと上下し、すぅ、すぅ、と寝息が聞こえた。
「……もう寝ているようだな」
「あぁあぁ、どうしよう……!」
レイゼルは両手を頬にあて、途方に暮れた。
まだ隊服姿だったシェントロッドは、黒手袋の指を軽く唇にあててレイゼルに静かにするように合図すると、いったん私室の扉を閉める。
「……シスターには、俺が知らせてやる。今日のところは泊めてやったらどうだ。お前のベッドの大きさなら、二人で一緒に眠れるだろう」
「だ、だめです。私は今日は寝ませんっ。寝ちゃだめです」
絶賛動揺中のレイゼルは、目を泳がせながらエプロンを握りしめる。
「もし、私が寝ている間にエルジーが起きて、薬草に触ったら? 棚には手が届かないと思いますけど、菜園には小さい子には毒になる薬草もあるし……怖いんです。あっ、扉を塞いだらいいのかしら、裏口も玄関も……でもどうやって」
(これはまずい)
シェントロッドはすぐに悟った。
(緊張状態でいれば、レイゼルはすぐに体調を崩す。そもそも眠れないだろう。それにもしかしたら、自分と養母が暮らしていた昔のことを思い出している……?)
「レイゼル。落ち着け」
シェントロッドはゆっくりと呼びかけ、注意を引いた。不安そうなレイゼルの潤んだ瞳が、彼を見上げる。
「わかった。では、俺がエルジーを孤児院に連れて帰る。ぐっすり眠っているなら、起こさないまま抱えて連れていけるだろう」
「あ……はい……」
レイゼルは我に返ったように瞬いてから、落ち込んだ表情になった。
「すみません……夜にご迷惑を……」
「大したことはない。まだ小さくて軽いしな」
それに、深く眠っているようなら『同行』もできる、と彼は密かに思いながら続ける。
「俺こそ、済まなかった」
「えっ?」
「勝手に界脈に入らないように、言ってはあったんだ。しかし、エルジーに納得させることができていなかった」
「し、仕方ないです、その力が使えるのに使うなというのは、子どもには難しいでしょうし……。ああ、私以外の人なら、きっとエルジーを泊めてあげられるのに。どうしてよりによって、私なんかのところに」
レイゼルはしょんぼりしている。
シェントロッドは苦笑した。
「ここが、気に入ってしまったのかもしれないな。俺のように」
「気に入って……? うちのどこがよかったのかしら。そういえば初めて来た時、色々見て回ってたけど」
『俺のように』のあたりが耳に入っていないレイゼルは、考え込んでいる。
シェントロッドはまた苦笑すると、再びレイゼルの私室へ行き、毛布を一枚借りてくるむようにしてエルジルディンを抱き上げた。
エルジルディンは軽く顔をしかめたものの、彼の腕で再び安らかな寝息をたてる。
「ではな。明日にでも、シスター・サラと今後のことを相談してみる」
「お願いします……!」
レイゼルが玄関の扉を開け、シェントロッドは彼女にうなずきかけてから、エルジルディンと出て行った。
その日はそれで解決したものの、どうやらエルジルディンは、薬湯屋がすっかり気に入ってしまったらしい。
数日経って、今度は昼間に、またもや勝手に界脈を移動して薬湯屋にやってきてしまった。
うっすらとした光をまとい、ふわん、と店内に出現したエルジルディンに、レイゼルはまたもやギョッとする。
「え、エルジー!」
「わぁ、びっくりした」
たまたま来ていたトマも、さすがに声を上げる。
「ほんとに、いきなりなんだね、話には聞いてたけど。……やぁ、エルジー」
エルジーはトマをチラチラ見ながら、すすす、とレイゼルの方に近寄った。
「どうしよう」
レイゼルは困りながらも、何か飲み物をと薬草棚を覗く。エルジーはそんな彼女の手元を熱心に見つめていた。
トマはクスッと笑う。
「ひょっとしてエルジー、薬草に興味があるんじゃない?」
「えぇ? そうなの?」
レイゼルは見下ろして聞いたけれど、エルジーは黙ってレイゼルの作業を見守るだけだった。
だいぶ日も短くなり、山が燃えるように紅葉した頃。
毎年恒例、村祭りの日がやってきた。
村の広場に作られたかまどでは、今年も様々な料理が湯気を立てている。村人たちは思い思いに集まって、秋の味覚を楽しんだ。
レイゼルも、孤児院出身の若者たちやルドリックとにぎやかな時間を楽しむ。
「へぇ、エルジー、薬湯屋が気に入ったんだ?」
ルドリックが面白そうに振り向いた。
彼の後ろの方では、一通り祭りの食事を楽しんでお腹いっぱいになった子どもたちが、駆け回って遊んでいた。その様子を、エルジルディンがシスターのそばで静かに眺めている。
「うん……さすがにもう夜には来なくなったけど、時々思い出したように来るの。小さいのに、一人で孤児院を飛び出しちゃうなんて。どうしたらいいのかしら」
レイゼルは膝の上で頬杖をつき、ため息をつく。
(ニネット様から、様子をお尋ねの手紙が来ているのよね。なんてお返事しよう)
考え込みながら見ていると、孤児院のアレットがエルジルディンに近寄っていくのが見えた。アレットは、村で流行り病が起こったときに、レイゼルに知らせに来てくれた子である。
アレットはエルジルディンに、棒に刺さったプラムの実を渡した。実に水飴をかけて固めた、子どもに人気のお祭りメニューである。艶々した飴の中に瑞々しい紫色が透けて、見ているだけで甘さと爽やかさが口の中に広がるかのようだ。
エルジルディンは黙ってはいるものの、素直にそれを受け取った。アレットは嬉しそうに微笑み、彼女のそばを離れた。
視線が合い、アレットがニコッと微笑んだ。レイゼルも微笑んで、彼女を手招きする。
「エルジーと仲良くなったの?」
聞いてみると、アレットはますますニコニコした。
「うん。エルジーね、果物がだいすきなんだよ」
「じゃあムムの季節も楽しみね、きっと喜ぶよ」
「ふふ」
アレットは機嫌よく、自分の分のプラム飴にかぶりつく。
今年、孤児院を出て木工職人の弟子になったジョスが、アレットに聞いた。
「エルジーって、どんな子?」
アレットは頬を上気させる。
「エルジーね、四さいなのに字をたくさん書けるの! 難しい本も読めるし。『ナファイ神話』の本を読んでた」
「え、あの、こーんな分厚いの?」
レイゼルは指で示しながら驚く。孤児院の図書室にある『ナファイ神話』といえば、文字ばかりで挿し絵のない本だ。
彼らのやりとりを聞いていたミロは、しばらくもりもりと腸詰めの煮込みを食べていたが、平らげたと思ったら不意に言った。
「なぁレイゼル、エルジーを弟子にしたら?」
「へ?」
レイゼルが目をぱちくりさせると、ミロは続ける。
「前に、そういう話をしたじゃん。村のためには、薬湯屋の跡継ぎのことも考えないと、って」
「あ……」
思い出しながらも、レイゼルは戸惑う。
(私が、弟子を持つ?)
「うん、いい考えだと思うよ」
横からトマが言った。
「エルジーは複雑な事情のある子だから、大人になって何かあった時でも食べていけるように、学ぶことが必要だと思う。薬湯の知識があったら、きっと心強い武器になるよ。せっかく賢いんだし」
「でも、弟子って、どんな風に……?」
「そりゃ、通って……あ、そっか!」
ミロが身を乗り出す。
「勝手に薬湯屋に来られると困るんだろ? 逆に、来る時間を決めちゃえば? 例えば、午前中は薬湯屋に来てレイゼルの仕事を学ぶ、とか。エルジーは薬湯屋が好きみたいだから、来ていいとなれば満足して、他の時間には来なくなるんじゃない?」
「名案だな」
いきなり後ろから声がして、レイゼルは「ひえっ」と飛び上がりながら振り向く。
シェントロッドだった。
「もし店主がエルジーを弟子にするなら、孤児院との間の送迎などは、俺も手助けする」
「た、隊長さん。でもまだ、エルジーにその気があるか確かめた訳じゃないですし」
「そうだな。お前がまずゆっくり考えてみて、そうしてもいいと思ったらエルジーに話してみるといい。あくまでもお前の生活が優先だ、無理をしては元も子もない」
シェントロッドが淡々と言えば、トマもうなずく。
「うん、そうだね。レイゼルができないと思ったら、この話はしなければいい。賢い子なら、薬湯屋じゃなくても何か手に職をつけられるとは思うし。急ぐ必要もないしね」
「う、うん……わかった、考えてみる……」
レイゼルは戸惑いながらも、うなずいた。




