第六十二話 どんな未来を選んでも
夕方、残照に染まるゴドゥワイトの地に、シェントロッドは戻ってきた。
自分の客室に入るより先に、レイゼルの客室の扉をノックしてみたが、返事がない。廊下を通りかかった使用人が、
「レイゼル殿は、イズルディア様のお部屋にいますよ」
と教えてくれた。
イズルディアの私室をノックすると、「入りなさい」と声がした。
部屋の奥、暖炉を囲むように長椅子が二つ置かれ、右の椅子の左端にイズルディアが、左の椅子の右端にレイゼルが座っている。
何か飲み物のカップを手にした二人は、彼の方を振り向いた。
「シェントロッドか」
「隊長さん、お帰りなさい」
シェントロッドはイズルディアに「戻りました」と声をかけると、レイゼルのいる長椅子の空いたところに座った。
「店主、休んだか?」
「昼過ぎまで寝てました。お休みの間、領内は大丈夫でしたか?」
「まあな。……失礼、話の途中で」
シェントロッドがイズルディアに視線を移すと、イズルディアはうなずいた。
「今、グザヴィエ殿の件について詳しく聞いていたところだ。イグスの木が人間族の身体によくないことは知っていたが、蜂蜜酒を通して……とはな。いや、よく気づいてくれた」
「隊長さんが醸造所に連れて行って下さって、蜂蜜酒の作り方とか、二十日くらいでできることなどを教えてくれたんです。そのおかげで気づきました」
レイゼルがニコニコと報告する横から、シェントロッドも口を出す。
「彼女はずっと、蜂蜜酒を疑っていた。だから俺も、蜂蜜酒に関することを教えておこうという気になっただけです」
イズルディアは、はっはっは、と面白そうに笑う。
「お前たち二人で謎を追ったからこそ、解けたわけだな」
シェントロッドがちらりとレイゼルを見ると、彼女は彼を見上げてフフッと笑った。
「ペルップが一緒だったら、もっと早かったと思いますよ。グザヴィエ様の蜂蜜酒、かすかな匂いでも気づいたはずだもの」
「ああ……まぁ、確かにな」
何となく悔しいが、認めるシェントロッドである。
彼は改めて、イズルディアに向き直った。
「イズルディア殿、グザヴィエ殿の件は解決したことですし、すぐにレイゼルをアザネ村に帰してやりたいと思うんですが」
「え」
レイゼルは戸惑いを顔に浮かべる。
「でも、グザヴィエ様、まだ治っていません」
「お前は治療法まで知っていてくれたんだ、それをリーファン族の医師や薬湯屋に伝えて任せれば十分だろう。完治まで面倒を見る必要はない」
「でも、ニネット様はまだ不安そうでしたし」
「それに付き合うほどお前に余裕があるのか? 自分の身体のことを考えろ」
「うう」
レイゼルは肩をすくめた。
イズルディアは、彼女に微笑みかける。
「レイゼル・ミル。そなたは十分な働きをした、もう望み通りにして構わない。実は、そなたが帰る前に今回の働きに対する礼についての話をしておこうと思って、ここに呼んだのだ」
そして、彼はシェントロッドを見る。
「シェントロッドにも、この話は聞いておいてもらおうと思ってな」
「俺もですか」
「そうだ。……シェントロッドを治したことといい、グザヴィエ殿の治療法を内密のうちに見つけてくれたことといい、ゴドゥワイトはそなたに恩ができた」
イズルディアが言う。
リーファン族の十倍の恩返しの話を知っているレイゼルは、驚いて目を丸くした。
「恩だなんて! どちらも仕事としてお引き受けしたつもりです! あ、じゃあ、ちゃんと金額をお出ししますから」
「もちろん、報酬は払う。しかしそれだけでは足りないと、私は思うぞ」
イズルディアは言う。
「レイゼル・ミル。その身体を、しっかり治したいとは思わぬか?」
「え」
その言葉にレイゼルは驚き、軽く息を吸い込んだ。
イズルディアは続ける。
「ナファイ国の北に、界脈が生まれ、流れ出ずる場所がある」
「聖地……」
つぶやくシェントロッドに、イズルディアはうなずいた。
「深い、深い森の奥だ。人間族だけではたどり着けない。普通のリーファン族でも無理だ。私なら、その正確な湧出点に、レイゼル、そなたを連れて行くことができる」
彼は両手を軽く広げた。
「そこでしばらく過ごすがいい。そして、リーファン族と同じように界脈の力を受けて生きる身体になれば、体調を崩すこともなく、長く生きられよう」
レイゼルはただただ、息を呑んでいる。
シェントロッドは彼女の様子を気にしつつ、言った。
「イズルディア殿。その話は、門外不出では」
「そうだ。しかし、お前がいる」
イズルディアはシェントロッドを見て、微笑んだ。
「二人を見ていればわかる。レイゼル・ミルにとって、今やお前は大事な存在のようだ。それなのに、リーファンを裏切って外へ漏らすような真似はすまい。……そして、お前にとっても、レイゼル・ミルは大事な存在なのだろう?」
その眼差しは、優しい。
「彼女が長く生きることは、お前にとっても望ましいことのはずだ。我々リーファン族も、彼女のような者なら仲間に迎え入れるだろう」
「しかし」
シェントロッドは言いかけたものの、そのまま口をつぐみ、レイゼルの顔を見た。
(しかし、それはおそらく、違う)
「あの……」
自分の手を見つめていたレイゼルが、ようやく口を開く。
「あの……それは、つまり……」
「うむ」
イズルディアが促すと、彼女は顔を上げた。
「私が、人間族ではなく、リーファン族になる、ということ……ですか?」
「それに近いな。しかし、アザネ村で暮らしたいなら、それはもちろん変える必要はない。世界とのかかわり方が変わるだけだ」
「はい……でも、あの……」
レイゼルは言いにくそうにしながらも、イズルディアを見つめる。
「ごめんなさい……今、お話を聞いて、私……人間族でいたいと思ってしまいました」
その言葉を聞いて、シェントロッドは内心ホッとし──
──同時に、一抹の寂しさも感じた。
イズルディアは特に気を悪くした様子もなく、またうなずく。
「今すぐどうこうという話ではない。もし、いつかそなたがそれを望むなら、言いなさい」
「あ、はい。ありがとうございます」
レイゼルはようやく微笑む。
「リーファン族の秘密を教えて下さるなんて、私のしたことの十倍にしたってさらに過分なことだと思うんですけれど、あの、ありがとうございました。私、誰にも言いません。ええと、隊長さんに誓って」
「シェントロッドに誓うか。それなら安心だな」
イズルディアは面白そうに笑ったが、低い声で一言、付け加えた。
「もしもそなたが他の誰かをそうさせたいと思っても、それは許されぬ。レイゼル・ミル、この話はそなただけに話したのだということを、ゆめゆめ忘れずにいてほしい」
レイゼルは、神妙にうなずいた。
イズルディアは声の調子を変え、シェントロッドに話しかける。
「それで、すぐにレイゼルを帰すのか? 私が残念だが、仕方ない。手はずは?」
「今朝、仕事の前にアザネ村に寄りました」
シェントロッドは、レイゼルとイズルディアの両方に話す。
「村長の息子のルドリックに話をしたところ、三日後にレッシュレンキッピョン村まで迎えに来てくれると」
「わ、ほんとですか」
レイゼルはホッとした様子を見せる。ちなみに、ゴドゥワイト周辺は道が細く、馬車は近づけない。
シェントロッドはうなずく。
「ああ。馬に頼んで、明日、レッシュレンキッピョン村まで送ってもらおう。ゆっくりでいいから、帰り支度を始めるといい」
「はい! イズルディア様、私、支度しますね!」
「ああ、行っておいで」
レイゼルは、近くに置かれていたワゴンの上に手にしていたカップを返すと、ぺこりと頭を下げた。
「失礼します!」
シェントロッドも彼女の後に続こうとすると、イズルディアが呼び止めた。
「ああ、シェントロッド、少しいいか」
「はい。店主、後で手伝いに行く」
「大丈夫です、ごゆっくり」
レイゼルは微笑んで、部屋を出ていった。
暖炉の長椅子には、イズルディアとシェントロッドの二人になる。
窓の外はすっかり暗くなり、イズルディアの皺深い顔を、暖炉の炎が照らして陰影をつけている。
「先ほどの、聖地の話だが」
「はい」
「あれはな、実は、お前の助けになればと思ったのだ」
「……は?」
シェントロッドが思わず聞き返すと、イズルディアは苦笑した。
「レイゼル・ミルをお前が連れてきてから、ちらちらと様子を見ていたのだが、お前がどれだけ彼女を慈しんでいるかがよくわかってな」
「待っ……イズルディア殿、少々お待ちを」
「最初から、俺の部屋は彼女の部屋の隣に! という風だったしな」
「いや、それは彼女が虚弱で心配なためで」
「人間族でしかも虚弱なら、リーファン族のお前のそばに彼女がいる時間は短い。守りたくなるのも当然だ」
イズルディアはずんどこ話を進める。
「それなら、他の未来があってもいいのではないかと思ったのだ。二人が望んだ時、もう少し、ともにいられるような未来が」
「…………」
シェントロッドは黙り込む。
イズルディアは、居住まいを正した。
「もちろん、私から無理強いすることはないし、お前が彼女の望まないことをするとは思わない。全ては彼女の意志だ。ただ、レイゼル・ミルはいい子だし、私はお前が幸せに過ごすことを望んでいる。それを伝えておこうと思った」
「……ありがとうございます」
シェントロッドは、心から礼を言った。
シェントロッドがレイゼルの客室に行くと、彼女はローテーブルの上で、荷物の中の薬種を仕分けていた。
「あ、隊長さん」
彼女は顔を上げる。
「これを整理したら、ちょっと料理人さんのところに行ってきます。グザヴィエ様が早く回復するよう、食材に使える薬種を渡しておきたいので」
「ああ。あの料理人、自分が原因ではないかと気にしていたからな。今頃、ホッとしているだろう」
シェントロッドはレイゼルの向かいに座る。
──しばらく、沈黙が流れた。
レイゼルが、手を止めて口を開く。
「……あの、隊長さん、ごめんなさい」
「何がだ」
彼が聞き返すと、レイゼルはうつむく。
「イズルディア様からの、せっかくのお申し出だったのに」
「いや」
シェントロッドは軽く首を振った。
「俺も、お前の望みとは違うだろう、と思っていた」
「身体が丈夫になったらいいなとは、もちろん、思うんですけれど……そのために『私』が変わってしまうのは……」
そして、パッ、と顔を上げる。
「あっ、別にリーファン族が嫌なわけでも、隊長さんとのつき合いが長くなるのを嫌がってるわけでもありませんよ、言っておきますけど!」
彼は思わず、ふ、と息を漏らすように笑った。
「わかっている。俺のことは気にしなくていい。俺はまあ、今、お前のいるアザネ村の生活が気に入っているから、お前が長生きすればいいとは思うが」
そして、レイゼルの目を見つめた。
「お前が人間族として生き、寿命を全うした後、生まれ変わってまた俺に会いに来れば、それでいい。俺は待っているだろう」
「……隊長さん」
レイゼルは、シェントロッドの目を見つめ返す。
その顔が、みるみる赤くなった。
「あっ、はい、ええと、じゃあ厨房に行ってきますね!」
あたふたとレイゼルが立ち上がれば、シェントロッドも視線を逸らすなどしながら腰を浮かせる。
「あ、ああ。そうだ、俺も自分の荷物をまとめておくか」
こうしてその翌日、レイゼルとシェントロッドは、ゴドゥワイトを離れることになった。
グザヴィエ・ニネット夫妻の部屋に挨拶に行くと、夫妻はレイゼルに心から礼を述べた。
「そなたがいなかったら、どうなっていたことか。感謝する」
グザヴィエは多額の報酬をレイゼルに押しつけ、彼女はちょっとしたお金持ちになってしまって目を回しそうだった。
ニネットはレイゼルたちが出発する時、屋敷の外まで見送りにきてくれた。
「もしこの後も何かあったら、相談させてちょうだいね。ああ、でもこのまま治って、領地に帰れる望みが出てきて嬉しいわ」
「私も、このまま治ることをお祈りしてます。でもどうしてリーファン族と……あ、いえ」
グザヴィエの実家がリーファン族と不仲だったという話が、地味に気になっていたレイゼルは、口ごもった。
(まずいことを聞いちゃったかな)
ニネットはふと口をつぐみ、何か考え込む。
レイゼルが彼女の様子を窺っていると、ニネットはレイゼルを見つめ、シェントロッドを見上げ──
──そして、再びレイゼルを見つめた。
「……そうね。あなた方に話す日が来るかもしれません」
「え、私……と、隊長さんに?」
レイゼルは、シェントロッドと顔を見合わせる。
ニネットは微笑んだ。
「もしかしたら、ね」
その会話はレイゼルの心に残ったが、今はアザネ村が、アザネ村の人々が待っている。
「行こう」
シェントロッドに促され、レイゼルは「はい!」と元気に返事をすると、舟に乗り込んだ。
春の花の香りが空気に甘く漂う中、舟はゆっくりと湖面に滑り出した。
令和元年、今年も多くの読者さんと物語を楽しむことができ、嬉しかったです。
よいお年をお迎えください。そしてまた来年、物語の続きをご一緒に!




