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第五十七話 ゴドゥワイトの賓客

 レイゼルは、ごくりと喉を鳴らした。


 目の前に、幻想的な光景が広がっている。淡い夕焼けを背景にした、石造りの城──城のように見える島。すでに灯りが点り始め、鏡のような水面に映っている。

 不意に、水面にさざ波がたち、緩やかな風が水のにおいを運んできた。


「どうした、来い」

「あ、はいっ」

 レイゼルが我に返ると、斜面の途中で荷物を背負ったシェントロッドが待っていた。

 彼女は、下りたばかりの馬に「ありがとう!」と声をかける。馬たちは軽く頭を振ると、サッと駆け出し姿を消していった。


 レイゼルがシェントロッドに追いつき、二人は斜面を下り始める。このあたりの雪は、もう残っていなかった。

 歩きながら、レイゼルはチラチラとあたりの木々や草を観察する。植物が気になるのは職業病である。

「わぁ……アザネ村周辺やレッシュレンキッピョン村周辺とは、ちょっと植生が違いますね。あっ、こっち側が全部、イグスの木だわ。珍しい! わっとっと」

「おい。足下を見て歩け」

「はいっ」


 湖の畔に着くと、船着き場があった。

 桟橋には優美な曲線を描く小舟がもやってあり、リーファン族が一人、その小舟のそばに立っている。

「シェントロッド殿」

「連れてきた。渡してくれ」

「はい」

 淡い緑の髪を編み込んだそのリーファン族は、見た目はレイゼルと同年代の男性だ。彼女を物珍しげに眺める。

「こんにちは」

 レイゼルが挨拶したものの、彼は特に反応を返すことなく、片足を小舟にかけて桟橋にぴたりと引き寄せた。無言で乗るように示す。

「お、お願いします……」

 よいしょ、と、レイゼルは小舟の上縁をまたぐと、真ん中の横板にこわごわ座った。

 シェントロッドも荷物を積み込んでから乗り、船首側の板にレイゼルと向かい合う形で座る。

 リーファンの男性はもやい綱を外すと、船尾にひょいと乗り、一本だけある櫂で桟橋から小舟を突き放した。

 スーッと滑るように、小舟が湖の中央へと動き出した。


 湖は澄んで、うっすらと魚や水草が透けて見えている。

 辺りを見回したレイゼルが、小さく身体を震わせた。

「寒いか」

 シェントロッドが声をかけると、レイゼルは首を横に振り、困り顔で笑う。

「ちょっと、心細くなって。初めての場所ですし……今までいたところと、水で、こう……隔てられるので」


 界脈士なら出入り自由の島だが、レイゼルは人間族だし、泳げない。一度渡ってしまえば、再び船を使わなくては島から出られない。

 しかも、リーファン族の集落に人間族が一人で向かうのだ。


 シェントロッドは少し考えてから、口を開く。

「お前を一人にはしない。心配するな」

「え、でも隊長さん、お仕事が」

「とりあえず三日、休暇を取ってきた。その間のお前の様子を見て、先をどうするか考える。お前の体調が最優先だ、何かあればすぐにここから連れ出す」

 彼はいったん口をつぐんだ後、改めて言った。

「俺は、お前から離れない。常にそばにいるから、何でも言え」

「! ……はい!」

 レイゼルは、安心したように笑った。



 島側の船着き場に着くと、シェントロッドが先に船を下り、レイゼルに手を貸して彼女を下ろした。

 レイゼルは船を操っていた男性を振り返って「ありがとうございました」と頭を下げる。彼はやはり無反応だったが、レイゼルをじっと見つめていた。

「こっちだ」

 シェントロッドは石段のふもとでレイゼルを待った。彼女は島を見上げ、口を引き結ぶとうなずいた。


 シェントロッドが先に立ち、石段を登り始める。

 島は中央が高く、上下移動するための石段があちらこちらにあり、横移動するための道を繋いでいた。石段は狭く、両側から石造りの家々が迫っている。

 踊り場でいったん止まり、振り向くと、遅れてレイゼルがやってきた。立ち止まって息を整える。

(そうか。人間族の使う階段より、一段一段が高いのだったな)

 気づいたシェントロッドは、声をかけた。

「何なら、抱えていくが」

「いえ! 大丈夫です!」

 レイゼルはブンブンと手を振って固辞する。

「そうか。ゆっくりでいい。一番上まで上がらなくてはならないからな」

「すみません」

 再び、二人は階段を上りだした。

 すれ違うリーファン族たちが、シェントロッドには会釈をし、そしてレイゼルをやはり物珍しげに見る。

 しかし、レイゼルは足下を見つめ、階段を上ることに集中していて、それどころではないのだった。


 休み休み上って、ようやく開けた場所にたどり着いた。

 レイゼルが顔を上げ、「わ……」と口を開けたきり絶句する。

「ゴドゥワイトの領主、イズルディア殿の館だ」

 シェントロッドは説明した。

 灰色の石造りなのはゴドゥワイトの他の家々と同じだが、規模が違う。レイゼルの目には、個人の屋敷にはとても見えなかった。

「……なんだか……王都の大聖堂みたい……綺麗で大きいですね……すごい繊細な彫刻も……」

 はぁはぁと息を切らしているレイゼルは、緊張のためか、やや表情が硬い。


『王都』という単語に、シェントロッドはちらりと彼女を見たが、それには触れずに言った。

「客室をとってもらっている。とにかくいったん休め」

「でも、具合の悪い方がいらっしゃるんですよね」

「お前も具合が悪くなると困る。話は休んでからだ」

「隊長さん、ありがとうございます。でも私……気になって、たぶん休めないと思うので」

 申し訳なさそうに笑うレイゼル。

(そうだった。こいつは、仕事をしているときの方が落ち着くんだった)

 思い出したシェントロッドは、うなずいた。

「わかった。イズルディア殿に会おう」


 しかし、彼は密かに心配する。

(リーファン族の重鎮であるイズルディア殿になど会ったら……。緊張のあまり卒倒する店主が目に浮かぶようだ。念のために後ろに立っておいてやろう。頭を打たないように)

 

 しかし、その心配は無用だった。

 領主の部屋に通されると、窓のそばに立っていたイズルディアが目を細めて微笑む。

「おお。君が噂の、人間族の薬湯屋か」


 白いローブ姿に細面のイズルディアを一目見た瞬間、レイゼルは胸の中が温かくなるのを感じた。

 薬湯によって界脈と寄り添う生活をしている彼女は、目の前のこの人物、五百歳のリーファン族が、まるで界脈そのもののように近しく感じられたのだ。森の中で偶然、界脈の真上に立った時と似ている。


「初めまして。レイゼル・ミルです」

 近寄ったレイゼルは、ニコニコと挨拶する。

「いつも、サキラをいただいて、とても助かっています。本当にありがとうございます!」

 そんな彼女の様子に、イズルディアは相好を崩す。

「イズルディア・ソロンだ。礼には及ばん。そなたは、我が同胞シェントロッドを癒したのだからな。聞けばそなた自身、療養していたとか。なんと細く小さい姿だ。それなのにこんなところまで呼びつけてしまった」

「いいえ、お仕事はできるくらい、元気になりました。お役に立てるなら嬉しいです」

「そうかそうか。さあ、こちらに座りなさい、暖かいから」

 イズルディアが手招き、滑るように部屋の奥に移動する。

 レイゼルは後をついていき、シェントロッドはそれに続いた。


 突き当たりに暖炉があり、暖炉を取り囲むようにいくつかの椅子が置かれている。そして、そこで二人の人間族が待っていた。

 大きな肘掛け椅子に座っているのは、がっちりした体つきの壮年の男性だ。額にはめた金細工の輪、立派な布地の服は、彼が身分の高い人物であることをうかがわせる。

 すぐ隣の、肘掛けのない椅子には、同じ年頃の女性が座っていた。すらりとした身体に、シンプルな、しかし仕立てのいいドレスガウンをまとっている。

 二人はレイゼルを見ると、少々いぶかしげな表情で顔を見合わせ、またレイゼルに視線を戻した。

(夫婦のようだな。どこかの領主か、それとも……王族か)

 シェントロッドは思う。


 レイゼルはぺこりと挨拶した。

「こんにちは、失礼します」

「レイゼル、ひとまずここに座るがいい」

 暖炉の前で、イズルディアがゆったりと長椅子に腰かけ、隣を示した。彼はどうやら、彼女を気に入ったらしい。

 レイゼルは言われたとおり、長椅子の端に座った。しかし長椅子は少々高く、お尻を後ろにずらして深く座ると、足がぶらぶらしてしまう。

(まるで祖父と孫だな)

 シェントロッドは少し離れたところで椅子に座り、彼らを見守った。


「レイゼル、こちらはグザヴィエ殿。そして、奥方のニネット殿だ。お二人は私の客として、二十日ほど前からここに滞在されておる。グザヴィエ殿、ニネット殿、こちらはロンフィルダ領で薬湯屋を営んでいるレイゼル・ミルだ」

「レイゼルか。イズルディア殿に伺ったが、リーファン族を癒したことがあるそうだな」

 けだるい声で、グザヴィエが聞いた。レイゼルは、少し気後れしたように答える。

「ええ、あの……隊長さんおひとりだけですけど。……具合が悪くおなりなのは、グザヴィエ様ですか?」

「そうだ」

 彼は目を逸らし、頭を背もたれにもたせかけたまま、ため息を漏らす。

「もしかして、そうして座っておいでなのも、辛いのでは」

 レイゼルが言った言葉は、シェントロッドも思っていたことだった。グザヴィエは、頭を少し傾いだ状態のまま動かさず、口だけ動かしてしゃべっている。

「まっすぐ、立つことができないのです」

 抑えた声で、隣のニネットが言う。

「壁につかまりながらでないと歩けません」 

「リーファン族の医者や薬湯屋は、私の身体が界脈と離れてしまっている、という。いや、私が界脈を読みとれなくなっている、だったかな。情けないことだ」

 悔しさと、自嘲と、少し諦めの混じった声を漏らすグザヴィエを、レイゼルは眉根を寄せて見つめてから言った。

「やってみます。数日の間、私に診させて下さい」

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― 新着の感想 ―
[一言] 毎回、お話を読んで癒されています。ありがとうございます。
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