第五十六話 春とともに訪れたもの
季節は少しずつ、春へと向かっていた。
「あっ。ペルップ、見て!」
森の中、もこもこに着込んだレイゼルは、少し開けた場所を指さした。
うっすら積もった雪の間から、春の訪れを告げるウィエロの花の黄色いつぼみが覗いていたのだ。このつぼみは、食べることができる。
「おー、春の味覚! 冬がようやく終わるな!」
ペルップは髭をぴこぴこ動かした。レイゼルはうなずく。
「私の体調も戻ったし、そろそろ、アザネ村に帰る支度をしなくちゃ」
「もっといてもいいんだぞー?」
「ありがとう! でも、村の人たちが薬湯を待ってるもの」
温泉と薬湯のおかげで、レイゼルの具合は以前と同じくらい良くなっていた。
虚弱体質な彼女が以前と同じであることを「良い」と言っていいのか疑問だが、とにかく朝ちゃんと起きることができるし、こうして薬草採取に森に出かけることもできる。
「ジオレンの皮とか、こっちで採れる薬種を、持てるだけ持って帰れよな」
「嬉しい、ありがとう! あ、見つけた」
レイゼルは手にした杖で、木の根本をつついて声を上げる。
「リョウブだわ」
杖は仕込み杖になっていて、先の部分を外すと大きな針になっている。針でつついたときの感触で、そこにキノコの一種であるリョウブがあるかどうかわかるのだ。地表に出てこないリョウブを探すための知恵である。
このあたりは低いとはいえ山の中なので、よたよたしているレイゼルには、杖としても使える道具はとても助かるのだった。
土の塊のようなリョウブを掘り起こして籠に入れると、レイゼルは立ち上がりながら言った。
「でも、レッシュレンキッピョン村は本当にいいところだったから、離れがたいよ」
「いや、もう帰ってこい」
いきなり低い声がして、レイゼルは「えっ!?」と飛び上がった。
振り向くと、立っていたのはもちろん、長い緑の髪にとがった耳の長身軍服男。
界脈士シェントロッド・ソロンである。
彼は、ややうんざりした声で言った。
「ヨモックもジニーもナックスもシスター・サラも、レイゼルはまだか、いつ戻るのかといいかげんうるさい。あと数日もすれば、南側の尾根道は雪が溶けて馬車で通れるようになる。ルドリックが十日後に迎えに来るから、荷物をまとめておけ。それを言いに来た」
「あっ、はいっ! 十日後ですね!」
「そうか十日後かー! ピリナが泣くな」
ペルップはぐひぐひと笑った。
現在、両親の許しを得てペルップの助手をしているピリナは、レイゼルとすっかり仲良くなっているのだ。
レイゼルはちょっとうつむく。
「私も、泣いちゃうかも」
「今生の別れではないだろう。とにかく、十日後だからな」
念を押したシェントロッドは、レイゼルの背負い籠をひょいと奪って肩にかけた。ペルップの店まで運んでくれるつもりらしい。
先に立って歩き出すシェントロッドに続きながら、レイゼルはペルップにささやく。
「ピリナに引き留められたら、ペルップ、説得を手伝ってね」
「わかってる。当日はリーファンの隊長さんも来るのかな?」
「さぁ……」
「来ない方がいいと思うぞー」
ペルップはまた、ぐひっと笑う。
この冬、時々様子を見に来ていたシェントロッドにピリナも会っているのだが、彼女にはどうにもシェントロッドがレイゼルに「偉そうに」接しているように見えるらしい。それで、シェントロッドに、というかリーファン族に、あまりいい印象を持っていない。
彼が迎えになど来ようものなら、ピリナがよけいに引き留めそうだと、ペルップは言っているのである。
リュリュとはまた別の事情で、レイゼルの友人に反感をかっているシェントロッドであった。
それから数日の間に、レイゼルは荷物をまとめたり、仲良くなったトラビ族の村人たちに挨拶をしたり、ペルップと冬の間に共同研究した薬湯の資料をまとめたりして過ごした。もちろん、温泉も今のうちに堪能する。
そうして、七日が経った。
レイゼルは一日に二回、露天風呂に入るのが習慣になっている。
その日も、朝風呂に入ってほかほかになって出てきた。
「ふー、いいお湯でした! ペルップ、プルパの葉のお湯、温まってすごくいい……」
「店主」
「ひゃっ!?」
土間でシェントロッドが待ち構えていたので、レイゼルは驚いた。ペルップと立ち話をしていたようだ。
かまどの前にはピリナがいて、何やら鍋をかき混ぜながら、横目でシェントロッドをにらんでいる。
「隊長さん、どうしたんですか?」
「ああ」
彼は眉間にしわを寄せている。
「悪いが、少し、この村を出るのを早めてくれ。店主の助けがいる」
その言葉に、レイゼルはサッと緊張した。
「アザネ村で、何かあったんですか?」
「いや、違う。……リーファン族だ」
言いにくそうにしているシェントロッドに、レイゼルは「はい?」と首を傾げた。
彼はようやく、はっきりと言う。
「一緒に、ゴドゥワイトに来てほしい。ゴドゥワイトで、店主の力を借りたい事態が起こった」
「み、湖の城に……?」
『湖の城』ゴドゥワイト。齢五百のイズルディアが治める、リーファン族の大集落である。
このレッシュレンキッピョン村から近いと聞いたので、レイゼルも一応、だいたいの位置を地図で確認していた。山を回り込んだ向こう、西から東へ流れる川が流れ込む湖だ。
「イズルディア殿の客として、人間族が来ていたんだが、その人物の具合が悪いらしい。内々に治療したいそうだ」
彼の言葉に、レイゼルはひるむ。
「内々にっていうのは、誰かにバレるとまずい、ということですか? な、なんだか複雑そうですね……」
ピリナが口を挟む。
「どうして薬湯屋なんですか? 人間族のお医者様を呼んだらいいじゃないですかっ」
「おそらく、界脈流に問題がある」
シェントロッドが答えると、レイゼルは表情を引き締めてうなずいた。
「わかりました。行きます」
「レイゼル!」
ピリナが駆け寄ってくる。
「薬湯での治療は一日二日で終わらないわっ。ゴドゥワイトなんて、ここやアザネ村ともまた全然違うのに、そんなところで何日も過ごしたら具合が悪くなるかもしれないじゃない!」
「でもね、ピリナ」
レイゼルはピリナの手を握る。
「私、ゴドゥワイトのイズルディア様には、お世話になってるんだ」
貴重な薬種であるサキラを、シェントロッド経由で何度かレイゼルの店に回してくれた。その恩を、レイゼルは忘れていない。
以前シェントロッドに、「もし、私で何か領主様のお役に立てることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」とも伝えてあった。……十倍の恩返しができるかどうかは、ひとまず置いておいて。
「恩返しできる時が来たんだと思う。たまたま近くにいるのも、何かの縁かも。行くわ」
「…………」
ピリナはいったん、黙り込む。
「……じゃあレイゼル、もし具合が悪くなったら、ゴドゥワイトからアザネに戻らないで一度こっちに来て! また温泉で治すのよ!」
「わかった、具合が悪くなったらそうさせてもらうね」
レイゼルは約束した。
そして、シェントロッドを見る。
「すぐに出ますか? あ、でも三日後にはルドリックがここに」
「ルドリックには今、知らせてくる。荷物をまとめておけ」
シェントロッドは言って、扉から外へ出るなり姿を消した。
ペルップが耳を揺らす。
「必要な薬種は持って行け。レイゼル、頑張れよ!」
「ペルップ、本当にありがとう! あわただしくてごめんね」
つい目を潤ませてしまうレイゼルだった。
戻ってきたシェントロッドに、患者のだいたいの様子を聞き、必要そうな薬種をペルップの店の在庫から分けてもらう。
そして二人がペルップの店を出る時には、どこからどう伝わったのかトラビ族がぞろぞろと見送りに出ていた。
彼らは段々畑を上り、尾根道までついてきてくれる。
「この村、こんなにトラビ族がいたのか」
ぞろぞろ具合に、少し驚いているらしいシェントロッドである。
初めてルドリックとレッシュレンキッピョン村に来た時、馬車を止めたあたりに、真っ白な馬が二頭、鞍をつけた状態で待っていた。
「え、この馬って」
「ゴドゥワイトの民の、いわば友だ。湖の周辺で、群を作って暮らしている」
シェントロッドは淡々と説明する。
「ゴドゥワイトに行くのに、俺一人なら界脈を使えるが、今回はそうもいかないからな。説明して力を借りることにした」
「でもあの、私、一人で乗馬ってしたことがなくて、どうしたら」
「彼らがゴドゥワイトに連れて行ってくれる。黙って乗っていろ」
「うう、はい」
レイゼルは馬にそーっと近づいて、挨拶する。
「綺麗……。乗せてくれるの? よろしくお願いします」
輝く長いたてがみを持つ、すらりとした二頭の馬は、ブルルと鼻を鳴らした。
レイゼルを一頭の背に乗せ、その後ろに荷物を乗せてから、シェントロッドももう一頭に乗る。
ペルップとピリナを先頭に、トラビ族たちがわいわいと声を上げた。
「レイゼルの薬湯も助かったよ!」
「気をつけてな! 身体を大事にしろ!」
「また絶対来てね!」
「お世話になりました! 皆さんも元気でね! ペルップ、ピリナ、ありがとう!」
しっかり着込んだレイゼルは、ミトンをはめた手を振って、彼らにお別れをした。
尾根道はカーブしていて、馬が歩き出すと、すぐにトラビ族たちの姿は見えなくなってしまった。
馬はやがて、速足になる。
「わ、わっ。あのっ、ちょっと、これ私、やっぱり無理かも」
揺れるので、鞍の上で体が跳ねてしまい、レイゼルはあわてたが──
──すぐに、どこかふわふわっとした揺れ方に変わった。
「この馬たちも、界脈と共に生きている。リーファン族ほどではないが、彼らなりに風の界脈に乗ることができる」
隣を行くシェントロッドの解説に、レイゼルは感心した。
「そうなんですね! まるで、川を小舟で進んでいるみたい」
「お前に無理をさせるつもりはない。休憩は取る」
シェントロッドは言いながら、前方を見つめる。
本当は、レイゼルが眠っている時に界脈を通って彼女を運んでしまうのが早い。しかし、そのためには二人の界脈流を寄り添わせる必要がある。
レイゼルがレイであると知ってしまったことを、シェントロッドは彼女に知られたくなかった。だから彼は、そんな移動方法があることさえ、彼女には言えないでいた。
普通の馬が走る速さで、リーファンの友である馬たちはゆったりと足を動かしながら、滑るように進んでいった。




