第五十二話 薬湯(くすりゆ)をどうぞ
トラビ族の村の名前ですが、少し削ってレッシュレンキッピョン村にします。明らかにこっちの方が語呂がいい……(「フレッシュオレンジスキップぴょんぴょん」の略です)
「よし、準備できた」
髪を高い位置で結ったレイゼルは、腰かけていたベッドから立ち上がった。
彼女は今、ゆったりした前合わせの服を着ている。薬学校の制服姿に似ていて、脇を紐で結ぶ形だ。下にもゆったりしたズボンを履いている。
これは、レイゼルの湯着だった。
普段、アザネ村の村人たちが身体を綺麗にする時はどうしているかというと、夏なら大きな桶で行水する。しかし、冬は薪にも限りがあるため、湯には浸からない。寒いので寝間着を着たまま、石鹸水に漬けた布を絞って服の中に手を入れるようにして身体を拭き、仕上げにもう一度お湯で絞った布で拭く……というやり方である。
特に風邪を引きやすいレイゼルは、秋から春先まで、そんな風に身体を清めることが多かった。
そんな時、薬学校の制服は身体を拭きやすいと気づいた彼女は、柔らかい生地で同じ形の服を作ったのである。
縫い目がガタガタなのには、触れないでおく。彼女は頑張った。
レッシュレンキッピョン村に到着した日、レイゼルは長い移動の疲れと旧友に会った気持ちの高揚からか、夜に少し熱を出した。
翌朝には下がったので、しばらく様子を見て、夕方にいよいよ露天風呂へ。その際、ペルップの許しを得て、この格好で入浴することにしたのである。
(やっぱり、素っ裸で外の入浴はね……ちょっと抵抗が)
「あまり長く浸かるなよ、かえって疲れるぞー」
「わかった!」
ペルップに見送られ、レイゼルは風呂への扉を開けた。
木の階段を下りると、岩風呂の縁に出る。手桶で湯を汲んでみると、ちょうどいい温かさだ。
(そういえば、トラビ族は温度にこだわるのよね)
レイゼルは思い出す。さっき何か調節していたようだったし、薬学校時代も煎じる時の温度にまでこだわっていた。
湯着を着たまま、ざっと身体を清めると、レイゼルはおそるおそる湯に浸かった。
じわ、と、指先からしみ入るような感じで、身体が温まっていく。湯には、ペルップがピパの葉から煮出した薬湯が入っていて、いい香りがする。
顎まで浸かったレイゼルは、温まった手で自分の頬に触れた。冷たい頬も、じんわりと温まっていく。
ちなみに、今朝までいたルドリックは昨日の内に二度、この風呂に入った。
「たまらないなー。アザネにも温泉、湧かないかなー」
彼はそんなことを言いながら、取引先の村へと出発していった。雪解けの季節にまた、迎えに来てくれる予定だ。
目を閉じたレイゼルは、ゆっくりと深呼吸する。
「はー……」
目を開けると、西日に照らされた美しい紅葉が視界に入ってきた。
すぐ下の川を、しゃらしゃらと流れる水音。
色と音、香りと温かさ。
(すごいなー……。今、私を取り巻いてるもの全部が、私を癒してくれてる感じがする。界脈の一部になってるみたい)
岩の縁に頭を乗せて、レイゼルはその温かさに身を委ねた。
「大丈夫だったかー?」
家の中に戻ると、ペルップが作業台で薬草を分類しながら髭をぴこぴこさせた。
ほかほかになったレイゼルは、うっとりとうなずく。
「すっごく気持ちよかった……すごいね、温泉」
「いいだろー? あ、ほら、水分とれ」
彼は冷ました薬草茶を木のカップに入れてくれ、レイゼルはありがたくもらう。
「そうだ、ペルップ。実はね、隊長さんが様子を見に来ることになってるの」
お茶を飲みながらレイゼルが言うと、ペルップは目を丸くした。
「あの、リーファン族の警備隊長? なんで?」
「村の人たちが、私のことをすごく心配してくれてるの。それで、界脈士は界脈を通って移動できるでしょ? 隊長さんが私の様子を確認すれば、村の人たちが安心するだろうって」
「ふーん。そんなことまでねぇ」
彼はちょっと面白そうに、長く垂れた耳を揺らした。
「あ、お前がレイだってことは、まだバレてないのか?」
「うん」
「わかった。来るのは全然構わないぞ。何なら泊めるしな。リーファン族には狭い家だけど」
「泊まらないとは思うけどね」
「ソロン隊長の前ではオレ、レイのことちゃんとレイゼルって呼んだ方がいいな」
「ごめん、気を使わせて」
「オレはいいけど、レイ──レイゼルはどうなんだよぉ」
ペルップは髭を動かし、ズバズバと言った。
「秘密や心配事を抱えてて、それに加えて、オレが気を使ってるんじゃないかって事まで心配してたら、身体によくないに決まってるぞ。特にレイゼルみたいなやつはさ」
「あ、うん……そうだね」
(私、変だな。本当のことを話すより、今のままの方がいいような気もして。どうしよう)
揺れ動くレイゼルだった。
最初の数日は、やはり環境が大きく変わったり初めての湯治に慣れなかったりで、レイゼルの体調も良くなったり悪くなったり。
しかし、ペルップの協力で体調に合わせて薬湯の配合を変えていくことができたので、一週間目にはだいぶ落ち着いた。
全く動かないのもよくないだろうと、暖かい昼間に散歩に出てみる。
すると、村の子どもたちがわらわらとレイゼルに寄ってきた。
「レイゼルは、ペルップ先生のお友達なんだよね?」
「人間族は何を食べるの? ジオレン食べる?」
「オレたちと一緒に温泉、入る?」
村から出たことのないトラビ族の子どもたちは、彼女に興味津々だ。
「そう、ペルップ先生のお友達だよ。みんなと同じで、野菜や果物が大好きだよ。温泉、すごくいいね!」
そう答えると、子どもたちは喜んだ。
誘われるまま、レイゼルは村の公衆足湯に行き、足だけ浸けて彼らにつきあう。
子どもたちが岩に囲まれた湯の中をじゃぶじゃぶと泳ぐ様子はとても楽しそうで、自然と笑顔になった。
彼らの毛は太く、ごわごわしていて、湯から上がって身体をぶるぶるとふるわせるだけで水が切れる。
(便利だなぁ)
ちょっと羨ましいレイゼルである。
ふと、視界を何か白いものが横切った。
「ん?」
見上げると、いつの間にか空は曇り、白くふわふわしたものが落ちてきていた。
「雪……!」
足湯のおかげか、ちっとも寒くないので気づかなかった。
「雪だねー」
「雪だー」
いつの間にか、湯につけているレイゼルの足の近くに子どもたちがぎゅうぎゅうと寄り集まり、耳と目と鼻だけを湯から出して、目を細めてじっとしていた。
ごわごわした毛の頭に、雪がうっすらと積もっていく。
「おうちに帰らなくていいの?」
聞いてみると、一人が口を湯から出して言う。
「うん。みんな、ここに来るから」
「……? ……あ」
気がつくと、村の大人たちが次々と温泉に入ってきていた。
(そっか、皆、冬はこうして暖をとるんだ。気持ちよさそう)
岩風呂に収まってぬくぬくほかほかしているトラビ族たちを、レイゼルは笑顔で眺める。
しかし、当たり前だが、トラビ族だらけだ。
(アザネ村の皆、元気にしてるかしら)
村人たちの顔を思い浮かべたレイゼルは、ふとつぶやいた。
「……隊長さん、いつ私の様子を見に来てくれるかな。……っと、いけない。積もる前に私は帰らないと」
足を上げ、持っていた手布で拭いて、靴下と靴を履く。
立ち上がろうとしたとき、目の前に大きな手が、スッ、と差し出された。
トラビ族の手ではない。
「えっ」
顔を上げると──
肩から落ちる緑の髪、屈み込んでこちらを覗く緑の瞳、長いコートの軍服にブーツ。大きな手。
シェントロッド・ソロンだった。
「隊長さん……!」
「様子を見に来た。店主がここにいるのはすぐにわかった」
淡々と言いながら、シェントロッドは軽く手を突き出すようにした。
(あ、そうか、足を浸けてたから水脈で?)
合点が行ったレイゼルは、反射的にその手を取って立ち上がったが、あわてて手をパッと離す。
「あ、ありがとうございますっ」
ふと気づくと、湯の中のトラビ族がみんなこっちを向いて、目を丸くしていた。
シェントロッドはさらりと名乗る。
「ロンフィルダ領警備隊のシェントロッド・ソロンだ。邪魔するぞ。……行こう。トラビ族の薬湯屋に滞在しているんだったな」
「あっ、はい!」
二人は、川沿いを上流に向かって歩き出した。
シェントロッドは軍服の肩に留めていたケープを外すと、レイゼルの頭に被せながら言う。
「具合はどうだ」
「はい、波はある感じですけれど、だいぶいいです!」
「そうか」
ちらちらと降ってくる雪は、シェントロッドのケープのおかげで、レイゼルの頭や肩に触れることはない。
(何だか、嬉しい)
彼の気遣いに、ほっこりするレイゼルだった。




