第四十九話 ディンフォラス査察団の一ヶ月
46話でレイゼルがシェントロッドに渡したお守りですが、枝を輪にしたもの→枝を輪にして赤い実を通したもの に変更しました。ご了承ください。ちょっといい感じの元植物を毒草の図鑑で見つけたので……
大気に、ごうごうと轟く水音が満ちている。それは少しも途切れることがなかった。
赤っぽく濁った水が、まるで何百匹もの生き物のように暴れうねりながら、眼前を流れている。
シェントロッドを含む数人のリーファン族は、大河レド川の岸のあちらこちらに立っている。『ディンフォラス査察団』の構成員たちで、ナファイ王軍の黒の軍服姿である。
そして、その中にちらほらと、灰色の軍服のリーファン族が混じっていた。ディンフォラス王軍のリーファン族だ。
レド川南岸、日差しの強い国に生きる彼らは、肌が浅黒く、髪は深緑色をしている。界脈に同調して暮らすナファイのリーファン族と異なり、彼らは自然を開発して地形を変え、界脈をある程度操作することで発展してきた種族だ。
レド川の戦いの際は、北岸のリーファン族にまで影響するようなことはしないという約定を結んだが、時が流れ、事情が変われば、どうなるかはわからない。それを数年おきに見張るための、シェントロッドたち査察団だった。
対岸の町が、遠くにかろうじて見えている。その向こうは、薄曇りの空を背景に、灰色の山脈が霞んでいた。
「…………」
右手を左肩にやり、シェントロッドは軽く首を回す。
若いリーファン族(80歳)が、彼の隣で腰に手を当ててため息をついた。
「しんどいですね。私はここまで乱れた界脈に触れる機会などなかったので、驚きました」
「そうだろうな。……ここは、何というか……しわ寄せの地なのかもしれない」
シェントロッドは、捩れる水を見つめる。
「各地の界脈の乱れが、流れ流れて寄せられ、ここで暴れているような印象を受ける。俺たちが普段暮らしている場所が穏やかな一方で、この地で歪みが開放される。世界には必要な乱れなのかもしれない」
「まるで、どこかの神話に出てくる世界の果てみたいですね。よく、こんなのを支配しようなどと考えましたね、『南の』は」
「全くだな。……さて、そろそろ行くか」
査察の、中日であった。
この日、双方のリーファン族はそれぞれ代表を出して、手合わせを行うことになっていた。五十年前の戦いを忘れないためで、決着はつけない。格闘技で言えば、組み手のような感じだ。
もちろん、相応の技量は求められる。北岸のリーファン族にしてみれば、舐められる訳にはいかない。無様なところを見せれば、また好き勝手されるかもしれないからだ。
今回、査察団側の代表は、団長のシェントロッドだった。
(店主のおかげで、体調は整っているからな。後れをとる気がしない)
シェントロッドは、川岸の広くなった場所に進み出た。
「査察団団長、シェントロッド・ソロンだ」
ディンフォラス側からも一人、歩み出てくる。
「国境警備隊副隊長、リネグリン」
深緑の髪を高い位置で一本に結い、意志の強い眉をした、同年代の男だった。
「それでは、手合わせ願おう」
シェントロッドは無造作に言うと、ふっ、と界脈に潜り込んだ。
界脈に潜っている間は、リーファン族は光の玉のような姿をしている。戦うときは界脈を猛スピードで駆け抜けるので、ナイフのような鋭角な形になる。
キン、と硬質な音を立てて、二つの光はぶつかり合った。空を巡る星のように、ぐるりと界脈を大きく巡り、また近づく。二度、三度とぶつかり合う。
五十年前、レド川の戦いの時は、このような光が入り乱れてぶつかり合う戦闘になった。さらに、外から爆破などの手段で界脈を乱す攻撃なども行われた。以前、シェントロッドが界脈に沈んでいるところを雷が直撃した時のように、大怪我をしたリーファン族もいた。
今回の査察中、そしてこの手合わせ中に、表で見張りに立つ者を置いているのは、そういった外からの攻撃を警戒しているからである。
何度かぶつかり合い、手合わせは終盤にさしかかった。
(リネグリン、といったか。南岸のリーファン族が皆、この男のように強いのだとしたら、いつでも北岸と戦えるということだな)
シェントロッドは思ったが、一対一なら彼の敵ではないという手応えもあった。
手合わせが終わろうとした時──
いきなり、横から飛び込んできた光があった。
もう一人、潜んでいたのだ。分岐した界脈を通って突っ込んできた。
それを躱したシェントロッドは、とっさに身の内に持っていたジゼの輪──レイゼルの渡したお守り──に手をやっていた。
『身体に入れると毒なので』
レイゼルの言葉を思い出す。
(ふん。邪魔をするなら、おとなしくしていてもらおうか)
シェントロッドの光の刃で、枝に通された赤い実がひとつ、弾け飛んだ。実の持つ成分がパッと吹き出し、分岐の界脈の方へと流れ込む。
獣の唸りのような悲鳴が聞こえ、分岐の方の気配が消えた。界脈の外に弾き出されたのだ。
もうそちらに意識を向けることなく、シェントロッドはまっすぐに、リネグリンとの最後の手合いに向かっていった。
川岸に浮上してみると、南岸のリーファン族が一人、うずくまっていた。シェントロッドを見ると目を見開き、急いで身を起こして立ち去っていく。しかし、片足をずるずると引きずっていた。
(麻痺毒だったか。なかなか強烈なものを店主は持たせてくれたようだな)
特に同情することもなく、シェントロッドは彼に続いて浮上したリネグリンと向き合った。
「今の男は、そちらの指示で動いたのか」
「いや、違う。……しかし、同胞であるのは確かだ」
「五十年前の約定を違える意志あり、とみていいか」
シェントロッドは緑の瞳で、真正面からリネグリンをまっすぐに見る。
リネグリンは、すぐに片膝をついた。
「あいつが勝手にやったことだ。我らにその意志はない。この通り、謝罪する」
口調に感情がこもっていないので、心の内はわからない。しかし、彼はこう付け加えた。
「北岸にソロン団長のような軍人たちが大勢いるのなら、姑息な真似をしてさえも無意味だと、自分は思う。失礼した。あのような者がまとわりついて、さぞうっとうしかったかと」
「謝罪を受けよう」
シェントロッドも、淡々と答えた。
「さっきの毒は、ジゼの実という。解毒方法があるならするといい」
「感謝する」
リネグリンは軽く頭を下げ、そして立ち上がると、姿を消した。
査察中、起こった問題といえば、それくらいであった。
以降、特に問題が起こることもなく、北岸のリーファン族の査察団は予定通り一ヶ月の査察を終えた。
地形や界脈は変わっていればすぐに気づくが、そういったこともなく、南岸のリーファン族が何か不穏な動きをしている様子も全くなかった。手合わせの件は、本当に個人的に逸った者が勝手に動いたのだろう。彼は相当厳しく罰せられたようである。
王都に戻ったディンフォラス査察団は、解団式の後、それぞれの日常に戻っていった。
しかし、シェントロッドは警備隊に戻る前に、ナファイ王軍の大隊長であるオルリオン・アグルに会った。たった一言、こう伝えるためである。
「界脈調査部の部長は、引き続きベルラエルに任せるように」
──寿命の長いリーファン族は、年齢の差はよほど離れていない限りあまり気にしない。軍にも役職はあるが、階級は特にない。上下の差をつけるとすれば、それは経験の差である。
オルリオン・アグルは、アグル家の者として様々な場面で積極的に動き、発言力を強めてきた。しかし、彼は『レド川の戦い』に加わっていない。今回、『レド川』経験者のシェントロッド・ソロンがディンフォラス査察団を率いたことで、シェントロッドは経験の差でオルリオンを大きく引き離したことになるのだ。
そんなシェントロッドが、かつて在籍した界脈調査部の部長をベルラエルに……と言えば、オルリオンもその意見を尊重しないわけにはいかない。
見ておきたかったディンフォラスの現在を確認しに行く機会にもでき、まさにシェントロッドの狙い通り、事は運んだわけである。
(やれやれ。これでやっと落ち着いた)
仕事から頭を切り替えたとたん、頭の中にニコニコと笑う薬湯屋店主の顔が浮かぶ。
同時に、空腹感を覚えた。
(帰ろう)
シェントロッドはこうして、一ヶ月の出張を終え、ロンフィルダ領に帰還したのだった。




