第四十七話 流行り病 前編
シェントロッドが出発してから、一週間が経った。
レイゼルは、冬支度や仕事に忙しい日々を送っている。けれど、ふと手が空いて窓の外を眺めた時や、ベッドに入って眠りに落ちる前の一瞬などに、何かがぽっかり抜けているような感覚が訪れる。抜けているのに、軽さはなく、胸のあたりが重いのだ。
(あ、そうか。季節の変わり目だし、体調を崩す前兆かも? 気をつけなくちゃ)
何かと体調のせいにしがちなレイゼルである。
薬湯屋にやってくる村人たちは、来るたびに、
「ソロン隊長がいないと寂しいねぇ」
「レイゼル、大丈夫?」
などと聞いてくる。
「え、私、何か変ですか!?」
両手を頬に当てながらレイゼルが聞くと、村人たちはちょっとあわてた風に、
「いや、そんなことはないんだけどね」
「常連さんがぷっつり来なくなると寂しいものじゃないか」
と返事をするのだが、どこか心配そうに彼女を観察しているのだった。
さて、秋らしく乾燥した空気の、ある日のことである。
珍しく朝から客が誰も訪れず、レイゼルは黙々とレース編みをしていた。相変わらず下手だが、レイゼルはへこたれない。鼻歌さえ歌っている。
「……ふー」
少し肩が凝ってきて、立ち上がって伸びをする。集中している状態から急に動いて、クラクラするのもいつものことで、しばらくそのままじっとしながら、視線だけ動かした。窓の外を見る。
「あれ、もうお昼?」
裏口から菜園に出てみると、太陽は高く昇っていた。
「変だなぁ、今日は昼までに、トマがおじさんとおばさんの薬湯を取りに来ると思ってたけど……あとナックスさんも来るって言ってたのに」
前警備隊長のナックスも、仕事を退いた後、妻とともにアザネ村で暮らしている。寒い時期は特に肩こりや腰痛に悩まされていて、そろそろ薬湯がかかせない時期だ。
その時、カタン、と小さな音がした。
「?」
店の中に戻ってみると、入り口の扉が細く開いている。
そして、隙間のかなり低い位置に、つぶらな青い瞳がのぞいていた。
「……アレット?」
レイゼルはその名前を呼んだ。
キイッ、と扉が開き、リツ色の髪に青い瞳の少女が姿を現した。
アレットは六歳、教会孤児院の子である。レイゼルがまだ孤児院にいたころ、赤ん坊のアレットは親を失ってやってきた。
「ど、どうしたの、一人? 誰か一緒じゃないの?」
レイゼルは驚いて駆け寄り、中腰で話しかける。孤児院の子が一人で外出することは禁じられていた。
「レイゼル……あのね……」
アレットは、目を涙で潤ませている。
「シスター・サラ、お熱が出ちゃった」
「あぁ、それは大変。ギーおじさんに、モーリアン先生を呼んでもらった?」
ギーおじさんというのは、掃除の仕事をしている老人である。午前中だけ孤児院にいて、掃除や買い物など雑用をこなして帰って行く。
すると、アレットはうつむいた。
「ギーおじさん、今日、来なかったの……」
「え、それは困ったわね。ええっと、じゃあシスターのお熱に効く薬湯を用意するから、座って待っていて」
レイゼルがベンチを勧めると、アレットはおとなしくちょこんと座った。
「よく、ここまで一人で来れたね?」
薬草棚を忙しく開け閉めしながら、レイゼルは聞いた。
アレットは珍しげに、天井の梁からぶら下がる薬草の束などを見ながら答える。
「モーリアン先生のおうち、わかんなくて……。でも、レイゼルのお店はよく見えるし、水車があるし」
畑の中にぽつんと立っている水車小屋は、遠くからでも見つけやすかったらしい。
「そっか。えーと、解熱の薬湯はこれでいいとして……アレットの薬湯はまだあるよね」
「うん」
アレットはうなずく。
この少女も、レイゼルほどではないが身体が弱く、季節の変わり目には呼吸がゼーゼーして眠れなくなることがあった。そこで、薬湯を飲んでいるのだ。
レイゼルはボードに『薬湯配達中』と書き、いったん外に出て入り口脇に立てかけた。そして、店内に戻って上着を着込む。
「よし、準備できたよ。行こうか」
薬湯を入れた籠を持ち、アレットと手を繋いで、レイゼルは孤児院に向かって出発した。
「それにしてもアレット、お兄さんやお姉さんたちはどうしたの?」
てくてくと歩きながら、レイゼルはアレットに尋ねる。
現在、アレットよりも年長の子が、孤児院には四人いるはずなのだ。そんな彼らが来ずに、六歳のアレットが薬湯屋に来たことが、レイゼルには不思議だった。
「あのね……」
アレットは困惑した表情だ。
「お熱の子の、お世話してる」
「へ?」
レイゼルは目を見開く。
「お熱の子? シスターだけじゃなくて?」
「うん」
「年長の四人、全員が、その子の世話……? んん?」
どういうことなのかわからないが、とにかく行ってみないことには始まらない。
レイゼルはできる限り早く、足を運んだ(しかしそれでもアレットと同じくらいのペースである)。
歩くうちにほんのり汗ばんできた額を、秋の風が涼やかに冷ましてくれる。
アザネ村は、大きく三つの区域に分かれていた。まず、村の北部を東西に大通りが横切り、その真ん中から南に向かって通りが延びている。大通り周辺は家々も多く、教会や警備隊隊舎など主要な施設がある。
通りを南に下っていくと、東側、森寄りにレイゼルの店はあり、周囲は畑が広がっている。
そして通りの西側、山寄りは、主に牧草地だ。牛が草を食んでいるのが見える。
レイゼルとアレットは、畑や牧草地に出ている村人と手を振り合って挨拶しつつ、通りを村の中心部に向かって北上していった。だんだん家が増え、店も現れ始める。
「……?」
レイゼルはふと、あたりを観察し、耳を澄ませた。
通りに、人が出ていない。この時間なら、揚げ物屋から香ばしい油の匂いがしているはずなのに、それもなかった。店の入り口の引き戸は閉まっている。
「アレット、ちょっといい?」
レイゼルは彼女の手を引いたまま、揚げ物屋の前まで行き、戸をトントンと叩いた。
「はいー……」
奥の方から、小さな、間延びした声が聞こえる。
「ノエラおばさん、レイゼルです」
「……レイゼル!?」
中でガタガタッという音がして、声が少し近くなった。
「だめだよ、こんなとこ来てちゃあ! 店にお帰り」
「どうしたんですか? お店、開いてなかったから」
「あたしも夫も風邪みたいで、熱が出ちゃってね。うつるといけないから!」
その声は少し、かすれている。
レイゼルは驚いて続けた。
「え、大変! モーリアン先生には?」
「後で行くよ。ああ、ジニーのところも熱が出たそうだから、寄っちゃだめだからね! レイゼルはうつらないように、自分の店にいな!」
揚げ物屋のノエラは、とにかくレイゼルに病気がうつることを心配しているらしい。
声はかすれているものの、話していることははっきりしていたので、レイゼルはひとまず返事をした。
「これからモーリアン先生のところに行くから、ノエラおばさんとジニーおばさんのこと伝えますね。お大事にしてください!」
「ありがとうねぇ。でも、先生のところに行ったらレイゼルはすぐに帰るんだよ!」
ノエラはひたすら、心配していた。




