第四十三話 ベルラエルが来た
ある日、アザネ村の警備隊隊舎の玄関で立ち番をしていた隊員は、ふと目を細めた。
夏でもないのに、目の前の空間がゆらりと揺らいだように見え──
──一瞬の後、そこに緑の髪の人物が立っていたのだ。
(ソロン隊長? いや、違う、隊長は今、隊長室に……それじゃあ)
近づいてきたその人物は、女性だった。凹凸のくっきりした身体を、警備隊のものとは異なる軍服に包んでいる。縦に巻かれた美しい髪を、左手でさらりと背中に流し、彼女は隊員の前で立ち止まった。
「ここは、警備隊の隊舎で間違いないかしら」
「は、はい! ご用件は!」
「シェントロッド・ソロンに面会したいの」
彼女は妖艶に微笑んだ。
「リーファン王軍、界脈調査部から、ベルラエルが来た……と伝えてちょうだい」
隊長室に案内されてきたベルラエルを、シェントロッドは立ち上がりつつもいぶかしげな表情で迎えた。
「ベルラエル。こんなところまで珍しいな」
「まぁね」
普段なら常に微笑みを浮かべているベルラエルだが、今日はどこかツンとした表情だ。
「フィーロの本部にいるのかと思って、一度はそっちに行っちゃったわ。あなたが今日はこっちにいると教えられて。……なんだか狭苦しいわね、天井がもうちょっと高くてもいいのに」
ベルラエルは隊長室を見回してそう言うと、やがて執務机の前にあるソファに腰かけた。
「あなたに用事があって来たのよ。座って」
「…………」
シェントロッドは執務机を回り込むと、ローテーブルを挟んで彼女の正面に座る。
「ずいぶんと不機嫌だな。どうした」
そういいながらも、彼は内心、密かに心配していた。
もちろん、レイゼルのことである。
もしもベルラエルがレイゼルに会って、いつもの調子で握手し界脈を勝手に読んでしまったら、彼女が『レイ』だとバレてしまうだろう。ベルラエルはレイを気に入っていて、レイの都合などお構いなしに自分のそばに置きたがっていたから、レイゼルがレイだとわかればまた強引な申し出をするかもしれない。
「どうもこうもないわよ」
ベルラエルは腕組みをした。
「とりあえず、用件から言うわ。シェントロッド、界脈調査部に戻って」
「は?」
彼は眉をしかめた。
「何の話だ」
「大隊長が変わったの。オルリオン・アグルよ」
投げやりに言ったベルラエルの言葉で、シェントロッドはある程度、事態を把握した。
「アグル家か」
「ええ、そう。あの口うるさい家ね」
リーファン族は、リーファン族同士が正式に名乗るのであれば、出身地+個人名+家名という形で名乗る。が、普段は個人名で事足りるので、そうしている。
あえて家名を名乗る人物がいれば、それは特別な家柄の者だった。リーファン族の始祖から生まれた三人の子が興した『アグル家』『ノール家』、そして『ソロン家』である。この三つの家は、人間族でいう王侯貴族に当たる。
中でもアグル家は結束が固く、家名を誇りにしていて、リーファン族は三つの家が導いていくものだと強く考えていた。そのため、軍の要職には三つの家出身の者が就くべきだと、普段から主張している。
そんな家の人物が、界脈調査部が属する大隊の長になったわけだ。ちなみに、そのオルリオン・アグルという男は、年齢で言えばシェントロッドとそう変わらない。
「私ではなくて、シェントロッド・ソロンが部長になるべき、ですってよ。しかも、私自身にシェントロッドを説得に行けって。何なのかしら、この仕打ち」
ベルラエルは相当、腹に据えかねているようだ。
「とにかく、そういうことよ。戻って」
「おい……。俺は隊長になったばかりだ」
「そんなの、また代わりを探せばいいじゃない。身体も治ったんでしょ? ……ああ、そういえば」
ふと、ベルラエルの表情が和らぐ。
「この村にはレイがいるんだったわよね。レイの薬湯で身体を治してたんでしょ? 私も彼の店に行ってみようかしら。このイライラを治める薬湯なんかもありそうだし」
「それなんだが、ベルラエル」
焦りを顔に出さないよう気をつけながら、シェントロッドは静かに言う。
「実は、レイはこの村にはいない」
「え、どういうこと? まさか、もう死んじゃった? 人間族な上に、身体が弱かったしね」
「違う」
シェントロッドは首を振る。
「文字通り、いなかったんだ。村の人々も、レイという少年など知らない、と答えた」
嘘は言っていない。
ベルラエルは、軽く目を見開いた。
「それって、つまり……レイが嘘をついてたってこと? あんなに故郷を褒めてたのに、アザネ村に住んでさえいなかった?」
「まぁ……そういうことになる」
「ふぅん……」
ベルラエルは、組んだ足の上に肘をかけ、頬杖をついた。しばらく何事か考えていたかと思うと、微笑む。
「ちょっと悔しいわね」
「何が」
「だって、嘘だなんて全然気づかなかったもの、私。あの子、平然と嘘をつけるような性格だった? そこさえ見抜けなかったなんてね」
微笑みが、すごみを増した。
「私たちを騙すなんて、やってくれるじゃない。もしどこかでレイに会ったら、問いつめてやろうかしら」
「俺たちが何か被害を被った訳でもないだろう。人間族が嘘をついていた事情など、放っておけ」
シェントロッドはさりげなく答えたものの、内心穏やかではない。
(これは少々、まずいな。ベルラエルとレイゼルが顔を合わせないようにしなくては)
しかし、そんな彼の心の内など知らず、ベルラエルは立ち上がった。
「まぁいいわ、私はいったん王都に帰る。界脈調査部に戻る件、検討してちょうだい。私は伝えましたからね」
「俺は部長などやる気はないんだが」
「色々言われるのは私なんだから、ちょっとは考えてよ。ああ、そうだ」
ベルラエルはやや皮肉げに微笑んだ。
「私が代わりに、警備隊の隊長、やってあげましょうか?」
冗談ではない、と、シェントロッドは思う。
人間族を対等に見ていない彼女が、人間族の領地など気にかけられるわけがない。
それに、レイゼルの住む村を、ベルラエルが警備することになどなったら……
「お前に向いているとは思えないが」
ただそれだけ、短く返事をすると、ベルラエルは片頬を膨らませた。
「あなたも相当、失礼よねー。ま、さっきのは冗談だけれど。明日にでもまた来るわ」
「待て、明日は俺はフィーロにいる」
「あ、そう。じゃあフィーロ本部に行きます」
ベルラエルはうなずき、執務机を無造作に回り込んだ。そして窓を開けると、忽然と姿を消した。気脈に乗ったのだ。
(全く。別に俺でなくとも、始祖の子の血脈はいるだろう。たまたま俺が最近まで調査部にいたからといって……。さて、この件、どうかわすかな)
シェントロッドはぶつぶつ考えながら、しばらく待った。
ベルラエルが戻ってこない、と確信してから、立ち上がって隊長室を出る。隊員をひとり捕まえて、こう言った。
「フィーロに行って、すぐに戻る」
そして、足早に隊舎を出ると、すぐそこの川から水脈に乗った。気脈に乗らないのは、単に好みである。
行き先はフィーロ……ではない。フィーロだということにしただけだ。
実際には、薬湯屋である。薬湯を煎じる間の世間話に、王都からかつての同僚が来て……とかなんとか言っておけば、あとは彼女の方で警戒するだろうと思ったのだ。
ところが。
薬湯屋に到着してみると、店の前には処方録用の木の板が立てかけられ、メモが留められていた。
『採集に出かけてきます』
「あいつは……」
シェントロッドは前髪をかき上げて、ため息をつく。
しかし、まさか森の中を探し回ってレイゼルを見つけだし、さりげなく世間話、というわけにもいかない。全くさりげなくないからである。
「……まあ、明日フィーロで会うと約束したのだから、もうアザネには来ないと思うが……」
しかし、ベルラエルがどんな気まぐれを起こすかは、誰にもわからない。レイゼルにはもちろん、伝えておいた方がいいに決まっている。
「夕方、また来るか」
薬湯屋に背を向けながらも、かつてないほど、みぞおちのあたりがヒヤリとするのを感じるシェントロッドだった。




