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第四十話 レイゼル=レイ 後編

 その時、シェントロッドはちょうど、アザネからフィーロに移動中だった。つまり、水脈を通り抜けている真っ最中だったのである。


 すぐそばで水の泡が弾けるような感覚とともに、レイゼルの声が届いた。

『……隊長、さん』


(レイゼル?)

 すいっ、と即座に向きを変えたシェントロッドは、水脈を猛スピードで奔り抜ける。 


 数秒の後、彼はアザネ村の東の森に出現していた。

 斜面に木々の濃い影が落ちており、そこから水が湧き出している。水を跳ねかしながら立ち上がったとたん、レイゼルがすぐ足下の草の上にうつ伏せに倒れているのが目に入った。彼女の片手は、細く流れるその水に浸かっている。

「レイゼル!」

 彼はレイゼルのそばに膝をついて静かに、しかし急いで身体を仰向けにした。

(何だこれは……顔や手に、奇妙な赤みがある)


「……う」

 薄く、レイゼルが目を開いた。

「レイゼル」

 呼びかけると、視線が合う。

 彼女の唇が、動いた。

「……ラルヒカの……トゲ……」

 そのまま、彼女は目を閉じてしまった。


「レイゼル。おい、店主! ……チッ」

 シェントロッドは舌打ちすると、チラッ、と彼女と湧き水を見比べた。そして、そっと彼女の肩を抱き起こし、もう一度だけ呼びかける。

「レイゼル」

 レイゼルの頭は、ごつん、と力なく彼の胸にぶつかった。完全に意識を失っているようだ。呼吸が浅い。

「そのまま眠っていろ。医者のところへ連れて行くからな」

 シェントロッドはレイゼルを抱き上げ、しっかりと胸に引き寄せた。


 暗い場所を、猛スピードで振り回されるような感覚と、ふわふわと浮いて上下がわからないような感覚が、交互に訪れた。

 しかし、やがてそれも収まり、レイゼルは柔らかな闇にくるまれて微睡む。

(身体が、自分のものじゃないみたい……私、どこにいるの……?)

 力を込めると、ぴくり、と指先が動いた。


 目を開くと、カーテン越しの陽光がぼんやりと部屋の様子を浮かび上がらせている。

 レイゼルは、ベッドの中にいた。

「レイゼル!」

 彼女をのぞき込んでいるのは、医師のモーリアンだ。すぐ横から、ミロも顔を出す。

 レイゼルは、声を出すことこそできなかったが、目を細めて微笑みを作ってみせた。

「ああ、よかった!」

 安堵するミロ。そしてモーリアンが禿頭を片手で撫でながら、大きく息をつく。

「ここは診療所だよ、間一髪だったね。覚えているかい? 森の中で倒れているところを、ソロン隊長が助けてくれたんだ。レイゼルがかろうじて、ラルヒカの毒だと隊長に告げたから、すぐに処置できた」


「ラルヒカって、トゲトゲのツタみたいなやつだろ。オレ、小さい頃にフィーロの近くで一度見たことある」

 ミロが言う。彼は孤児院に来る前、フィーロ近郊に住んでいた。

「トゲが刺さると腫れて痛いって聞いたことがあるけど……。こんな、死にそうになるほど強い毒じゃないよな?」

「……わたし」

 ささやくような声を、レイゼルが押し出す。モーリアンとミロが耳を近づけると、彼女は続けた。

「子どもの、ころに、一度……」

「やはりそうか。刺さったことがあるんだね」

 モーリアンがうなずく。

「ラルヒカは、一度刺さると身体がそれを覚えていて、二度目の方が強く影響が出る。危なかったね、レイゼル」

「森で……見たこと、なくて……」

「そうだな、私も東の森には生えていないと思っていた。村長から村の皆に伝えてもらおう」

 レイゼルは小さくうなずく。


 ミロはほっとしたように、

「俺は連絡係なんだ。村の皆に、レイゼルはもう心配ないって伝えてくるよ!」

 と言って、飛び出して行った。


 レイゼルはミロを見送ってから、視線だけを動かしてあたりを見回した。モーリアンが察して言う。

「ソロン隊長なら、背負いカゴを取りに森に戻った。レイゼルが集めていたチーダの殻が、今のレイゼルの症状に効くと言ったら、行ってくると」

「……じんま、しん」

「そう。まだ赤みが強いからな。さぁ、話すのも辛いだろう、休みなさい」

 レイゼルはボーッとしながらうなずく。


(隊長さん、私を運んでくれたんだ。界脈流……は、きっと読む暇なんてなかった、よね。こんな状況だし。森からここまで運ぶのなんて、遠くて大変だっただろうな……)

 お礼を言わないと……と思いながらも、レイゼルはまたウトウトと眠りの世界に落ちていった。



 シェントロッドは、湧き水から出現すると視線を巡らせた。レイゼルを発見したそのあたりには、背負いカゴは見あたらない。

 彼は、彼女が足を引きずるようにして歩いた跡をたどりながら、黙って考え始めた。

(……どういうことなんだ)


 今朝、薬湯屋を訪ねた時にレイゼルが、ゴドゥワイトの薬屋に興味があるようなことを言った。

 そこで、シェントロッドが「行きたいなら連れて行く」と答えると、彼女は迷惑になるからと辞退したのだが……

(あの時は、詳しいことを話さないままだったが……俺のような界脈士と一緒なら、簡単な移動方法がなくもない)


 実は、界脈士は界脈を通り抜けて移動する際、一人だけなら『同行』できるのである。ただし、それには条件があった。

 通るのは、表出している界脈であること。

 そして、同行者が完全に、意識を失っていることだ。

(つまり、モノとして運ぶことなら、できる。しかし、例えば眠っている者を同行すると、途中で起きれば界脈から弾き出されてしまうので危険だ。今回、レイゼルは毒で意識を失っていたし、急がなくては命を落とす局面だと思ったから『同行』した)

 そのために、シェントロッドはレイゼルを抱き上げると、自分の界脈流にレイゼルの界脈流を寄り添わせた。


 つまり──

 ──レイゼルの界脈流を、読んだのだ。


「はぁ……」

 シェントロッドはため息をつく。


 すぐに、気づいた。それが、知っている流れであることに。

 疑いようもない。レイゼルの界脈流は、『レイ』のものだった。

 レイゼルは、王都でシェントロッドの下で働いていた、レイだったのだ。


「なぜだ。レイ」

 シェントロッドはつぶやく。

 レイゼルを『同行』して界脈流を通り抜け、モーリアン医師のところに送り届けたものの、彼は混乱していた。だから、レイゼルに解毒薬が使われ、命が助かったと確認してすぐ、診療所を出たのだ。


 そう、彼はかなり混乱していた。

(なぜ、俺に黙っていたのだろう……?)

 かつて共に仕事をしたシェントロッドに、レイゼルは自分がレイであることを隠していたことになる。


 もしも、レイゼルと再会してすぐにシェントロッドがそのことに気づいたなら、彼は王都時代のようにレイを詰問していただろう。

 しかし、今の彼にとってレイゼルは、いなくてはならない重要な存在になっていた。その上、彼女の過去も、もう知っている。

(いきなり問い詰めるような真似はできない。何か、深い理由があるのでは?)


 ……実際のところ、レイゼルは村の人々に恩返しをしたくて王都で薬について学ぼうとし、王都は危ないと反対されたので、男装して身を守った──というのが全てである。それ以上でも以下でもない。

 しかし、150歳も近いリーファン族であるシェントロッド・ソロン、それなりの人生を歩んできた男は、思いきり、深読みした。


(薬学校に通うために王都に……いや、勉強はフィーロでもできる。あえて王都の学校を選んだのは、彼女の養母エデリの件があったからか? エデリは王都で裁判にかけられたのだから、それがらみで当時のことを知ろうとして……。いや、そういえば知り合いがいると言っていたな。もしやエデリのかつての客と何か……)

 転がっている背負いカゴが、視界に入った。無意識のうちに、シェントロッドはカゴを拾い上げる。

(そうか、レイゼルがエデリの娘であることを知っている者が王都にいたのかもしれない。身元を隠したくて、そいつに知られないように男装をした可能性もある)

 彼の想像は、さらに広がる。

(待てよ。エデリの顧客はリーファン族にもいたという。まさか、界脈調査部に来たのも何か裏が……? それで俺に隠しているのか?)


 今度は一人なので気脈を通り抜け、シェントロッドは診療所の前まで移動した。

 たまたま近くを通りかかった村人が、いきなり出現した彼にぎょっとして目を剥く。

「ソ、ソロン隊長、びっくりした。こんにちは」

「ああ」

「レイゼルを助けて下さったそうで! ありがとうございます、ソロン隊長が警備隊に来て本当によかった!」

「ああ」

 上の空で返事をしながら、彼はステンドグラスのはまった診療所の扉を開けた。

 ちょうど受付のところにモーリアンがいて、振り向く。

「ああ、ソロン隊長、チーダの殻ですね? 助かります、ありがとうございます」

「うむ」

 考えに沈みながら、彼はカゴをモーリアンに渡した。モーリアンは微笑む。

「これがあれば、一日、二日でレイゼルの赤みは引きますよ」

「そうか」

「レイゼルは今、眠っていますが、ソロン隊長のことを気にしていました。顔を見て行かれますか」

「ああ。……いや、今はやめておこう」

「そうですか?」

「後を頼む」

 ぼそっと言って、シェントロッドは踵を返した。

 その様子を、モーリアンは不思議そうに見送った。


 診療所を出たシェントロッドは、一つ、深呼吸した。

(とにかく、レイゼルは自分がレイだったことを俺に知られたくない、というのは確かだ。それなら、俺は知らないふりをするべきではないか? ……しかし、彼女が何か困っているなら助けたいが……)

 ぐるぐると、考えは巡る。

(彼女の隠し事にリーファン族が関わっているのなら、リーファン族の俺がどんなに助けようとしても、彼女の負担になるだけだ。下手に問い詰めて、苦しんだ彼女が倒れでもしたら)


 結論の出ないまま、シェントロッドは仕事に戻ったが、その日は一日上の空で部下たちに心配される始末だった。

(……一つ、確かなのは)

 彼は、胸に重苦しさを抱えながら、苦笑する。

(金物屋のジニーが思っているようにはいかない、ということだ。俺はレイゼルを特別に思っているが、レイゼルはそうではない。彼女は俺に、秘密という名の壁を作っているのだから)


 ──この後、彼はレイゼルに本当のことを聞けないまま、悶々とした日々を過ごすことになる。

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