第三十九話 レイゼル=レイ 前編
東の森にようやく、朝の光が入り始めた時刻。西の空はまだ群青色をしていて夜の気配を残し、夏ではありながらひんやりした空気が満ちていた。
シェントロッドは耳をピンと伸ばし、店の中で物音がするのを確認してから、扉をノックした。
「店主、いるか」
「はい!」
返事があったので、扉を開けて薬湯屋の中を覗き込む。
レイゼルは、日除けのボンネットを被って首の下で結んだところだった。彼女は目を丸くする。
「隊長さん! どうしたんですか、こんな朝早くに」
「届けるものがあったから、仕事前に寄ったんだが……出かけるのか」
戸口をくぐって店の中に入りながら、シェントロッドが聞く。レイゼルはうなずいた。
「はい。暑くならないうちに、森に採集に行って来ようと思って。チーダが羽化しているようなので」
「何だって?」
「チーダという虫です。夏に羽化するんですが、抜け殻が薬になるんです。今のうちに集めておこうと」
「……そんなものも薬になるのか」
「じんましんなんかに効きますね。もちろん、こういうのが苦手な人には勧めません。隊長さんはどうですか?」
リーファン族は食べるための殺生をしない種族だが、抜け殻は生死には関わりない。後は、苦手かそうでないか、である。
シェントロッドは、
「俺に必要な時がくれば、使って構わない」
とうなずいた。
そして、布包みを作業台に置く。
「ゴドゥワイトに行ったから、サキラを手に入れてきた」
「わぁ、ありがとうごさいます!」
レイゼルは嬉しそうに包みを開きながら言った。
「今回もたくさん。あ、ちょっと待ってくださいね」
レイゼルは奥の私室から財布を持ってきた。しかし、シェントロッドは首を振る。
「これは、ゴドゥワイトの領主イズルディアの好意でもらってきたものだから、代金はいらない」
すると今度は、レイゼルが首を振る。
「いいえ、こんなにあるのにタダというわけにはいきません」
シェントロッドも引かない。
「リーファン族の間では大して高価なものではないし、俺と領主も親戚のような関係なんだ。領主は俺からは金を受け取らない」
「そうですか……じゃあ、ありがたくいただきます」
レイゼルは折れたが、こう付け加えるのは忘れなかった。
「もし、私で何か領主様のお役に立てることがあれば、遠慮なく言ってくださいね」
彼女は改めて、ニコニコとサキラを見つめる。
「ゴドゥワイトの薬草店、きっと色々と充実してるんでしょうね。見てみたいなぁ」
シェントロッドは軽く眉を上げる。
「行きたいなら連れて行くが」
「へっ!?」
レイゼルはたちまちあわてだし、両手を振った。
「あっ、そういう意味で言ったわけじゃ! 人間族は立ち入れない場所ですよね!?」
すると、シェントロッドは「いや」と首を横に振った。
「立ち入りが禁じられているわけではない。湖の中央にあるから人間族には立ち入りにくいだろうし、人間族が一人でいきなり訪ねていけばいぶかしむ者もいるだろうが、俺がいれば問題ない」
「いいですいいです! もし私を連れて行ったらきっと聞かれますよ、そのひょろひょろしたのは何だ、って」
自嘲気味にレイゼルが言うと、シェントロッドは軽く首を傾げる。
「何だと言われても……聞かれれば普通に紹介するが? 人間族でありながらリーファンの薬湯を作れる薬湯屋だ、俺も世話になっていると」
「せ、世話だなんて」
レイゼルは口ごもった。
今の彼女は、王都での出来事に対する恩返しの気持ちを込めて、シェントロッドの薬湯を作っている。今さら『レイ』だと明かすこともできないのに、世話になっているなどと言われると後ろめたい。
しかも最近、フィーロでひったくりに遭った際にも助けてもらった。こうなってくると、それこそ個人的に三十年労働奉仕でもしないとこの恩は返せないのではないかと思うのだが、レイゼルは村の人々のために薬湯を作って生きていくと決めている。
正直、彼女はどうしたらいいのかわからないでいた。
「あの、本当に、ちょっと興味本位で言ってみただけですから。道中だけでもご迷惑おかけしますしね!」
ぱっ、とレイゼルは窓の外に目をやる。
「あ、日が昇っちゃう、もう森に行かないとお昼までに帰って来れないわ。隊長さん、そこの土瓶にシロトウコモのヒゲ茶が入っているので、ご自由にどうぞ。サキラありがとうございました! 行ってきます!」
採集用のカゴを背負い、レイゼルは軽く頭を下げると、店を出ていった。
シェントロッドは彼女を見送ると、素直に土瓶から木のカップに茶を注ぎながらつぶやいた。
「道中が迷惑と言っても、俺と一緒なら移動方法も変わってくるんだが……いや、やめておいた方がいいか」
ベンチに腰かけて一口飲み、天井の梁に下がった薬草の束を眺め、ギィギィ、パッシャパッシャという水車の音に耳を傾けながら台所の匂いをかぐ。
ベンチが低くて座りにくいことを除けば、薬湯屋はシェントロッドにとって落ち着く空間なのだ。
もちろん、レイゼルもいた方がいいのだが。
「……行くか」
さっさと茶を飲み干し、彼は仕事に戻っていった。
東の森の木陰に入ると、レイゼルは一息ついた。
「ふぅ、焦った」
(隊長さんとゴドゥワイトに、なんて……『湖の城』と言われているところよね。リーファンのお城になんて、とてもとても)
あまりにも恐れ多く、軽く身を震わせてから、レイゼルは気持ちを切り替える。
「さぁ、お仕事お仕事。チーダの群生地に出発!」
森の中を進み、小川を越え、時に休憩しながら、レイゼルは行く。
夏の森は、全ての色が光と影にくっきりと染め分けられていた。射し込む陽に鮮やかに浮かび上がる濃い緑、白い葉裏、澄んだ小川。木々の影に沈む藪の中には、赤や紫の実がひっそりとこちらを窺うように隠れている。
濃厚な生の香りを吸い込み、レイゼルは自分の小さな身体がいっぱいに満たされるのを感じた。
やがて、太い木の立ち並ぶあたりに出た。ふぅ、と汗を拭いた拍子に地面に視線が行き、レイゼルは足を止める。
「あ、このあたりだ……」
地面には、いくつも穴が開いていた。チーダが出てきた跡だ。
チーダは土の中で木の根から樹液を吸って大きくなり、やがて地上に出てきて木に登り、羽化する。
耳を澄ませると、シャン、シャン、と鈴を振るような音が遠くで聞こえた。チーダが飛ぶときの羽音だ。時々、木々の奥の方でキラッ、キラッと光るのは羽根だろう。
レイゼルは背負いカゴを下ろすと、あたりの木々を見て回った。
「あったぁ」
木の股で羽化するチーダの殻は白く丸く、羽化の際に真ん中が十字に割れるのが特徴だ。切り込みを入れて焼いたパンの形に似ている、とレイゼルは思う。ところどころ虹色に光っているのが美しい。
(もう少し高いところにもあるんだけど、木には登らないでおこう。隊長さんにも言われたし)
虚弱な上に、木から落ちて怪我までするわけにはいかない。
レイゼルはその代わり、手の届く高さにある抜け殻を求めて、広い範囲を探索していく。
──そのために、いつもは踏み込まないあたりまで、踏み込んでしまった。
「あった」
薄暗い木陰で背伸びをし、殻を手にしたのと同時に、首筋のあたりに何かがチクッと触れる感覚があった。
「え?」
反射的に首に触りながら、振り向く。
隣の木から、レイゼルのすぐそばにツタが垂れ下がっていた。赤っぽいツタで、緑のトゲがびっしりと生えている。
「あ」
瞬間的に、過去の記憶がよみがえった。
(ラルヒカ)
ラルヒカと呼ばれるツタは、アザネ村には生えていないはずだった。レイゼルがそのツタを知っていたのは、昔、養母のエデリがどこからか採取してきたからである。
幼いレイゼルは、そのツタに触れ──
(毒だ!)
パッ、とレイゼルはその場を離れた。
陽の当たる場所に出ると、足を止めることなく背負いカゴを拾い上げ、背負いながら急いで歩く。
(店に、解毒できるフッカの葉がある。早く帰らないと)
しかし気がつくと、長袖から覗く手の甲が赤くなってきている。息が苦しく、冷や汗が流れた。
(反応が早い。ダメ、これじゃ間に合わない)
薬や毒に関することであれば、レイゼルは冷静だ。すぐにそう判断すると、彼女は耳を澄ませた。
――水音。
そちらに向かって進む。少しずつ胸が締めつけられるような感覚が強くなり、やがて視界がぼやけてきた。
「……っはぁ、はぁ……」
くらっ、とめまいがして、膝をつく。しかし、水音はすぐそこだ。
『この小屋は、水車で川とつながってるから、隊長を呼べば聞こえるんだってさ』
ルドリックの言葉に続いて、シェントロッドの声が耳によみがえる。
『何かあったら呼ぶがいい』
レイゼルは朦朧としながらも、右手を伸ばした。
手が、冷たい水に触れる。湧き水だ。
「……隊長、さん」
レイゼルはかすれた声で呼びかけ、手を水に浸したまま、目を閉じた。




