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第三十一話 見つめ合えば

(いい匂いがする)

 ゆっくりと、まぶたの裏が明るくなっていく。

(この匂いは……そうだ、いつも薬湯屋に満ちている、あの匂い)


 シェントロッドは、目を開いた。


 天井の梁が目に入る。視線を巡らそうと顔を傾けた瞬間、彼は「うっ」とうめいて目を閉じた。

 頭がガンガンする。

(そうだ、落盤事故に遭った村人を外まで導いた後、どうにも気分が悪くなって……川に向かった記憶はあるんだが)

 もう一度、慎重に目を開くと、窓からの薄明かりが作業台やかまどを浮かび上がらせている。

(無意識に、薬湯屋にたどりついたのか)

 今度はゆっくりと頭を巡らせ、シェントロッドはハッと息をのんだ。


 作業台の横の薬草棚にもたれるようにして、レイゼルがうずくまっている。


「……店主」

 かすれた声しか出なかったが、シェントロッドは肘をついて上半身を起こした。

 めまいがしたが、どうにか動けそうだ。服の中がもぞもぞすることに気づき、反射的に手で探ると、布のようなものが脇と首に張り付いている。

(湿布……俺は熱を? 店主が俺の看病をしたのか)

 しかし、そもそもここの店主は虚弱体質で、むしろ本人が看病される事の多い人物である。そんな彼女が、まだ冷える春の夜を土間にうずくまって過ごしたことになる。


 裸足のまま土間に足を下ろし、ふらふらと彼女に近づいて膝をつく。

「おい。店主、大丈夫か」

 ゆっくりと、かすかに上下する肩。

 ──眠っている。


 見れば、レイゼルは外套にマフラー姿だった。どこか外に出かけた後、そのままの格好らしい。

(薄着でなくて命拾いしたな)

 ミトンが落ちているところを見ると、帰宅してから外套は脱がないままミトンだけ外して作業をしたのかもしれない。


「店主。寝台で寝ろ」

 シェントロッドは手を伸ばし、彼女の肩を片腕で引き寄せた。

「……ん」

 吐息と共に、声が漏れる。

 何の抵抗もなく、彼女は彼の胸にもたれてきた。自然と崩れた足の、膝裏にもう片方の手を入れ、シェントロッドは彼女を慎重に抱いて立ち上がる。

(相変わらず、すぐ死にそうなほど軽いな)

 寝室に連れて行き、寝台に横たえる。

 たまたま触れた彼女の手は、さすがに冷たい。

(それにしても、もうそろそろ鉱脈は行けるかと思ったんだがな。まだ無理だったか)


 シェントロッドはふと、レイゼルの細い手を握った。

(どこまで治っているか、試してみるか? こいつの界脈流を読みとることができるかどうか)


 目を閉じ、集中しようとした、その時。


 彼の耳が、外の物音をとらえた。

(馬の足音……警備隊か?)

 シェントロッドはレイゼルの手を離し、立ち上がった。

 彼女に上掛けをかけると、寝室を出る。馬のいななきが聞こえ、誰かの足音が近づいてくる。


 かたん、と扉が開き、覗いたのは、リュリュのそばかす顔だった。そしてすぐにその後ろから、アザネ村の警備隊員の若者。

「あっ、ソロン隊長」

「ああ……リュリュ、か」

 ベンチに腰かけたシェントロッドは、軽く片手を挙げた。

 リュリュはサッと店の中を見回す。

「レイゼルが隊長の看病をしてるって聞いて、あの子が倒れかねないと思って、一緒に馬に乗せてもらってきたんです。レイゼルは?」

「寝室だ」

 答えると、彼女は一目散に寝室に飛び込んでいく。


 若い隊員は、シェントロッドを見て笑顔になった。

「よかった、隊長、起きられるようになったんですね! 昨夜はひどい熱だったので、心配しました」

「そうだったのか」

「覚えてないですか? 隊長、一人で薬湯屋に来て、倒れてしまったそうですよ。レイゼルが夜中に知らせに来たんです。それで彼女とここに来てみたんですが、リーファンの薬湯を作って隊長に飲ませるから、明日迎えに来てくれと」

「…………」

 シェントロッドは視線を巡らせ、そして気がついた。

 作業台の上に、ボードが立てかけられている。

『夜ですが、薬草を取りに行っています』

 そしてその横に置かれたかごの中には、紫色のもじゃもじゃした根。


(サキラだ。……もしかして、一人であの場所へ行ったのか)

 彼は思わず、寝室の方を振り返る。

(前にあそこの話をしたとき、様子がおかしかった。彼女にとって忌まわしい記憶のある場所だったと知って、納得したものだが……そこへ、俺のために)

 抱き上げた時の、消え入りそうな軽さが、腕に残っている。


 寝室からは、リュリュの声が聞こえてくる。シェントロッドは長い耳をピンと張って澄ませた。

「目が覚めた? ああもう、やっぱりあんたも少し熱がある」

「……隊長さんは……?」

 レイゼルの小さな声が尋ね、リュリュが「大丈夫よ、起きあがってた」と答えると、ほっとしたような吐息が聞こえた。


「隊長、ここは狭いでしょう」

 隊員がシェントロッドに話しかけてくる。

「隊舎に戻られた方が……。薬湯は、後で俺がレイゼルに処方してもらって届けますから」

「ああ」

 シェントロッドは立ち上がった。

 ここは入院設備のある病院ではないし、レイゼルも休まなくてはならない。

「一応、馬も連れてきましたけど」

「川で大丈夫だと思う」

「そうですか、じゃあ先に隊舎にお戻りになって休んでください。本部とハリハ村には知らせを出してあります」

 シェントロッドはうなずいてから、一度、寝室に近づいた。

 開いたままの扉を軽くノックしながら、中をのぞき込む。


 リュリュが振り向き、そして寝台の中でレイゼルの黒髪の頭が動いた。


「店主」

 ゆっくりと近寄ると、灰色の瞳が彼を見上げる。

「隊長さん」

「昨夜は済まなかった。助けられたな」

 シェントロッドは礼を言い、彼女をじっと見つめた。


 レイゼルは、少しぼうっとしているようではあったが、まっすぐに見つめ返してくる。

 いつもは身長差もあり、またレイゼルがあまり彼とは目を合わせないようにしていたので、お互い、こんな風に見つめ合うのは初めてだった。

 シェントロッドは何となく、彼女との間の空気が変わったことを感じた。


「……また来る」

 シェントロッドが言うと、レイゼルは小さくうなずき──微笑んだ。



 シェントロッドが隊舎に帰って行った後、しばらくして、薬湯屋に村長ヨモックとルドリック、医師のモーリアンがやってきた。

「レイゼル、ソロン隊長の看病をしたんだって? 大変だったろう」

 ヨモックが心配そうに言えば、モーリアンは軽く胸を叩く。

「私も一度、ソロン隊長を診に行くから、後は任せなさい。注意点があれば教えてくれるか? ああ、薬草があるなら届けよう」

「はい、あの」

 起きあがっていたレイゼルは、リュリュを含む全員の顔を見回した。

「聞いて欲しいことがあるんです」 


「そ、それって、つまり」

 リュリュが絶句した。

 しかし、すぐ後をルドリックが身を乗り出して続ける。

「ソロン隊長がいたから、レイゼルはアザネに無事に戻ってこれた、ってことになるじゃないか!」

「うん」

 レイゼルは申し訳なさそうに身体を縮こめる。

「私が鈍くて気づかなかったせいで、隊長さんを悪者扱いしてしまっていたの。恩人だったのに」

「いや、その様子だと、向こうもレイゼルにわからないようにレイゼルを守ったようだから仕方ない。しかし、こうなると話は別だ」

 ヨモックは顎を撫でる。

「知っていたら、隠し事などしなかったのに」

「で、でも、三年間ずっと人間族の少年を気にしてたっていうのも、別の意味で心配だし」

 リュリュはもごもごと言ったが、レイゼルが彼女をじっと見つめると、ふいと視線を逸らして言った。

「……ごめん。素直に認めないとね。隊長さんは、レイゼルの味方だって」

「うん」

 レイゼルが微笑む。

「私、恩返し、しなくちゃ。せめて前みたいに、毎日薬湯を作ってあげられればと思ったんだけど……ねぇ、ルドリック」

「あ?」

 話を振られたルドリックが首を傾げると、レイゼルは聞いた。 

「隊長さんがどうして急に週に一度しかこなくなったか、もしかして、知ってるんじゃない?」

「えっ……な、なんで、俺?」

「だって、隊長さん、変なこと言ってた。隊長さんを呼んだら来てくれるって話、ルドリックが教えてくれたんだったよね? その話をしたら、『恋人』が納得した上でなら来るようなことを言われて……」

「それは」

 気まずそうにルドリックがちらりと動かした視線、その向かう先を、レイゼルは見逃さなかった。

「……リュリュ? あっ、リュリュも何か知ってるのね!?」 


「あーもうっ、わかったわよっ」

 リュリュは顔を真っ赤にして立ち上がった。

「あたしが隊長に嘘をついたのっ! レイゼルには恋人がいるって匂わせて、他の男にあまり入り浸られると困る、って風に! だってレイゼル、あの人に来てほしくなさそうだったから!」

「お、俺も、それに乗りました……済まん」

「リュリュ、ルドリック」

 レイゼルは泣き笑いのような顔になった。

「ごめん……それも私のせいだね」

「ううん、あたしが勝手にやったんだから。ちゃんと本当のこと言うわ。……お嫁に行くまでには」

 尻すぼみにぼそぼそと言うリュリュに、ヨモックが笑う。

「もうあと十日もないぞ、リュリュ」


「ねぇリュリュ、嘘をついた理由も言うの? 私が隊長さんを避けてたからだって」

 レイゼルは困り顔になった。

「そうしたら、『レイ』だったことも言わないといけないよね」

「それは言わなくていい!」

 ルドリックとリュリュの声が揃った。

「親父が書類操作しまくったこともバレるし、村人全員で口合わせしてたこともバレるし」

「そうよっ。いいじゃない、レイゼルはレイゼルなりにソロン隊長に恩返しするんでしょ? 人間族なりの感謝の仕方で十分!」

「う、うん」

 ためらいがちにうなずいたレイゼルは、後ろめたそうにではあったものの、笑った。

「とにかく、恩返し、頑張ることにする」



 そしてその日はひとまず、モーリアン医師が薬草を携えて警備隊隊舎を訪れ、シェントロッドにこう伝言したのだった。

「レイゼルが、いつでも薬湯を飲みに来てくれと言っていましたよ」

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