第二十六話 レイゼルの過去 前編
アザネ村にもとうとう、まとまった雪が降った。
「あああ、やっぱりー」
目が覚めて、窓から外を見たレイゼルは、それでも正直少しホッとしていた。
「去年よりは全然、マシな量だわ。わあ、まぶしい」
広い雪原が、太陽の光を受けてきらめいている。雪の帽子をかぶった家々が顔を出し、森の木々は重たげに枝を垂れていた。
幸いなことに、水車は凍らずに動いていた。バシャバシャいう音を聞きながら、レイゼルはかまどの前にかがみ込んだ。火を熾し、かまどの前にはりついて暖をとる。
無事に温まり、身体が動くようになると、スープを作ることにした。
商人から買った干し海草で出汁をとり、賽の目に切った根菜を煮る。緑も欲しい、と、昨日収穫してあったコピネ菜の葉を刻んで入れた。
仕上げに、昨日村の人から分けてもらったミルクを回し入れる。少しチーズを入れて、コクを足した。
「うんっふ」
熱々のスープを一口食べて、レイゼルはふるふるっと身体をふるわせた。
「ぞわぞわするくらい、おいひい」
時々、器で手を温めながら食べている内に、身体も温まった。
食事が終わり、内開きの玄関扉を開けてみると、もちろん開けたそこから雪で埋まっている。深さは、レイゼルの膝下程度。
彼女はスコップを出してくると、玄関前だけ雪かきをした。
「あんまりやって寝込んだら、また迷惑かけるし……」
引き際がわかっているレイゼルは、ほどほどのところでやめて腰を伸ばした。ふーっ、と大きく息をつく。
そこへ――
小川の方から、ギュッギュッと雪を踏む音がして、長身の姿が回り込んできた。
「あ、隊長さん、いらっしゃいませ」
シェントロッド・ソロンである。さすがの彼も、軍から支給された外套を着て襟巻きに手袋という装備だ。しかし、村じゅう雪が積もっていても、川を通ってやってくる彼の障害にはならない。
彼は、スコップを持っている彼女を見て、眉間にしわを寄せた。
「雪かきなどやって、大丈夫なのか」
「ちょっとしかやっていないので、大丈夫ですよ。どうぞ」
レイゼルは店に入り、スコップをかまどの横の壁に立てかけたが、後から入ってきたシェントロッドは続ける。
「今日はこれで済んだが、もっと降る時もあると聞いたぞ。こんな小さな店、雪の重みで潰れるんじゃないか」
「小さいですけど、割と新しいししっかりしてるんですよ、この店。それに屋根にも工夫が」
ごく普通に返事をしたレイゼルに、シェントロッドはたたみかけた。
「家から出られなくなるような状態を、村人たちが放っておくとは思えない。前にも言ったが、冬の間くらいどうして、誰かと一緒に暮らさないんだ」
「それは……」
薬湯を準備する手を止め、レイゼルは思わずシェントロッドを振り返った。
レイゼルは、彼女の方から彼に近寄ることはなかったし、シェントロッドも薬湯とスープをたしなみに来るときしか店には来ない。どちらかというと、当たらず障らずの交流をしていたはずの二人だ。
しかし、今日のシェントロッドは妙に深くまで切り込んでくる。
「あの……数日閉じこめられてもちゃんと生きていけるように、準備はしてますから、本当に」
レイゼルがにこにこと答え、薬草を選ぶ作業に戻ろうとしたところへ──
シェントロッドはさらに、踏み込んだ。
「アザネの村人は、お前の親のことで何か気にしているのか?」
はっ、と彼を振り返った拍子に、レイゼルは作業台の上で器をひっくり返してしまった。
「あっ、ど、どうして」
器に手を伸ばしながら彼を見ようとして、また器を転がす。
シェントロッドはむっつりと腕組みをした。
「昔の記録を当たっていて、たまたま知っただけだ」
レイゼルは、身体ごとまっすぐ向き直る。
「村の人たちは、私を大事にしてくれています。みんないい人です!」
感情が高ぶると具合が悪くなるレイゼルは、心を穏やかに保つことに慣れている。その彼女の声が、不意打ちの動揺で少し震えていた。
見上げてくる視線の強さに、シェントロッドは少しひるむ。
「ああ……それはわかっている。村の者がお前を差別しているとしたら、薬湯屋などやれたはずはない。むしろ、村の者たちはお前を愛し、お前の薬湯を必要としている」
「そうです」
レイゼルは腹の前で、両手を握りしめた。
「誰かと暮らすのは、私の方が断っているだけです。今のままで幸せです。だから、村の人たちに、あの人のことで何か言うのは、やめてください」
「別に、何も言うつもりはない。そういうつもりで親のことを持ち出したわけではない。俺もまた、お前の薬湯に世話になっている一人……おい、どうした?」
レイゼルは息苦しくなり、その場にへたりこんでしまった。
「すみ、ませ……ちょっと、息が」
目を閉じ、胸を押さえて呼吸を整えようとしているレイゼルの苦しそうな様子に、シェントロッドは膝をついた。助け起こそうと、手をさしのべる。
「おい、ベンチに横にな」
「さ、触らないで」
余裕のないレイゼルは、反射的に彼の手を払ってしまう。もちろん、界脈を読まれたくないからだ。
数人の客が訪れたのは、まさにそのタイミングだった。
「何してるんですか!?」
扉を開けたのは、リュリュだ。シェントロッドの伸ばした手から逃れようとしているレイゼルを見て、鋭く言いながら駆け寄る。
「レイゼル、何をされたの!?」
「ちが、だいじょうぶ」
「大丈夫じゃないでしょうがっ」
「リュリュ、落ち着きなさい。そんな声を出したらレイゼルがびっくりする」
村長ヨモックの呼びかけに、リュリュは我に返る。
「あ、う、うん」
「とにかく寝かせよう」
一緒にいたトマが言い、ルドリックとミロが手を貸してレイゼルをベンチに横たえた。
「大丈夫……ほんとうに……落ち着いてきた」
クッションを枕にしたレイゼルは、ふーっ、と息をついてリュリュを見上げる。
「ごめんなさい、ちょっとあわててしまうことがあって、ドキドキしただけ。もしかして、雪かき、手伝いに来てくれたの?」
「そうよ。そしたら、何か様子が変だから」
リュリュは、ベンチに横になったレイゼルと、かまど側にいるシェントロッドの間に入って腕を組んでいる。
ヨモックがシェントロッドを見上げた。
「ソロン隊長、差し支えなければ、彼女とどのような話を今……?」
「……十三年前の記録を見た」
シェントロッドは答える。
はっ、とヨモックが息を呑んだが、シェントロッドは構うことなく続ける。
「店主とその親は、二代に渡って、村人たちのために薬湯を作っている。それなのになぜ、店主と村人たちの間に一線が引かれているのかが、わからなかった。理由を聞いたまでだ」
ヨモックはレイゼルを気にしながら、首を横に振った。
「その話は、しないでやってください。この子のおかげで、わしらは元気でいられるんです」
「何の話?」
無邪気に聞くミロ。リュリュ、トマ、ルドリックは、いぶかしげに視線を交わす。
互いに様子をうかがうような、奇妙な沈黙が流れた。
レイゼルが、口を開く。
「村長さん」
「ん?」
ヨモックがベンチを見下ろすと、レイゼルは少しためらってから、言った。
「私……話した方がいいと思うんだけど」
「レイゼル」
ヨモックは、どこかたしなめるような口調でよびかけた。
けれど、レイゼルはヨモックをじっと見上げる。
「村長さんが、話したくないのはわかってるんです。でも……誰も悪くないことなのに、隠すことでゆがんでしまったら嫌だから。隊長さんが、村の人たちを誤解してしまいそうで、心配なの」
灰色の瞳が、潤んでいる。
それに気づいたリュリュが、ベンチの開いたところに浅く腰かけ、レイゼルの手を握った。
ヨモックは少しの間、黙り込んだ。けれど結局、苦笑いしてシェントロッドを見る。
「レイゼルに泣かれると、わしは弱い。……お話しましょう。レイゼルと、その養母エデリ、そして村の大人たちとの間に起こった、昔の事件を」
◇ ◇ ◇
エデリがアザネ村にやってきたのは、ムムの花の咲く頃、春まだ浅い季節だった。
若くはなく、けれど初老というほどの年にもなっていなかったエデリは、一歳になるならずの女の赤ん坊を抱えていた。
「私の子です。父親は死んでしまって……。どうか助けてください」
そう話す女性を放っておけず、村長ヨモックとその家族はしばらく二人を家に居候させた。
エデリはこれといって目立った風貌でもなく、おとなしげな女だった。様々な薬草の種を持っており、前に住んでいたところで薬湯屋をやっていたと言う。アザネには当時、医者さえいなかったので、村人たちは彼女に村で薬湯屋を開くことを勧めた。
薬草畑を作りたいという彼女の希望で、山際の森の中に家が建てられた。人家から離れていることを村人たちは心配したが、薬草が育つのにいい土地だからと、彼女は譲らなかった。
「今にして思えば、エデリはレイゼルを、村人の目からなるべく離しておきたかったのだと思います」
ヨモックは目を伏せた。
そうして、エデリはアザネで薬湯屋を始めた。彼女が集会所に薬草を売りに来ることもあったし、村人が店を訪ねていくこともあった。
赤ん坊はレイゼルという名で、すぐに歩けるようになったが、とても大人しい子どもだった。店のまわりでいつも一人で遊んでいて、集会所にはついてこない。
放っておいて大丈夫なのかと村人が聞くと、
「身体の弱い子で、すぐに眠くなってしまうので、家から離れない方がいいんです」
とエデリは言い、村人に薬草を売るとすぐに帰って行った。
「あまり、似ていない親子だよねぇ」
金物屋のジニーがそう言ったのを、ヨモックは覚えている。
二年が経ち、アザネ村に待望の医師がやってきた。フィーロの町からアザネに移り住んだ、モーリアン医師だ。
アザネの村人たちがとても健康なことに、モーリアンはとても喜んだ。
「やはり、水と空気がいいからかねぇ。都会に毒された私もあやかりたいものだ」
「いやいや、薬湯屋のエデリのおかげです。彼女の薬湯を飲み始めてから、体調がいいんです」
村人たちは口を揃えた。
実際、彼女の薬湯はとても評判がよく、村の大人たちのほとんどがその恩恵に浴していた。たまに、村の外からもちらほら客が訪ねてくることがあり、こんな田舎までエデリの薬湯を求めにくるなんてすごい腕だ、と人々は感心したものだった。
しかし、おかしなことに、エデリは三歳になるレイゼルをモーリアンに診せたがらなかった。
「男の人を怖がって、具合が悪くなるんです。私の薬湯で落ち着いていますので」
アザネ村の住人たちに信頼されている薬湯屋がそういうのなら、と、モーリアンも納得した。
けれど、森の中の薬湯屋に行った客は、物陰から興味深そうに客をのぞく黒髪のレイゼルをよく見かけていた。男でも女でも、特に怖がっている風ではなかった。
さらに二年が経ち、ある日ふと、シスター・サラがエデリに尋ねた。
「最近、レイゼルの姿を見ないけれど、大丈夫?」
「ええ、大丈夫です。すっかり内向的になってしまいましたけれど、家で絵を描いたり本を読んだりして過ごすのが好きみたいで」
エデリは微笑んだ。
「私の手伝いも、たくさん、してくれるんですよ。いい子に育って嬉しいわ。本当に、いい子」
◇ ◇ ◇
「それからさらに時が過ぎて、レイゼルが六歳になった頃でした。王都から手配書が回ってきたのは」
ヨモックは続ける。
「そのあたりは、ソロン隊長はご存じで?」
「ああ、王都で聞いた。エデリは、毒薬を作って売る女だったそうだな」
ソロンの言葉に、話を聞いていたルドリックたちがギョッとして顔を上げた。
シェントロッドは続ける。
「暗殺用の毒薬だ。人間族にもリーファン族にも、顧客がいたと聞いた。アザネ村に来たのは、身を隠すためだろうと」
「はい。けれど、この村でも毒薬の仕事は続けていたらしい。村の外から来た客は、毒薬が目当てだったようです」
吐き捨てるように言ったヨモックは、一度咳払いをしてから続けた。
「わしらは全然、気づかなかったのです。村人たちの飲んでいた薬湯は、全く問題がなかった。むしろ、素晴らしい効能だったので。しかし、それは、レイゼルの……レイゼルが」
村長は目を伏せ、口ごもってしまった。
レイゼルが、後を引き取る。
「私、お話しします」
リュリュがレイゼルを心配そうに見つめた。レイゼルは落ち着いた表情で小さくうなずき、リュリュの手を握り返す。
そして一言、言った。
「私は、エデリの実験台だったの」
「実験、って」
呆然と言ったルドリックが、言葉を切った。
レイゼルは、落ち着いた声で続ける。
「エデリは、毒も薬も、自分と私を使って試していたの。毒を作るにしても、万が一の時に備えて解毒剤が必要でしょう? そういうものも、全部」
前後編。明日、後編を更新します。




