第十七話 「うちで暮らす件」
一日仕事をして、夕方になると、どうにも頭が痛くなる。
シェントロッドは定時で仕事を切り上げると、さっさと守護隊の本部を出た。
ロンフィルダ領警備隊の本部はフィーロという町にあるのだが、界脈を利用して移動できる界脈士にとっては、移動はあまり負担にならない。川しか利用できないシェントロッドでも、アザネまでならすぐだ。
(今日も薬湯を飲んでから、アザネの隊舎で休もう)
シェントロッドは川に降り、枝分かれする川をたどって、まっすぐにアザネ村の薬湯屋にたどりついた。
川から上がると、西日を山に遮られた田園風景が広がった。薄暗い中、水車小屋からは温かな明かりが漏れている。
シェントロッドの尖った耳が、話し声をとらえた。誰か、客が来ているらしい。リーファン族は耳がいいのだ。
相変わらず開け放してある戸口から、彼は中を覗いた。
「店主」
「あ」
ベンチに腰かけていたレイゼルが、はっとしたようにシェントロッドを見た。
そして、彼女の隣に腰かけていた男も、シェントロッドの方を見る。朽ち葉色の髪に、つり気味の青い目の男。
(誰だったか……。そう、村長の息子だ。名前は確か、ルドリック)
シェントロッドは、戸口をくぐるようにして店に入る。
「俺の薬湯を飲みに来た」
「はい、今、準備します。あの、ルドリック」
レイゼルが何か言いかけたとき、ルドリックは不意に立ち上がった。
「俺は帰る」
「え? あ、うん。ごめんね、話の途中で」
「いや。うちで暮らす件、考えとけよ。じゃあな」
ルドリックはややうつむきがちに戸口に向かい、シェントロッドとすれ違うときに軽く頭を下げたが、何も言わなかった。
レイゼルは少しボーッとした様子で、ルドリックが出て行くのを見送っていたが、やがて我に返ったように、シェントロッドの薬湯の準備を始めた。
薬湯を飲み終えたシェントロッドは、レイゼルに「また来る」と声をかけて水車小屋の外に出た。
空には一番星がきらめき、草はらの枯れ草を風がさわさわと鳴らしている。
小川の方に回り込もうとして、彼はふと気配を感じて足を止めた。
振り向くと、近づいてくる者がある。赤毛にそばかす、若い娘だ。
「ソロン隊長。あたし、リュリュといいます」
彼女は恐る恐るといった様子だった。声もわずかに震えている。
「レイゼルとは幼なじみで、一番の仲良しだと思ってます。……あの……隊長に、お願いが」
「なんだ」
短く聞き返すと、リュリュはつっかえつっかえ、こう言った。
「こんなことを言って、お気を悪くしたら申し訳ないんですが……あの……レイゼルには、恋人がいます」
シェントロッドは眉を上げた。
「それで?」
「あの……あの……こんなの、人間族だからなのかもしれませんが……隊長が毎日、ここに通っているので、レイゼルの恋人が気にしてるんです。隊長が、レイゼルのこと、どう思ってるのかって。それで、二人の仲がぎくしゃくしてしまって」
ふと、シェントロッドは先ほどの様子を思い浮かべた。
ルドリックがレイゼルに、「うちで暮らす件」と言っていた場面だ。
(恋人というのは、ルドリックか? 一緒に暮らすという話が出るほどの仲なのか)
「ごめんなさい……二人とも、あたしの大事な友達なので……悩んでるの、見ていられなくて」
涙ぐむリュリュ。
シェントロッドは髪をかきあげ、やがて言った。
「つまり俺が、レイゼルとはただの店主と客だと言ってやればいいのか」
「あたしもそう言ったんですけれど、彼はまだ疑ってるみたいで……。あの、レイゼルは、悩むとすぐに身体の具合が悪くなっちゃう子なんです。ソロン隊長、ここに来るのを減らせませんか……?」
リュリュは胸の前で手を組み、シェントロッドを見上げた。
「ソロン隊長は、アザネの村人の命を救ってくださいました。あたしたち、隊長に複雑な思いを持ちたくないんです。もちろん、隊長のお身体も大事なんですけど」
「わかった、わかった」
シェントロッドは軽くため息をついた。
彼は、守護隊の仕事以外では、他種族に関わらない主義である。ましてや色恋沙汰など、首を突っ込みたくはない。
「俺としても、この村の者たちとは揉めたくない。ここに来るのを減らせばいいんだな。仕方ない、薬湯は、次は注文して隊舎で煎じてもらう」
「あ、ありがとうございます……!」
リュリュは深く頭を下げた。
「もう遅い、帰れ。ではな」
何となくいたたまれない気分になり、シェントロッドはサッと踵を返して、小川に姿を消した。
薬湯屋を離れたリュリュは、てくてくと歩いて辻までやってきた。
そこで、ルドリックが待っていた。
「言われたとおりにしたぞ。あれでいいのか」
やれやれといった様子でルドリックが言うと、リュリュはにまっと笑う。
「ばっちりよ! たぶんこれで、ソロン隊長はレイゼルの店に通うのをためらうようになるわ。あー、よかった、一応安心してお嫁にいける」
「たった一人のリーファン族だし、隊長も俺たちと揉めたくはないだろうから、そこを利用したってわけか」
ルドリックは肩をすくめる。
「じゃああれだな、俺はソロン隊長の前で、うっかりレイゼルを妹分だなんて言わないようにしないと」
「一応、ルドリックの名前は出さなかったわよ。ソロン隊長には誤解してもらっただけ」
「お前、本当にそういうとこは頭が回るよな。じゃあな」
「うん、お疲れさま!」
一方、シェントロッドは隊舎の近くの川岸に上がっていた。
(おかしな気分だな)
土手を上がりながら、シェントロッドは不思議に思う。
(リーファンの俺と人間の店主を、そんな風に見る男もいるのだな。外見も寿命も異なるのに)
世の中には異種族同士の夫婦もいるのだが、シェントロッドにはいまいち彼らの気持ちがわからないのだった。
ふと、レイゼルを抱き上げたときのことを思い出す。
小さく、細く、柔い。心地よい感触ではあったが、おそらく小動物を抱いて愛でていると、ああいう感じなのだろう。
(あの店にいる時間は、心地よいものだったのだが、仕方ない。そういえば──)
ふっ、と、もう一つの顔が脳裏に浮かぶ。
「レイと仕事をしていたときも、そんなような感覚だったな」
彼はつぶやいた。
たいして話すわけでもなく、話すとしてもほとんどが仕事の話ではあったのだが、一つの部屋の中で醸し出される穏やかな雰囲気が似ている。特に、レイが仕事に集中し始めると、まるで部屋全体が界脈に調和しているかのような、落ち着いた雰囲気になった。
彼が卒業してしばらくは、彼の部屋の中は寒々しかったものだ。
(ルドリックも、店主のそういうところが気に入ったのかもしれない)
人間族の男の気持ちを理解したような気になったシェントロッドだが、はたと立ち止まった。
(「うちで暮らす」……?)
ただ一緒に暮らすだけではない。水車小屋ではなく、村長の家で暮らすという話をしていたのではないか。
水車小屋で薬湯の香りに包まれて過ごす、あのゆっくりとした時間がなくなるかもしれないということに、シェントロッドは気づいた。村長の家で薬湯屋をやるのかもしれないが、そこはレイゼルだけの家ではない。
最初はうるさいと思った水車の音も、今ではなくては落ち着かないものになっている。その音もしない、水車の代わりに彼女の夫が薬草をつぶすのを手伝う、店。
それは妙に、シェントロッドの考える「調和」を乱すような光景に思えた。
急に不愉快なものを感じながら、シェントロッドは考え込む。
(俺が何度も薬湯屋に通うことを嫌って、ルドリックがレイゼルを自分のそばに置こうとしているのなら、俺があまり通わなくなればこの話はなくなるのだろうか。そうだといいが、しかし人間族は結婚が早いからな……)
「隊長さん、こんばんは」
すれ違った村人は、すでに暗くなっているため、シェントロッドの眉間に刻まれた深い皺に気づかなかった。




