第十四話 距離を置くためには
朝から、しとしとと雨が降っている。
西の峰々は白く煙って見えなくなり、あぜ道にできた水たまりで水滴が跳ねていた。
こういう日は、レイゼルの薬湯屋は無理せず休業である。村の人々もそれがわかっていて、あまり薬湯を飲みには来ない(様子は見に来ることもある)。
外に干していた野菜や薬草を家の中に入れているので、いつにもまして狭く感じられる店の中で、レイゼルは自分用の薬湯をすすっていた。
けだるげに、窓の向こうの景色を眺める。
「……もう一眠りしようかなぁ」
その頃、守護隊アザネ支部の隊舎。
隊員たちは見回り以外は特にすることもなく、犯罪などもいつものように起きないので、暇を持て余していた。雨の中、わざわざ外で訓練することもないので、屋内で多少身体を動かす程度である。
そこへ、隊舎の玄関に、ぬっと背の高い人影が現れた。ロンフィルダ領の守護隊の隊長、シェントロッド・ソロンだ。
「隊長!?」
「お、お疲れさまです」
受付にいた二人の隊員が、直立不動で迎える。今日は隊長は、ロンフィルダ領内のリーファン族の集落に行っていて、帰りは深夜になると聞いていた。
「どうかなさいましたか」
「隊長室に、何人か来させろ」
シェントロッドは肩の水滴を払いながら短く言って、奧の隊長室に入っていく。
受付の二人は顔を見合わせると、詰め所に行き、その日の当直の隊員に隊長室に行くように伝えた。
シェントロッドは隊長室で、壁に貼られたアザネの地図をにらんでいた。この地図は、彼が赴任してから界脈を調査し、新しく作り直したものである。
「失礼します!」
当直の隊員たちが入ってくると、シェントロッドは地図に近寄った。無造作に片手を伸ばして、指を滑らせる。
「南西の、ここと、ここ。山沿いの二軒。避難させろ」
「は?」
「界脈が乱れている。明日の朝までの間に、山肌が崩れるぞ」
「りょ、了解しましたっ」
「……しんどい天気だな」
むっつりと言って、彼は首をこきっと鳴らした。
翌日は、朝から秋晴れの空が広がった。
「それでさ、レイゼル」
昼過ぎ、薬湯屋にやってきているのは、孤児院仲間の小柄なミロだ。彼は養鶏農家に住み込みで働いていた。
「ソロン隊長の言った通り、夜中に山が崩れてさ、母屋の三分の一が潰れたんだ。農場主夫婦が寝起きしてる部屋だったから、避難してなかったらやばかった。鶏たちも、東側の小屋に移してなかったら全滅だったな」
「うわ、よかったねぇ、助かって」
そんな話を聞くだけで、肝が縮んで具合が悪くなりそうなレイゼルである。
ミロは興奮した様子で続けた。
「隣も年寄りがいるから、守護隊が早めに知らせをくれて避難させてくれて、本当に助かったよ。でさ、礼はしとかないとってことで、さっき鶏を一羽締めてソロン隊長に持って行ったんだ。夕食に食ってくれって。そしたらなんか、すっごい不機嫌そうに『俺は仕事をしただけだ』っつって受け取ってもくれなくてさぁ。仕方ないから隊舎の食堂に預けてきたんだけど、何かまずかったかな? レイゼル、どう思う?」
「えっと」
レイゼルは、盛大に絡まったレース糸をなんとかほどこうとしながら、困り顔で笑う。
「リーファン族は、お肉は基本的に食べないよ……?」
「え、そうなのか!?」
「卵なら食べるよ。次は、卵にしたらいいんじゃないかな」
「そっか! わかった!」
ミロが大きくうなずいた時、戸口から声がした。
「ちょっと。ミロ」
そばかす顔がのぞく。リュリュだ。
「あんた何やってんの。レイゼルはソロン隊長が苦手なんだから、隊長の話なんて振るんじゃないわよ」
「でも、この村で一番リーファン族に詳しいのはレイゼルじゃないか」
「だからってレイゼルに聞かなくていいじゃないよ! 種族が違うんだから、わかんないことはわかんないままで何が悪いの? リーファンはリーファン、あたしたちはあたしたち!」
店の中に入ってきたリュリュは、勢いよくベンチに腰かける。
「レイゼルの具合を悪くしてまで聞くことじゃないでしょっ」
「うう……ごめん」
小柄な身体をさらに縮めるミロ。レイゼルはあわてて両手を振る。
「私は大丈夫だよ。リュリュ、お茶淹れようか?」
「うん、いつものお願い」
涼しい季節になったので、かまどでは常に湯が沸かしてある。レイゼルが茶をカップに注ぎ分けている間に、リュリュはふと立ち上がって窓から外をのぞき、戸口から外をのぞき、戻ってきた。
そして、口を開く。
「あのさ、ソロン隊長のことなんだけど」
「なんだよ、結局リュリュも隊長の話、するんじゃないか」
ぶーたれるミロを鋭い視線で黙らせ、リュリュは続ける。
「しょっちゅう、ここに来てるって、ほんと?」
「えっ」
レイゼルはうろたえた。ミロも「えっ」という顔でレイゼルを見る。
「えっと……薬湯を気に入ったみたいで。お客さんとして、来てるよ」
「どのくらい?」
「割と、ちょくちょく……」
「まさか毎日じゃないよね」
「あ、ええと、あの……自分で煎じるの、できないらしくて……」
ミロは「本当かよ」と身を乗り出し、リュリュは大きくため息をついた。
「まあ、レイゼルが大丈夫ならいいんだけどさ。……あのこと、バレたくないって言ってなかった? それは今でもそうなの?」
「うん」
レイゼルは真顔になる。
「それだけは、そう。……でも、お客さんは、お客さんだから」
「……そうね。ここは薬湯屋だもんね」
リュリュが微笑むと、レイゼルはほっとしたように「うん」とうなずく。
しばらく、三人はお茶をすすった。水車の回るきしみと水音だけが、店の中に控えめに聞こえてくる。
リュリュが、さらりと言った。
「ところであたし、結婚するかも」
「えっ!?」
「わぁ!!」
ミロとレイゼルが身を乗り出した。ミロが「あっ」という顔をする。
「もしかして、ムムの収穫の時に隣村から手伝いに来てたヤツ!?」
「うん、そう」
何でもなさそうな顔をしつつ、三つ編みの先をいじる仕草に照れが見えるリュリュ。
夏が旬のムムは、白く柔らかな果実でロンフィルダ領の特産品だ。果物として食される他に、葉や種をレイゼルのように薬に使うものもいるので、良い収入源になっている。
収穫から保存までの処理に人手がいるので、近隣の村々で協力し合い、順番に人手を出すことになっていた。
「そのときに割といい感じだったんだけど、次にこっちから隣村に手伝いにいったときに、まあ……そういう話が出て。あっちの村長さんまで出てきて、トントーンと」
「素敵! おめでとう!」
レイゼルは頬を真っ赤に上気させて興奮している。それだけで、大丈夫かこの子、という顔で見守るミロとリュリュだが、とりあえず大丈夫そうである。
「へええ、リュリュが結婚かー。なんか想像つかないや」
「ちょっとミロ、それどういう意味」
「そりゃ、孤児院時代の悪行の数々を知っている俺らとしてはさ。なぁ、レイゼル?」
「そうね。抱えて生きていく秘密が増えちゃったわ」
「レイゼルまで!」
笑い声が満ちる。
ミロはまだクックッと笑いながら立ち上がった。
「俺、そろそろ行くわ。レイゼル、ありがとうな。卵ね、卵」
「あたしも戻らなきゃ。ちょっと様子見にきただけなの。じゃあね、レイゼル」
「うん、またね」
二人はレイゼルに手を振って、水車小屋を出た。
あぜ道を歩き出したとたん、リュリュは当然のように話を戻した。シェントロッドのことだ。
「全く。いくらお客だからって、毎日来るほど気に入られてどうするのよ。あたしだったら、お腹が下る薬湯を出してやるわ」
「そりゃまずいだろ、薬湯屋として……。レイゼルはそんなことできないよ」
呆れるミロ。
リュリュは「まあね」とうなずき、再び歩き出しながら言った。
「問題は、レイゼルの方からはねつけることができない、ってことなのよ。あの子の性格じゃあね。隊長の方が、薬湯屋に来にくくなるようにしないと」
「おい、あまり物騒なこと考えるなよ。守護隊隊長として世話になってんだろ」
恩を受けたばかりのミロは言う。
「あの人はこの村に一人しかいないリーファン族だけど、俺らとはお互い、うまくやっていこうって感じなんだからさ」
「わかってるわよ。あたしだってリーファン族の目の敵になりたいわけじゃないし、レイゼルの立場を悪くしたいわけでもないわ」
リュリュは腕を組む。
「ただ、とにかく、苦手な人が毎日自分に会いに来る、なんて事態くらいは、どうにかしてあげたいの。あたしが隣村にお嫁に行くまでにね」




