第233話:「ある日の文化研究部」
その日、田辺杏子が部室に向かったのは、いつも通り六時限のお勤めを終えたあとのことだった。彼女は教室を出たあとに、いったん職員室へと向かって、視聴覚教室の鍵を借りた。
「今日も部活か、精が出るな」
というまるで野良仕事に出かける老人にでもかけられるのが適当であろう励ましの言葉をかけられて、杏子は部室へ向かった。彼女が部長を務める文化研究部には正式な部室がない。よって、視聴覚教室を部室として借りている。いずれ正式な部室を持ちたいとは思っているものの、よくよくと考えれば、教室をまるごと一つ借りているのだから、こっちの方が贅沢であると言えないこともないのだった。
三階の一番すみにある視聴覚教室に着くと、杏子はドアの鍵を開いた。そうして、電気を点ける。秋も深まりつつあるので、電気を点けないと教室は薄暗い。杏子は教卓の前に立って、がらんとした教室内を見渡した。なんとなく顔がにやついてしまうのには訳がある。というのも、何の加減か、この数ヶ月で部員が増え、今年度の初めに部長自身を含めて三人しかいなかった部員は今は総勢で九名になった。これこそ杏子が部長を拝命してから、艱難辛苦に耐えて部活動を継続してきたその成果だった。
三人しかいなかったときは、この広い室内を見渡しているとき、何とも寂しい気持ちになった。どうして、他の部活にはたくさんのメンバーがいるのに、この部には自分含めて三人しかいないのか。部長である自分の人徳の無さゆえか。ルックスの悪さゆえか。そんなことを考えて一人涙を流したときもあった。それが今では……感無量というほかない。
「そんなところで、今にも窓に走っていって飛び降りそうな顔して、何やっているんですか、部長」
ドアが開いて、入ってきたのは、二年生部員の坂木蒼だった。この二年生の彼女は、次期部長と目されているが、その自覚は全く無く、というよりも、部長なんてやりたくないという自覚をしっかりと持っている子だった。文化研究部に入った理由は、何だか楽そうといった程度のものであって、それ以上のものではない。部長が何か有意義なことをやろうと言い出すと、全力でそれを止めようとする、言わば、部のブレーキのような存在である。
「アクセルだけの車なんて、危険物以外の何物でもありませんからね」
「でも、アクセルがなかったら、そもそも前に進まないじゃない、アオイちゃん」
「いいんですよ、進まなくて。近頃の人は前に進もう進もうと思いすぎですよ。そうやって、前だけ見て生きてきた結果が、環境問題や、貧富の差の拡大、エゴイズムの席巻などに現われているのです。人はもう前だけを見て生きていく時代じゃないんです」
「そんなに大きな話かな?」
「部長は視野が狭いから、この小さな視聴覚教室を見ることくらいしかできないんでしょうけれど、部分と全体というものは有機的なつながりを持っているんです。この教室が世界のドアなんです」
「そ、そうなんだ……」
「そういうわけで、今日はもうつまんない『研究』的なことはやめにして、パーッと遊びに行きましょうよ。先輩のお金で」
「どういうわけかも分からないし、なんでわたしがおごることになってるのよ」
「だって、わたしは、可愛い後輩ですよ」
「可愛い後輩……?」
「部長は本当にアホですね」
「どういうこと?」
「いいですか、わたしは、部長の後輩ですよね? 同じ学校の部長は三年生で、わたしは二年生なんだから」
「そうね」
「しかも、わたしは可愛いですよね?」
「…………」
「言っておきますけど、ブサイクだなんて言ったら、先輩のことを、セクハラで訴えますから」
「じゃあ、可愛いとしか言えないじゃん!」
「そうすると、結局の所、わたしは、可愛い後輩ということになるわけです。これ以上このことについて、議論しますか?」
「仮に可愛い後輩ということになったとしても、どうして、それでわたしがアオイちゃんに奢らないといけないことになるの?」
「可愛いという気持ちを行動に表さないと、それは伝わらないじゃないですか」
「伝わらないって、すでに伝わっているじゃないの」
「わたしには伝わっていますよ。でも、それを周囲にアピールする必要があるでしょう?」
「あるの?」
「ありますよ。そうじゃないと、みんな、部長のことを、後輩を大事にしない人間のクズだと思うじゃないですか」
「うおい! 言葉に気をつけて!」
「ハンバーガーでいいですからね。あと、ポテトとシェイクもつけて」
「それもうハンバーガー『セット』じゃん」
「マカロンもつけてもいいんですよ」
「ハンバーガー店で、マカロンなんて無いでしょ」
「マカロンは別口です。別の日に、マカロンを奢ってもらうんです」
「そんなにお小遣いもらってないよ」
「じゃあ、働いてください」
「中学生なんですけど」
「昔は、先輩くらいの子はみんな働いていたものですよ。嫌な時代になったものです」
「アオイちゃん、わたしより年下じゃん」
二人の掛け合いの最中に、三人目の部員が到着した。
「加藤くん」
杏子は、ホッとしたような顔をした。援軍を得たような気持ちになったのである。加藤怜。彼は三年生で、一年のときから一緒に部活動を行っている、部にとっての苦しい時期を共に乗り越えた、言わば戦友のような存在なのだ。下級生に口撃されている自分を放っておくハズがない。しかし、怜はそのまま机の一つに着くと、手にしていた文庫本を開いて、優雅に読書など始めたのだった。
「ちょ、ちょっと、加藤くん!」
「なんだ?」
「『なんだ』じゃないでしょ! 部長がいじられてるんだから、助けようよ!」
「田辺はそういうキャラじゃないのか?」
「どんなキャラよ! ていうか、キャラづけなんてやめてよ。そこから、いじめが始まるんだから! いじめ・ダメ・絶対!」
杏子の絶叫空しく、ひたすら文庫本を読み続ける加藤くんに、つかつかと向かっていった彼女は、
「何読んでるのよ? 村上春樹?」
と自分が文学少女であることをさりげなくアピールするために同時代の大作家の名前を出すと、彼は、
「英単語帳だよ」
と答えた。
「英語好きなの?」
「本当に英語が好きな人間は、英単語帳なんかで英単語を覚えはしないだろう」
「そうなの?」
「さあ。オレは別に英語が好きというわけじゃないから、知らないな」
「定期試験対策?」
「入試対策」
「いくら入試が大事でも、部室に来た限りは、きちんと部活をやってもらわないと」
「もちろんやるさ。メンバーが揃えばな。それまで、自由にしていてもいいだろう?」
「部室に入った限りは、その時点から部活動をしなければいけないのよ」
「じゃあ、部長は何をやっていたんだ?」
「……ん?」
「坂木とダベってたようにしか見えなかったんだが」
「ダベってた? アオイちゃんとわたしが、ただ雑談をしていたように見えたの?」
「お前も、『いじられてた』って言ったじゃないか」
「いじられながらも、次のプロジェクトについて話していたのよ」
「器用なヤツだな」
「だから、部長になれる。そうでしょ?」
「『いじられてたから助けてくれ』とも言っていたけどな」
「あー、もう細かい! 細かすぎる! 細かいとモテないよ、わたしに!」
「部長にモテる必要あるか?」
「誰にだってモテた方が、モテないよりはいいに決まっているでしょ!」
それはどうだろうか、と怜は考えた。「誰でも」というところは違うような気がする。面倒な人にモテるのであれば、モテない方がマシだろう。部長はその面倒な人に当てはまるのかどうか。怜は、慎み深く、判断を避けた。
「それで? 今日はどういう活動をするんだ?」
「ん?」
「『ん?』じゃないんだよ。活動しろって言うんだから、どういう活動をすればいいのか、指示してくれ」
「やれやれ……」
杏子は、ふうっと首を横に振った。
「そうやって、指示されないと動けない人のことを何て言うか分かる、加藤くん?」
「指示待ち症候――」
「『無能』って言うのよ」
怜は、蒼を見た。
「何ですか、先輩? 見つめられると照れちゃうんですけど」
蒼は、照れの「テ」の字も見せない真顔で答えた。
「いや……」
「もしかして、わたしのせいだって言いたいんですか。部長が、こんなにやさぐれちゃったのは。違いますよ。元からこんなんですから」
「ちょっと、アオイちゃん。元からこんなんってどういうことよ。ていうか、そもそも、やさぐれたって何よ! 『やさぐれる』の意味、分かって使ってるの!?」
「グレるの仲間なんじゃないんですか?」
「全然違うよ! 『やさぐれる』っていうのは、『家出する』とか『放浪する』っていう意味なの!」
「さすが、国語の成績、常に5ですね」
「ま、まあ、それほどではないけどね」
杏子は照れたような声を出した。
「えっ、本当に5だったんですか。わたし、冗談で言ったんですけど。先輩に5をつけるなんて、この学校の成績評価システムは一体どうなっているんですかね」
「どういう意味よ! わたしは自他認める文学少女なんだから、5が取れたって別に構わないでしょ!」
「自他認めるって、先輩の他に誰が認めているんですか?」
蒼がツッコむと、杏子は怜の方を見た。怜はうなずいておいた。面倒くさいことは嫌いなたちであり、面倒を避けられるのであれば、多少自分の意に沿わないことでもできるたちでもあった。
「ほら!」
「恫喝じゃないですか」
「ど、恫喝なんてしてないでしょ!」
「無言の恫喝ですよ。うなずかないと、部活をやめさせてやるみたいな」
「わたしに、そんな権限ないよ!」
「じゃあ、部長って一体何の権限があるんですか? 何にも無いってことはないですよね?」
「それは……みんなの統率をするっていうことかな」
「できてますか、統率?」
「できてるよね、加藤くん!」
怜は、やはりうなずいておいた。つまり、面倒くさいと思ったということである。実際問題として、統率できているかと問われれば、それは微妙なところがあるだろうが、しかし、もしも統率できていないということになったとして、他に適格者がいるかと言えば、さらに微妙な話になるのだった。
視聴覚教室のドアが開いて、他のメンバーが到着したようである。




