42:2人の間
「っ、クロアちゃんっ」
声をかけると、ビクッと震える影。一瞬、逃げられるか?と思ったが、クロアちゃんはそこを動かないでいてくれた。
なんとか近くまで走って、上がってしまった息を整える。
「よか、た…」
迷子とかになってなくて。すぐに会えて、本当によかった。荒い息を押さえながらクロアちゃんを見ると、クロアちゃんは小さくごめんなさい、とつぶやいた。
その瞳は何か辛いことを堪えるように揺れていて、こちらも胸が締め付けられる思いがする。
「約束…、してたのに。急に逃げちゃって、ごめん」
「クロアちゃん、あの人は」
「へへ、訳わかんない、よね。でも、なんか、ね。前もカナト、あの人送ってあげてたなって、思ったら、か、悲しくなって。約束、してるし戻らなきゃって、思っても、なんか、なんか、戻れなく、て…」
一生懸命言葉を紡ぐクロアちゃんの大きな目が潤んで、涙が浮かぶ。その雫がポロっと溢れ落ちるのを見た瞬間。もう堪らなくなって、思わずその体をきつく抱きしめていた。
「あの人は、前話したセノのことが好きな人だよ。さっきはうまくいったって報告受けてただけ」
「……っ、そ、なの?」
「うん。だからあの人が好きなのは俺じゃないし、俺が好きなのもあの人じゃない」
ぎゅっと抱きしめる腕に力を込めた後、そっと体を離す。そしてまだ潤んでいる瞳に、まっすぐ視線を合わせた。
「俺が好きなのは、クロアちゃんだよ」
本当は、明日伝えるはずだった言葉。でも、今伝えなくてどうする。こんな風に気持ちを見せられて、それに応えなくてどうする。
「え?」
驚いた顔のクロアちゃんは、信じられないとでもいうように呆然としていた。その体をもう一度抱き寄せて、伝える。
「クロアちゃんだけが、好きだよ」
すると、抱きしめた体が小さく震えた。
「ほ、ほんとに?」
「うん」
「うそじゃ、ない?」
「嘘じゃない」
「ゆ、夢…?」
なかなか信じようとしないクロアちゃんに、ちょっと笑ってしまう。
「きっと夢の中の俺も現実の俺も、クロアちゃんが好きだよ」
そう言うと、クロアちゃんの腕が俺の背中に回って、ぎゅっと抱きしめ返された。
「あ、あたしのほうが、ずっとずっと、カナトのこと大好きだもん!」
子供の癇癪のように涙交じりの叫びが、とても愛おしい。ぐすぐすと泣いてしまったクロアちゃんを胸に抱いたまま、その髪を優しく撫でる。
夢?って、思わず聞いてしまうクロアちゃんの気持ちが、俺にもわかる。嬉しくて幸せで、今この時がまさに夢ではないかなんて思ってしまう。でも腕の中の温もりは、確かにここにある。
ああ。胸がいっぱいで、なんだか俺も泣いてしまいそうだ。
あふれそうな思いを逃すように大きく息を吐いて、クロアちゃんが落ち着くまでずっとそのまま、温もりを抱きしめていた。
「落ち着いた?」
「ん…」
やがて。やっと涙がとまったらしいクロアちゃんがそっと身体を離した。そしてバッグから出したハンカチで顔を覆ってしまう。
「うう、絶対ブサイクな顔になってる」
「クロアちゃんはいつもかわいいよ」
「〜〜〜ッ」
俺の言葉にバッと顔を上げたクロアちゃんが真っ赤な顔で睨むけど、それも可愛いなぁとしか思わない。
やばい、完全に浮かれてるな俺。クロアちゃんからもらった大好きの言葉が、ふわふわと心を優しく漂っている。
「カ、カナトが余裕過ぎるっ!あたしはいっぱいいっぱいなのにっ」
「余裕というか、浮かれてるかも」
「う、うそだーっ。そ、それにあ、あたしのこと好きとか、い、いつから…」
しどろもどろなクロアちゃんは、確かに全然余裕なさそうだ。クロアちゃんがそんな様子だから、逆に俺は落ち着いてるのかもだけど。
「そうだなぁ。完全に落ちたのは、合コンの後でクロアちゃんに好きって言われた時かなぁ」
「…………え?…………………ええ?」
「恋愛の意味で好きって言われたのかはわかんなかったけどね。クロアちゃんすぐ寝ちゃったし」
「〜〜〜〜〜っ」
またハンカチで顔を覆ってしまったクロアちゃんに、笑いが込み上げてくる。あー、なんかすごい幸せ。
でも結構長いこと真冬の夜の寒さに晒されてるし、今日はそろそろ帰った方がいいかな。幸い明日は一日、クロアちゃんと一緒にいられる日だ。
「また明日、いろいろ話そうか。平日だから人も少なめだし、あっちでもゆっくり時間取れると思う」
「うん…」
そっと小さな背中を押して、クロアちゃんのアパートへと向かう。
「コート、泣いて汚しちゃってごめん」
「ん?そんなの気にしなくていいよ」
「うぅ、ありがと」
クロアちゃんの家まではほとんど距離がなく、ポツポツと言葉を交わす間にあっという間に到着した。
何度もここまでクロアちゃんを送ったことはあるし、部屋にお邪魔したこともある。その時と今では2人の間の空気が違うこと、それになんだかくすぐったい気持ちになる。
「じゃあまた明日。寒いから、あったかくして来てね」
「うん。また明日、ね」
「ん。おやすみ」
「おやすみなさい」
はにかんだ笑顔を残してぱっと部屋に駆けていくクロアちゃん。その姿がドアの中に消えるまで見守っていると、最後、ドアの隙間から小さく手を振ってくれた。自然と笑みが浮かぶ。
手を振り返して、その姿がドアの中に消えたのを見届けてから、自分の家へと歩き始めた。
1人になって。じわじわとクロアちゃんの言葉が心を巡る。にやけそうになるのを押さえながら早足で歩く道のりは、ただただひたすらに幸せで、叫び出しそうなほどの喜びが体中を満たしていた。
あー、ナガセさんに1人で泣かなくてもよくなりましたって報告しないとなぁ。あの時相談して、きちんと気持ちを固められててよかった。ああ、もうなんかすごく嬉しい。
明日に備えて早く寝ようと思ってたのに、全然寝られる気がしないや。でもこの幸せを噛み締めながら一晩過ごすのも、それはそれでとても贅沢な時間の使い方な気がする。
また明日クロアちゃんと過ごせるのが、楽しみで仕方がなかった。




