止まる世界の大団円(裏) ―女神の心― 後編
ゴミ掃除が完了して帰還した我が神殿。
女神と少年の記憶を追体験する間――止まる世界。
この世界の住人である彼らが目覚めるまで、棲み処で縄張りとするコタツの中でノンビリしようと思っていたのだが。
はて?
テーブルの上に置かれたお箸と取り皿を、じぃぃぃぃぃぃぃ。
クンクンクン。
大魔帝ケトスこと素敵で最強なニャンコな私は、香るごはんの湯気にも気が付いて。
とてとてとて。
コタツテーブルに猫のお手々をかけて、うにょーん♪
細い胴を伸ばす私、かわいいね?
お行儀悪く、テーブルの上に乗った理由は単純。
転移魔法陣の発動を感じたのだ。
赤の閃光が魔術文字を描き――。
キィン、キィン、キィン!
テーブルの上に顕現したのは、ブリの照り焼きのお鍋。
おそらく。
手で運ぶとうっかり落とす可能性があったから――魔術を使ったのだろう。
そんなことのために、人間では困難なアイテム転移の魔術を使う人間など限られている。
振り向き調理場を覗いた私は、ネコの眉を下げる。
『なるほど。皆が動かぬ世界で動いていたのは――君か』
「あらケトスちゃん、お帰りなさい」
私のモフ耳をおだやかな乙女の声が揺らす。
「でも――ごめんなさいね、まだ夕ご飯の支度が終わっていないのよ――いっぱい作ろうと思っていたから……あ、けど! もうちょっと待っててくれたらできるから。それまでイイ子にしていて頂戴ね♪」
大きなメガネと大きな胸が特徴的な、乙女。
私をこの世界に召喚した――力あるモノ。
聖女教師のマイル君である。
たしかに彼女なら、神殿に張った私の結界を素通りできるだろう。なにしろいつも料理を作りに来てくれていたから、通行パスを渡してあったしね。
『ご飯を作ってくれるのは、ものすっごい嬉しいけど――どうして君がここに居るんだい?』
「大魔帝である。あなたを待っていたのです」
これで黒い微笑でもしたのなら。
お前が黒幕だったのか!
と、なるのだろうが――無論彼女はそういう存在ではない。
鍋の落し蓋に手を掛けて、乙女はドヤ顔で微笑む。
「じゃーん! どうでしょうか! 今日は例のブリ照りを作ってしまったのでした! ケトスちゃん、きっと今日はいっぱい頑張ってくれていると思っていたから――あら、それとも他のメニューの方が良かったかしら?」
『いや、そういう意味じゃなくて……私だけしか動けない筈の世界で、なぜ君が歩いているのか聞きたかったんだけど……ま、無自覚だよね。たぶん』
きょとんと首を倒す。
その顔に邪気は皆無。
色々と抜けている彼女にも慣れていた私は、そのまま鑑定の魔眼を発動。
彼女の在り方を読み解き。
……。
はぁ――と、私は息を吐く。
『やっぱり――そもそもだ、この私を召喚できる君にはナニかがあると思っていた。初めはただの疑問だったんだけど、君があのウェールちゃんだと知って、そしてなによりこの空間内で動ける君を見て確信したよ』
言葉を区切り。
私は告げた。
『君の中には――聖遺物。女神の心臓があるんだね』
中央学園に安置されている筈の封印アイテム。
魔物達の目標地点だった筈の聖遺物。
全ての元凶ともいえる人間、教皇――愚かなるあの兄王子が封印せざるを得なかった――。
魔道素材。
潰せば呪いが発動し、全てを崩壊させる爆弾ともいえる災厄の種。
おそらく。
今でもその心臓の中では、恋人を殺された女神の嘆きと絶望が呪いという形で滾っている筈だ。
私の言葉に、大きな胸の上に白く細い指を当て。
ウェールちゃんは苦笑した。
「やはりわたくし、普通の人間では――なかったのですね」
不思議な表情で聖女は言ったのだ。
納得と不安。
様々な感情がその胸の中を巡っているのだろう。
『心優しい大いなる導きが、少年の願いを叶えて世界の滅亡を祈っていたんだ。あの時の女神は既に歪んでいたが、ヴァルスくんを支えていたのも事実。きっと、女神は少年のもう一つの願いも叶えていたのだろう』
微笑ましい姿が私の脳裏には流れていた。
かつてウェールちゃんだった聖女マイルくんと、少年だったヴァルスくんとの思い出。
まだ平和だった頃の記憶。
ヴァルスくんの過去、悲劇に襲われる前の温かい記憶を見た女神の記憶だろう。
彼等の記憶を辿るように、私は猫口を動かす。
『動かぬ少女、ウェールちゃん。大好きだったウェールちゃんがもう一度動いてくれますように――それは蘇生への願いともいえるだろう。純粋な祈りだ。そんな儚く美しい願いを叶える事こそ、主神の仕事だからね。かつて主神であり、愛する心を知った女神が――少年の、淡い純粋な恋と祈りに応えていても――不思議じゃない』
そう。
この世界を呪い滅亡させようと漂っていた大いなる導きの亡霊は、その裏で、わずかな人助けもしていたのである。
孤児院で育った少年と少女。
そこにあった友情と――小さな恋物語。
切り刻まれて死んでしまった少女に、女神は手を差し伸べていたのだ。
まあ、もっとも。
その手段は結構強引で。世界破壊爆弾ともいえる女神の心臓を、少女の遺骸に埋め込むという乱暴なやり方なのだから。
手放しには褒められない。
彼女は確かに蘇ったが、記憶もあいまいになり――不老不死となり……色々な苦悩を抱えていた。
女神は少女を救う際、考えなかった。
自らの力が世界と少女に与える影響など……考えもせずに行動してしまったのだ。
憎悪と呪いとして世界に漂っていた当時の女神には、それくらいの手段しか取れなかった。
という可能性も、まああるが……。
「わたくしの中に、女神様の心臓が……」
『君の強さの秘密はそこにあったんだろうね。もちろん、君の努力もあったのだろうけれど――いくらなんでも、様々な偶然が重なったとはいえ――ブリ照りだけで大魔帝たるこの私を召喚できるとは、思えないからね』
と、いうことにしておこう。
キリリとしたイケニャン。
魔術師の顔で告げる私に、眉を下げて――聖女は言う。
「お聞きしたいことがあるのですが。よろしいかしら?」
『なんだい、気になる事があるのなら今のうちに聞いておくれ。今なら誰も聞いていない。君と私だけの世界だから、君の本音も、君の苦悩も――他の人に流れる事は無い』
優しく告げる私に、少女は微笑んだ。
「いつだって優しいのですね、ケトスちゃんは」
『それがレディへの礼儀だろう?』
聖女はくすりと笑って、私も少しだけ笑う。
しばらく経って。
聖女マイルは私をまっすぐに見た。
私は憎悪の魔性。
今でもその瞳の奥には魔力と感情が荒ぶっている。
瞳の奥には、破壊の衝動が今でも渦巻いている。
それでも少女は見た。
赤く滾り続ける憎悪の瞳を、正面から覗き込んだのだ。
そして。
破壊のエネルギーを滾らせる私を確認し、口を開いた。
「わたくし、おそらく――心のどこかで思っていたのです。世界が滅んでしまえばいいと、最近まで……たまにそう思っていたようなのです。きっと、ケトスちゃんを呼んだあの日もそうだった……そう思うのです。言い訳にしかならないかもしれないのですが――」
聖女の言葉は揺れていた。
だから。
告白を遮り、私は言う。
『君は無意識に女神の心と共感し、世界を破壊しようとしたんだろうね。そしてウェールちゃんだった君も、世界の終わりを望んでいた。それはきっと、事実だ』
「はい……」
『私を召喚した君は初めに願った。自らを私に殺して欲しいと――それはすなわち、壊せば弾けて世界に広がってしまう呪いの詰まった女神の心臓を潰せ、そういう願いだ。世界を滅ぼして欲しいという願いそのもの。君自身は気付いていなかっただろうし、知る筈も無かった筈だが――もし私が初めに君の願いを叶えていたのなら、私はいきなりこの世界を滅亡させていたわけだね』
事実として、それは伝えなくてはならない。
ウェールちゃんだった彼女の魂か、それとも女神の心臓が祈り憎悪し続けた世界への呪いか。
はたまた……。
聖女という戦闘兵器として軟禁されていた、マイルくん自身の願いか。
それはわからない。
けれど。
乙女は世界の破壊を祈って、異界の破壊神である私を呼んでしまったのである。
「わたくし、邪悪ですわね」
『まあ私ほどじゃないけれどね』
厳かにドヤる私に、彼女は言う。
「あの殺戮数を見れば、分かりますわ。ケトスちゃん、どこかの世界を滅ぼしてしまった事も、あるのですね」
『魔王様の敵ならば、私は一切の容赦をしない。たとえば魔王様を異世界に召喚し、眠るあの方の偉大な力を悪用しようとする輩がいたのなら、私はその世界ごと滅ぼしてしまう。跡形も残らぬほどの無を与えていた事だろう。私自身も反撃した回数と破壊した世界の先を確認したわけじゃないが――そういう事もきっと、何度かあったのだろう』
魔王様は全てにおいて優先される。
私は嘘偽りなく、その言葉を実行する。
遵守する。
たとえ何を犠牲にしようとも。
これだけは譲れない。
決意を見せる私の顔を見て、聖女は微笑んだ。
「ケトスちゃん――召喚主としてあなたにお願いがあるの」
『召喚主として、か。なんだい?』
「わたくしを、いつか争いの種になるかもしれないこの心臓ごと――滅ぼしてくださいませんか?」
静寂の世界に、風が吹く。
少女は微笑んでいた。
「おそらく、もはやわたくし自身が女神様の聖遺物。動く爆弾ともいえる存在となりましょう。けれど。いまならあなたがいる。世界を滅ぼしてしまえるほど強大で邪悪で、けれど心優しい紳士なあなたがいらっしゃる。大魔帝ケトス。きっと、あなたなら――この心臓が世界を呪う魔道具と理解した上で破壊すれば、呪いの発動をキャンセルし消滅させることができる。そうなのでしょう?」
さすがは聖女。
普段はボケボケで天然乙女でも、こんな時の顔は神聖で。
だからこそ――。
それが真なる願いで祈りだと分かってしまう。
確かに今顕現している女神と、聖女の心臓はもはや別物。
聖女の心臓を破壊したとしても、大いなる導きに悪影響はない。
だったら。
この世界のためを考えるなら、後に問題となりそうな爆弾を撤去すると思えば。
彼女の提案は平和への祈りになる。
突拍子もない事を言っているわけではないのだ。
けれど。
『私が女性を傷付けたくないのは知っているだろう? ああ……だから、召喚主としての願いなのか』
「あなたにしか頼めないのです。わたくしは、いつかこの世界を再び呪ってしまうかもしれない。この心臓がある限り、人間に裏切られ、愛する者を失ったかつての女神様の心がここにある限り……」
膨らみにそっと手を乗せる、その指は震えてはいない。
覚悟は決まっている。
そう、いいたげに――聖女は私をもう一度まっすぐと見た。
「わたくし、この世界が嫌いじゃないみたいなのです。かつてウェールちゃんだったわたくしは、大嫌いになってしまいましたが――わたくしは……ケトスちゃん。あなた達と一緒にお食事をして授業をして、一緒に居て……心の底から、幸せでした。皆も笑っていて、生徒達も笑っていて――けれど、その微笑みがいつかわたくしの中にある呪いによって壊れてしまうのは……嫌なのです」
それは純粋なる聖女の祈り。
まるで本物の女神のように、聖女は後光……光に満ちた神聖な魔力を纏って輝いていたのだ。
私には到底及ばないが、それでもおそらく。
この世界で最強の力。
この力がもしも。
再び呪いへと反転してしまったら――。
『そんな顔をされたら、はぁ……断れないじゃないか』
「ごめんなさいね、ケトスちゃん。わたくしの作った最後の料理、ちゃんと味わって食べてちょうだいね」
なるほど。
料理を作っていたのは願いの代価。
滅びを私に望む――グルメ依頼料。
この止まる世界で動けている。
その時点で自らの異常性を察し――既に、滅びを決めていたのだろう。
ゆったりとネコの瞳を閉じて。
私の吐息はネコ髯を揺らす。
『分かった。召喚主の願いならば断わる事は出来ない。制約でもあるからね――準備をするから、少し待っておくれ』
言って私は魔法陣を展開。
人の手の形をした蜜蝋を顕現させ、儀式用の陣を組んだ。
◇
既に魔猫ハウスと化した神殿。
黒マナティ――ブレイヴソウルが舞う大魔帝の棲み処。
異形なる魔力の溜まる床に、強大な魔法陣が赤く輝いている。
蜜蝋で作られた破壊陣。
聖女の願いと祈りを叶えるための――魔術。
『迷いはないのかい?』
「はい、けれど皆さんには……怒られてしまいますわね」
『私もきっと、罵られるだろうね』
彼女を滅ぼし、破壊したら――ヴァルス君には一生、恨まれるだろう。
ハザマ君はただ静かに泣くだろう。
それを聖女も理解していて。
だから彼女は、こんなに申し訳なさそうな顔をしている。
「ごめんなさい、異界の住人であるあなたに辛い事を押し付けてしまって――」
『いいさ。君は君の祈りによってこの私を召喚した。君には私に願う権利がある。そして私も、君の願いに共感した。君は、大好きに戻った世界を守りたいんだね。私が魔王様を守ろうとするように……君も、大好きな人たちのためならばなんだってしたい。そうだろう?』
言葉に返事はせず。
微笑みだけで返した聖女は、破壊陣の中心で祈るように手を組み――跪く。
『きっとこれは悲しい別れじゃない。だから――さようならは、言わないよ。準備はいいかい』
「お願いします」
聖女マイルが――自らも破壊の願いを握る手の中で広げていき。
陣の内から解き放ち。
ザァアアアアアアアアアアアアアァッァァァァァァァアァ――!
呼応した私も、肉球を翳す。
『我はケトス! 大魔帝ケトス! 聖女の祈りと願いを代行する、異世界の魔なり!』
言葉に従い。
蜜蝋が輝く。
魔法陣の上を比類なき紅き魔力が走り回る。
『滅びよ――哀れなる女神の心臓よ!』
詠唱が力となって顕現する。
呪いを周囲にまき散らさずに、少女の心臓を破壊していく。
「ケトスちゃん……っ、ありがとう――! わたくし、あなたと出逢えて本当に、嬉しかった……楽しかったですわ!」
最後の別れを告げる聖女は微笑んでいた。
満足しきった顔で。
唇を動かし――そして。
「さようなら……可愛いケトスちゃん。わたくしの……救世主様」
パリン……ッ。
魔道具の砕ける音が響き。
女神の心臓に溜まっていた呪いが浄化という形で解放されていく。
それは純粋な祈り。
願い。
少女の中にあった世界を呪いし女神の心が――砕けて散ったのだ。
どさり……。
崩れる少女の背は動かない。
ウェールちゃんは、また動かなくなった。
女神の心臓がなくなったのだから、当たり前だ。
次第に肌が白くなっていく。
血の気が引いていく。
これが人の死なのだと、私は知っていた。
不老不死の聖女は、平和の祈りによって滅んだ。
筈だった。
しばらくして。
頬に赤みを取り戻した少女の唇が、僅かに言葉を漏らした。
「あら……どうして」
血流の戻った手で身体を支えて、起き上がり。
少女は自らの手を見た。
「どうして――わたくし、滅んでいないのかしら。確かに、心臓の消滅をわたくし自身も確認したのに」
少女は猫を見た。
答えを探るように。
黒き魔猫の私を、じっと見た。
意地の悪い顔をして、私は言う。
『その破壊陣を囲んでいる蜜蝋。力あるその魔道具は実は魔族でね――私の眷属で部下で友達で、血塗られた栄光の手っていうんだけど。彼らは――願いを歪んだ形で叶えるという、魔道具でね。ある意味で君と同じく、聖者の遺骸から作られた聖遺物そのものなのさ』
「歪んだ形で、叶える……」
少女の唇から零れた言葉。
その一つ一つを拾い上げるように、ニヤリ。
私は穏やかな声で返す。
『ああ、君はみんなのために自らの平和を祈ったんだろう? 私は気まぐれで天邪鬼でへそ曲がりで、いつも側近を悩ませている――部下達もそんな私に少し似ているのさ。悪戯好きな部分も含めてね。君の平和への願いを、歪んだ形で叶えてしまったんじゃないかな』
人型の姿となった私は、すっと彼女に手を伸ばす。
魂と肉体を確認し――。
告げる。
『君の中には――新しい心がある。栄光の手により歪められた願いの通り、女神の心臓が破壊された代わりに人間の心臓が存在している。ただ破壊するという願いを、歪曲して人間の心臓へと変換してしまったわけだ。変換だって分子分解と配列置換の魔術――拡大解釈すれば破壊のようなものだ。まあ残念ながら長年女神の心臓で動いていた影響で、君はまだ不老不死となっているだろうし、力もほとんど失っていないだろうが……それでも、君の心臓を破壊したとしても世界が滅ぶことはもう、なくなったはずだ』
大魔帝の言葉が少女の髪と心を撫でる。
少女の目が揺らいだ。
『女神の心臓は破壊された。これで、君は自由だ。いままでよく頑張ったね。私は君を尊敬する。誇りなさい――君はこの大魔帝ケトスを召喚したんだ、この世界の救世主だよ』
呆然とする少女の頭を教師の顔で撫でてやり。
少しセリフが臭かったかと恥ずかしくなり。
ぶにゃん♪
姿を猫へと戻して、精一杯の猫笑顔で微笑んでやる。
自らの胸に触れる少女の指。
その振動を確認して――それが人間の鼓動だと理解したのだろう。
瞳がハッと広がっていた。
しばらくして。
少女の唇だけが、動く。
「栄光の手さんは、大丈夫なのかしら」
『にゃはははは! 大丈夫、彼等も私の部下だからね。少女一人の願いくらいなら、ほんのちょっと魔力を使ってしまっただけさ。明日になれば、全回復だよ』
肯定するように、ふよふよと浮かんで。
血塗られた栄光の手たちはブイサイン。
上空で見守っていた黒マナティ達のもとへと戻っていく。
まあさすがにちょっと辛そうだが――彼等も紳士なのだろう。女性を気遣い、大丈夫だよと空を舞い続ける。
彼等は世間からすれば邪悪な存在だ。
きっと、私も邪悪な存在だ。
けれど。
少女の祈りと願いを無下にする程、外道ではない。
戯れ集う邪悪なる者達を目にして。
唇を強く噛んで。
聖女は――言った。
「みなさま……っ、ありがとう、ございます――」
『私は君の願いを叶えただけだ。召喚主との制約に従っただけ。すごーい! ことだけど、まあ、私は大魔帝ケトスだからね! これくらい、朝飯前! 八枚切り食パンを、一度に全部噛み切る事よりも容易いさ』
ブニャハハハハハ!
ドヤる私に反応し、栄光の手も黒マナティも賑やかに空を泳ぐ。
「ふふ――なら、わたくし、ちょっと失礼させて貰って。残りの料理も頑張って作って参りますわね」
『いや、ブリ照りだけでも大丈夫だよ?』
心臓が変質したばっかりだし。
無理をしなくても。
そう言おうとした私に背を向けて。
聖女は声と肩を少し揺らして、ふふふ。
「あら、ケトスちゃんもまだまだ紳士さが足りませんわね」
『おや、私はこれでも紳士で評判なニャンコなんだけどな』
明るい声で、聖女は言った。
「だって、駄目ですよ。お化粧も崩れてしまいますから……女は――殿方に泣く姿をあまり見られたくないものなのです」
それは確かに。
配慮が足りなかったかな。
『どれだけ時間がかかってもいい。とびっきり美味しい料理を期待しているよ』
「すぐに終わりますから、待っていてくださいね!」
運命に翻弄された少女ウェール。
孤児となり、実験体にされ殺され。
少年と女神の祈りによって神の心臓を与えられ、再び動き出した乙女。
その力を認められ、戦い続けた聖女マイル。
彼女にも彼女の物語があるのだろう。
私の知らない物語が。
きっと、たくさん泣いたのだろう。たくさん嘆いたのだろう。
一人の少女。
人間の物語に思いを馳せながら――私は静かに瞳を閉じた。
彼女の作る美味しい料理の香りが、神殿に広がる。
あれは……。
塩をまぶしたジャガイモを蒸している香りだろうか。
カボチャを切る包丁の音だろうか。
時折に、音が止まるのは――涙を指で拭うからだろうか。
様々な想い。
様々な感情が少女の中を巡っているのだろう。
止まる世界で聖女と魔猫。
二人は穏やかな食事の時間を待つ。
モフ耳を傾けた私は、悪い猫の顔し――ニヒィ。
カタリ。
ブリ照りの落し蓋を少し傾けて――つまみ食いをしながら待った。
料理を手に、彼女が戻って来た時。
その顔はもう、すっかりといつもの天然聖女に戻っていて。
つまみ食いをする私の猫手を見て。
ふふふ、と笑った。
少女は、本当に楽しそうに――。
笑ったのだ。




