死にゆく女神の断末魔 ~【SIDE:原初の神リールラケー】前編~
【SIDE:原初の神リールラケー】
かつて人間達だった肉塊が浮かぶ試験管。
様々な邪悪な儀式が行われた実験室の先で――女は張り裂けそうな程の慟哭に胸を打たれ、必死になって逃げ惑っていた。
美しさを追求したその身も魔力も、既に限界を迎えようとしている。
「早く、早く……、魔力――解放。筋力、増強。速度加速……っ、なんで、このあたしが、女神リールラケーが! こんな、こんな……っ、原始的な肉体強化なんて、惨めな魔術を……ぁ……ぁ……っく、はぁ……ッ」
足がもつれて転びそうになりながらも、女は魔術でその身を強化し。
走る。
惨めな逃走劇は女神の美貌を滑稽にし、何百年と保っていた高慢だったそのプライドを……ナイフで削り取るように、ぎしり……ぎしり。
狭き肉を裂くように――抉り。
掻き回し。
裂き続けていた。
切られ、折られ。
陵辱されていくプライドをかき集めるように、女は自らの胸に手を当てる。
――こんな筈ではなかった。
――こんな惨めな役柄っ、あたしに与えられていい筈がない――!
こんなこと、あっていい筈がない。
それが、かつて楽園に住んでいた女神。
原初の神リールラケーが惨めに這い回りながら、心の中で何度も繰り返し叫んでいた言葉だった。
本来なら甘えた言葉を放つ筈の唇からも、惨めな言葉が勝手について出てしまう。
「どうして……、どうして――っ、だってあたしはリールラケーよ? おかしいじゃない! だって、女神なのよ! 何も悪くなんて、ない筈じゃない、こんなの間違ってる、間違ってるわよッ……!」
ドクンドクン。
心臓の音が止まらない。
どうしようもない不安に押しつぶされそうで、彼女の視線は周囲を探る。
逃げ込んだそこは、次元軸がずれた場所に設置されたローカスターの儀式神殿。
大規模な工場となっている、リールラケーの最後の砦。
あの実験室の先にある隠し空間。
この座標に転移した彼女は即座に走った。
ここは――本来なら絶対に発見されない世界の裏側。
けれど。
ここが見つかるのも時間の問題だと察していたからだ。
大魔帝ケトスとはそれほどの怪物なのだ。
その一点だけには、妙な確信があった。
「筋力増強……っ、神速解放。あと、強化の魔術は……なにがある、なにがある、なにかあるはずよ!」
彼女はただひたすらに防御と回避の魔術を多重に掛けて――逃げ回る。
「なんで、なんでなんで! なんで、あたしが……!」
こぼれそうになる涙を必死に堪えて。
まるで一方的な被害者のように、女は鼻を啜り駆けずり回る。
女神の彼女にとって――自らの身を隠蔽する魔術など、滑稽で惨めで。
けれど、使わないとどうしようもない。
リールラケーが生き残る術はただ一つ。
プライドも矜持も捨てて――逃げの一手を打つしかない。
もっと並列して魔術を使わなければ。
そう思い、彼女は念じる。
「我が眷族たる果実銜えし蛇神よ――っ!」
そこでようやく気が付いた。
いつのまにか、眷族の蛇たちを失ってしまっている。
逃げる際に、落としてしまった?
――仕方がない。死ぬよりはマシだわと――爪の先を齧りながら女は頭を切り替える。
蛇たちの消失の原因は?
本当に見失ってしまっただけ?
分からない。
いや、楽園にいた時から付き従ってくれていた彼らが、自分を裏切る筈がない。
魔術的な接点を消失、支配権を一時的に失ってしまったのだろう。
蛇は問題ない。
後で魅了し直せばいいだけの事。
ならば次の問題は? 相手はいまどこにいる?
意識を集中させる。
すると――。
ひた……ひた、ひた。
聞こえてきた。
とてとてとて。
とてとてとて。
肉球の音だ。
追手はそこまで迫っている。
「っ……!」
唾を飲み込む音が、女の中で響き渡る。
けれど。
大丈夫。大丈夫。
焦る心臓を押さえつけて、彼女は自分に言い聞かせる。
まだ距離はある。
走って、走って、走り続けた。
そして、こう思っていた。
どうして、女神たる自分がこんなひどい目に……あんまりじゃない……っ。
と。
けれど。
彼女は同時にこうも考える。
生きるためには、考えないといけないのだ。
走る彼女は違和感を覚えていた。
いつもの儀式神殿ではない。
なにかが変わっている。
ダンジョン化の影響?
大魔帝ケトスが何かを仕掛けてきた?
生き残る術を、全力で、全身全霊を掛けて考え尽くす。
――本格的な転移魔法陣を組もうにも、時間が足りない。そもそも、妨害されることは目に見えている。なら、せめて更に身体強化をして現実の軸へと次元を戻し逃走を……。いえ、まずは――眷族共を取り戻し、囮にするべきか。
眷族を呼ぶ魔法陣を展開しようとした、その瞬間。
違和感が、倍増した。
目の前の空間がぎしりと、いびつな音を立てていたのだ。
ぎぎぎぎぃ……。
ぎぎぎぎぎぎぃ……。
なにかが、見ている。
空間を裂く、異形な音。
ズズズズズゥ――家畜の肉を裂くような音が響いて、空間に割れ目が生まれた。
紅い瞳が。
見ていた。
ぎらぎらぎらと、獣達の瞳が見つめていた。
猫達が見ていたのだ。
次元の隙間にいたのは、膨大な数の黒猫。
それは、大魔帝ケトスの眷属だったのか。
そして、紅き無数の瞳の下。
牙をギラつかせる咢が、ギシリと蠢き。
猫たちが語りだす。
ウニャウニャウニャ。
ギニャハハハハハッハ!
次に、ようやく。
獣の声が響いた。
『見つけた』
声が、響いた。
響いた、響いた。響いた。
『見つけた。見つけた。見つけた』
猫の声だ。
そう、猫の声なのだ。
「うそ……なんで……っ」
こんな筈じゃない。
こんな筈じゃない。
こんな筈じゃ、無かった筈よ!
『こんな筈じゃない? じゃあ――どんな筈だったのかな?』
「ひぃ……っ!」
声は、突然耳元で聞こえた。
暗闇の中で、不意に獣の呼吸音が現れたのだ。
『なんで、あれほど逃げたのに? とでも言いたげな貌だね』
獣の声が、遠ざかっていく。
『次元を渡るんだ、距離なんて関係ないって君だって知っているだろう? ローカスターどもの工場は後で潰そうと思っていたんだけれど、なるほどここにあったのか――探す手間が省けて助かったよ』
そして。
それは突然、顕現した。
目の前で。
蠢く獣が、ぎしり、ぎしり。
形容しがたき異形な牙を覗かせて嗤っていた。
とてとてとて。
コミカルな仕草でぶにゃはははは!
笑っている。
笑っているが――。
闇の獣は神殿を見渡し、すぅっと瞳を細めている。
『考えは決まったかい?』
声の主は、もちろん大魔帝ケトス。
楽園を滅ぼした男、なぜかその名を口にできなくなったあの男の最も強き部下。
腹心として従えし三獣眷属の一柱。
時間を稼ぐ意図をこめて、女は震えあがりそうになる唇を振り絞り。
なんとか言葉を発していた。
「あら、大魔帝ケトス。ずいぶんと余裕じゃない? 追い詰められたのが自分だとは知らずに、愚かね? どうして、ここが――わかったの」
『君が逃げるからに決まっているだろう? なにを当然なことを聞いているのさ』
からかうように言うその猫の口は達者だが。
その目は嗤ってなどいなかった。
ただドス黒く。
全てを憎悪するようにギラギラギラ。
瞳は血のように紅く染まり、燃えている。
「忠告するわ。いま帰るのなら、見逃してあげる。ここはあたしの聖域。どちらが有利なのかは、分かるでしょう?」
『ハッタリだね』
まさか、これほどに悍ましくも圧倒的な存在だったとは――。
全てが完璧だった筈のリールラケーは、美貌を崩し……血が滲むほどに唇を噛んで、悔しさを噛み締める。
息を呑んで、声も魔力も漏らさないように屈辱に耐え。
相手との距離を測る。
――まだ、大丈夫っ……、まだ、離れている。けれど……っ。
恐怖が、全身を伝う。
ただふっくらとした大きな黒猫なのに――まるで、世界全てを呪い妬むようにその内は、ギラギラギラギラ、揺れている。
恐ろしい。
だからこそ、黙っていることなどできなかった。
虚勢が剥がれ。
喉が勝手に動いていた。
「ここは――あたしの神殿。あたしの領域よ――! あなたを倒すことはできなくても、逃げることぐらいは……っ、できるはずよ!」
『へえ、やってごらんよ。いいよ、鬼ごっこかい? じゃあ始めよう。十秒、待ってあげるよ。どうぞ、逃げてごらん』
黒猫の声は魔導契約書になって、空に魔導文字を刻み始める。
十秒の自由を。
それは契約となって、大魔帝の行動を制限した。
アレは彼女に、十秒という逃げる猶予を与えたのだ。
完全に、遊ばれている。
馬鹿にしている!
リールラケーは込み上げる屈辱と恥辱に、ギリリと心臓を握られたが――その十秒を拾わないわけにはいかなかった。
一秒、それだけで覚悟を決めるには十分だった。
残りの九秒で、女は――やれるだけのことをすると決意を行動に変える。
「その油断。あとで必ず後悔させてあげるわ……っ」
言って。
女は強化魔術を増幅させた結界の中に入り込み、空間を掌握。
必ず生き残る。
女は決意を胸に、神殿の隙間にその身を滑らせ闇へと消えた。
◇
十秒の時間。
それは転移陣を張るには足りないが、空間を渡り別の祭壇に飛ぶには十分な時間だった。
増幅された強化魔術を纏う彼女は神殿を駆ける。
全身全霊の逃げだった。
それでも、知っていた。
あれから逃れる事は出来ないと。
とてとてとて。
頭の奥。
どこからともなく、音がするのだ。
柔い肉球が、冷たい床を悠然と歩く音がするのだ。
見えないのに、見える。
悠々と我が物顔で闊歩するあの魔猫の太々しい貌が。
やはり。
音は現実だった。
とてとてとて、とててててて!
彼女にとっては死を告げる者の足音。
「ち、近づくんじゃないわよ――っ!」
溜めた魔力を直接、閃光状にして放出。
威力は皆無。
閃光そのものを目的とした、攪乱だ。
成否を確認することなく、振り返らずに女は神殿を進む。
昏く湿った無人の神殿を走り、まるで子どものように爪を噛んで嗚咽を殺す。
――やったかしら?
『残念。目くらましにもなっていないよ、お嬢ちゃん』
「っ……!」
――心を読まれていた!? じゃあ、ここに逃げる事も、悟られていたってわけじゃない!
リールラケーは読心術を防ぐ結界を慌てて追加し、惨めさに瞳を震わせる。
逃げても逃げても。
黒猫はどこまでも追いかけてくる。
ひたひたひた。
とてとてとて。
揶揄うように。
わざと恐怖を煽るように。
ゆっくりと。
けれど、絶対に見失わず。
リールラケーは何か手を打たなければと考える。
周囲を探ると見えるのは――巨大な柱と肉の色をした柔い神殿の壁。
神殿の壁に埋め込まれた、愚かなる人間達の遺骸だ。
これはローカスターを生み出すために自ら望んでその身を捧げた人身御供。魔力飛蝗と肉塊との合成儀式を支援する、生贄達。
彼女を神と崇め。
全てを受け入れ感謝を述べながら死んだコレらが、今――虚ろな瞳で逃げる女神を眺めている。
「なによ、その貌は……。あたしはアンタたちの神よ? 恨むなら自分の愚かさを恨みなさいよ……。みないでよ……、みてるんじゃないわよ――っ!」
はぁはぁはぁ……と、荒い息で肩を揺らし。
髪を掻き上げ、自らの尖る眉間に手を当てる。
叫んだ後で、それがとても滑稽な事だと気がついたのだ。
リールラケーはますます惨めさに臍を噛む。
「この肉塊を儀式素材として使えば……まだ、なにか、なにかあるはずよ」
『ふーん、これが本部の連中って奴らかな?』
足元から、声がした。
恐る恐る下を向くと――そこには鑑定魔術を瞳に滑らせる黒猫がいて。
『この人たちは……あー、助ける必要はなさそうだね。君に誘導されるまま、君を神と崇めて満足して逝ったのか。ある意味幸せだね。君がこんなに薄っぺらい神だとは知らずに、自分の肉片がローカスターになれることを願いながら埋め込まれたのだから』
その紅き瞳は、全てを見通しているのだろう。
永遠に破片を提供し続ける死骸から、過去を覗き見ているのだろう。
それはおそらく、心を覗くネコの魔眼。
リールラケーは思った。
この目で今、見られてしまったら――自分が惨めに怯えて、震え上がっていると悟られてしまう。
心に結界を張って、矜持を守ろうと女は必死に魔術を詠唱する。
そんな女神に目をやって、黒猫は猫口を――。
ぎしり。
『そうか、見られたくないんだね?』
「見ないで……っ――!」
叫んで女は走る。
『その程度の結界じゃ。私の瞳からは逃れられないよ? 君の心を当ててあげようか? どうしてあたしがこんな目に……っ。かな? 嫌だよねえ、自業自得を認められない人ってさ? ああ、ごめん、人じゃなくて楽園のウジ虫か。おや、ウジ虫といわれることは不服かい? なら、せめて私を楽しませてごらんよ。いいねえ、その貌は。あーごめんごめん。どんな顔をしているか、自分じゃ分からないか。なら――今、君がどれほどに惨めに泣いているのか、語って上げてもいいけれど。どうする?』
逃げる先々で、闇の中から口元がぎしり。
哄笑と共に、ヤツは現れギラギラギラと紅い瞳を輝かせる。
その瞳にあるのは――憎悪。
憎悪。憎悪。憎悪――口では道化のように揶揄する言葉が漏れているのに、その目はやはり、嗤ってなどいないのだ。
愛らしい猫とて、元は野生の生き物。
時に残酷な狩りを彷彿とさせる、特異な行動をみせることがある。
そう――こんな風に。
逃げる的に向かって黒猫は、とてとてとて。
愛らしい肉球をぷにぷにさせて、冷えた神殿の床を渡り歩く。
追い詰められて――それでも逃げながらリールラケーは周囲を見渡した。
あるのはただ。
動かなくなった肉の壁たち。
信者たちの生贄柱。
「いやよ、いや……っ、だって、あたしは女神なのよ? 楽園に住まい、下々の者から傅かれる絶対的な存在の筈でしょう!?」
『楽園は滅んだ――君も知っているだろう』
今度は頭上から。
黒猫の声が響いた。
焦りが焦りを生み、冷静な判断ができなくなっているのだろう。
女はローカスターを生み出す鮮血の神殿を駆けながら、机の上に並んでいる祭具を落とし――。
そして。
はっと気が付いた。
それは異界の神々を模したレプリカ。
楽園でも使われていた異神の力を封入した、魔道具。
女の瞳が、古ぼけた祭具に奪われて。
その口角が、にひぃと歪んで微笑んだ。
――なんだ、ほら、やっぱり。最後に幸運の女神が微笑むのはあたし、正しい行いを為す者だけ。
落ちた祭具を握りしめ。
反転。
惨めに逃げ惑う格好からそのまま、祭具に込められた力を発動させた。




