悪夢の終わり ~救済と罰~その3
自らが殺した無辜の魂たちに蝕まれて――女神の末裔ダイアナの身は呪われていく。
怨嗟の霧が動く度に、女の身体が蠢いていたのだ。
霧が手をあげると、女は手をあげて。
霧が顔を上げると、女は虚ろな顔を上げる。
狐憑き。
そんな言葉がしっくりくるのかもしれない。
支配は既に完了した。
悪霊たちの復讐劇が開始される。
ブゥゥォォォン……。
鈍い音と共に、空間が魔力で塗り替えられていく。
完成された呪術が――発動。
私を含める周囲に、憎悪の魔力による精神感応フィールドが発生し始めていたのだ。
不意に現れたのは、麦の茂った草原と崩れかけた一つの小さな家。
『これは――呪縛されたダイアナくんの見ている幻影か』
それは私たちの脳にも微かな影響を与えているのだろう、私の視界には迷宮ではなく草原が映っていた。
場所は分からないが、おそらくはダイアナくんの思い出の地。
なのだろうか。
私の精神に影響はないが――。
この呪い。
少し危険だな。
見る者の精神内に直接、魔力で無理やり幻影空間を上書きするから影響力がかなり大きい。
催眠術などと同じく、幻影系の魔術は見る者の精神を蝕んでいく。
それは対象者のみならず、それ以外の観察者にも影響を与えてしまうことがあるのだ。
私は精神に影響を受け始めている神の眷属達に目をやった。
彼女たちは……ここまでかな。
精神を守る結界を二重に張り、引き締めかけた顔を緩めた私は――これまでの健闘を褒めるように微笑みかける。
『さて、君達はよく頑張ったね。まだ神の眷属達もちゃんとやっていけそうだって確認できてよかったよ。さあ、少し……休み給え。目を覚ましたらおそらく全てが終わっている筈だから』
「待って、黒猫様! わたし……っ、どうしてもあなたに確かめたいことが――!」
聖女カトレイヤが私の紅き瞳の輝き、光に手を伸ばし何かを叫んでいた。
けれど、私の魔術とそれは同時だった。
既に肉球を鳴らした私は、聖女騎士カトレイヤ君と取り巻きくん達を眠らせていた。
聖女が何かを言いかけていたが、それはまたいつか出会ったときにしよう。ホワイトハウルに天界のグルメをご馳走して貰う約束になっているしね。
彼女たちがいるのならホワイトハウルを神に任せても大丈夫なのかな――と。
そう思い始めていたし、ちょっとだけ気にかけてしまうのである。
カトレイヤくんは途中から明らかに口数が減り、動揺したままだったし。
何か気になる事があったのか。
それとも、私の試練やダイアナくんとの対峙で精神を消耗していたのか。
それは分からないが――。
急激に能力を成長させたこともあり、心身ともにそろそろ限界だった筈なのだ。
聖女が持つという未来予知の能力、神託を使い過ぎた影響も結構バカにできないのである。
少し休ませてあげた方が良いだろう。
おそらく、ここからはだいぶシリアスになるだろう。
私もまた玉座からトンと降りて、真面目な貌で草原の中を歩く。
さわりさわり。
草原の感触が肉球に刺さる。
感触のある幻影を生み出してしまう魔道具。
それを作り出したフォックスエイルの評価は、あまり認めたくないけれどかなり上がっているとは思う。
悪霊の影が私をじっと眺めていた。
邪魔されるのかと警戒していたようだが、私は首を横に振った。
死者たちのダイアナへの復讐を止める義務などないし、そもそも彼女を助けるつもりなど私にはない。
相手は女性なのに冷たい……そう、思われてしまうかもしれないが、彼女はそれだけの事をしたのだ。
憎悪を力の糧としている私には、悪霊たちの怨嗟が理解できてしまう。
酷い虐殺だった。
酷い略奪だった。
だから。
最終的に、情報を引き出せる状態になるのならば、それで構わないとシビアな考えが浮かんでいる。
これは拷問よりも酷い事になるかもしれない。
間違いなく、女は持っている情報を開示するだろう。
心のどこかで冷めた私が復讐者とその対象を、紅い瞳で眺め続けていた。
私の冷淡な思考。
憎悪が共鳴したのだろう。それを合図にしたかのように、幻影の中に人影が生まれだした。
幻影の草原に立つ影。
独特な魔力をもつ、一人の人間。
アレには見覚えがあった。
人の器でありながら、遥かに人を凌駕した――怪物。
勇者。
その幻影を前にして、ようやく本格的な動きが起こり始める。
女神の末裔。
頑なだったダイアナの唇がようやく、動き出した。
「もしや……あなたは――っ」
虚ろな彼女の瞳にも勇者の幻影が見えているのだろう。
自らの手を血で汚しても、神の許にありながらも隠れて動き続けていた彼女。
その本懐。
愛しき者との再会。
呪われし女の瞳に輝きが戻っていく。
彼女にとってはどれほどぶりの再会なのだろうか。
「ゆうしゃ、さま?」
勇者の幻影が、腕を伸ばして――女を呼んだ。
それだけで女の心は囚われた。
「ほんとうに、ゆうしゃさま、なのですね……!」
女の足が動き出す。
尖る草原の葉が女の素足を僅かに切る。
ここはやはり彼女にとっての思い出の地なのだろう。
良い思い出なのか、悪い思い出なのか――それは判断できないが。
切れた足に構わず、女は駆けていた。
瞳を揺らし、息を切らし。
愛しき者のもとへと駆けた。
私を殺すはずだった折れた槍さえ忘れて、ただひたすらに駆けていた。
何もかも捨てて――女は弱き女性へと心を戻してしまったのだろう。
幻影の草原を駆ける脚には、既に戦乙女としての力強さは残されていなかった。
ただ一人の女性として、女は足を動かし続ける。
駆けて、駆けて、駆けて――。
やっと女は辿り着いた。
幻影の勇者が今一度、女に向かい手を伸ばす。
女もまた。
何もない空間に向かい手を伸ばしていた。
「やはり……、勇者様はわたくしを迎えにきて、くれた。見捨てたりなど、していなかった」
つぅぅぅっ――と。
揺らぐ女の瞳から一筋の涙が流れる。
女は虚像との偽りの再会に打ち震える。
伸ばすその腕は女の記憶の中と同じなのだろうか。
私には分からなかったが、女はその手を受け入れていた。
真実を見る事の出来る私の瞳には、女がただ虚しく虚無を抱く光景が見えている。
虚構を勇者と認識して、腕を伸ばし続ける。
「うれしい、ああ……やはり、天に召し上げられて、よかった。こうして、あなたと再会することこそが我が望み、わたくしの残りの魂を捧げて……大いなる光なる偽りの主に頭を下げてきた、意味が……あったという、ものですわ」
伸ばす細い指は震えていた。
女神の血というモノはやはり、どれほどに堕ちても美を輝かせるのだろう。
潰され朽ちかけていた肉体の表面が再生していく。
ダメージが回復したわけではない。
ただ表面上の美しさだけが、自動的に回復しているのである。
「ずっと、わたくし……疲れていたの。あなたのいない世界は色を失って……なにもかもが止まってしまって……。わたくし、それが怖くて――たくさんの人を殺しましたの。あなたを再臨させるために……、再びお会いするために――あなたが美しいと言ってくださった……この手を血で穢しましたの」
それが、あの虐殺だったのだろうか。
かつて稀代の召喚術師だったどこかの王子がしていたように、何かの儀式の生贄に使ったのだろうか。
「かつての仲間がわたくしの事を間違っていると、勇者様はこんなことを望んでいないと、いみのわからない罵倒をしましたけれど……あれはやっぱり間違い。わたくしは間違っていなかった……勇者さまなら、わかってくださるって、わたくし、信じておりましたわ……」
過ちの答えを微笑みながら告げて、狂った女は安堵の微笑を浮かべ続ける。
どこから狂っていたのだろう。
彼女の人生はどこから狂い、道を踏み外していたのだろう。
おそらく。
それは勇者が消えてしまってから……。
いや――。
勇者を返したくないその一心で、人を見殺しにしてしまった。あの時点で、既に……彼女の運命の歯車が軋んで、全てが崩れてしまったのかもしれない。
その選択が他者の歯車さえも軋ませたのだろう。
帰る手段を探し求め狂い疲れた勇者の結末、その果てにあった死。
彼女が召喚主を殺さなければ、勇者は魔王様と敵対することもなかった。
私も、魔王様との今を失うことはなかったのかもしれない。
勇者を失ったことで更に狂った女は、勇者を取り戻すために暗躍した。
その暗躍が――おそらく無辜な人間への虐殺。
今、彼女の頭上で怨嗟の呪いを行使する亡霊たちも、殺されることはなかったのだ。
全ては巡り巡る。
ほんのわずかな蝶の羽ばたきが、世界の流れを変えてしまうように――。
悲しい因果の歯車が今、この状況を作り出しているのである。
けれど。
私の瞳には、少女の涙が美しいモノとして映っていた。
壊れていても、狂っていても残酷な女神となり果てても――勇者に会いたいという、その願いだけは純粋で美しい願いだったのだと私は思うのだ。
ただ、他の全てが致命的に間違っていただけ。
滑稽に。
ただ虚影に向かって泣きながら、独り言を囁き続けているだけなのに。
狂い壊れた女の優しい泣き顔は絵になっていた。
どこか物悲しい絵画のように、美しいのである。
怨嗟の霧が絡繰り人形を操るように、魔力の糸をギギギと引く。
すると幻影の勇者も、女も動いて。
感動の再会が行われた。
何か仕掛けるつもりなのだろう。
女の心を蝕むような、何かを……。
幻影の勇者が何かを語りかけたのだろう。
女は微笑んだ。
「ええ、ええ……! そう、そうなのですわ。ふふふ、やっぱり……勇者様は、変わりませんのね」
虚像相手の頬を撫でるように手を当てて。
強く、きつく。
ただ何もない無を抱きしめていた。
虚無の抱擁と気付かずに、女は再会を歓喜し喉を震わせる。
「もっと、近くで顔をみせて、わたくし、頑張ったんですよ。あなたのために、わたくし、ずっと動き続けていたのですよ――」
狂った女は瞳から大粒の涙を浮かべ。
まるで純粋な少女のような笑みを作り、何もない空間に向かって語り続けた。
彼女の精神は深層心理までをも既に囚われ。
幻影に掌握されていた。
「これで悪夢も終わり――……あなたのいない明日に怯える夢をみることも……なくなるのね」
女は酷く疲れ切った顔で、言葉を漏らした。
それは嘘偽りのない本音だったのだろう。
「もう……いいですわ。満足、できましたの。わたくしももう、疲れました。だから、わたくしも――あなたのもとに参りますわ」
死を意識したのだろう。
そして、最後に女は愛しき相手の肩に手をかけ……背伸びをした。
女と幻の影が重なる。
それは最後の接吻、だったのだろう。
虚構の空に貌を寄せて――。
唇を重ねるように、そっと……顔を傾け――。
しかし所詮は嘘の世界。
ただの幻影。
虚像。
ありもしない世界。
これは悪夢。
終わらない、悪夢なのだ。
女を包む霧が手に掛けた糸を、ピン……と引いた。
ただそれだけで、幻影は崩れ出す。
草原は朽ち落ち……世界は壊れて、闇へと包まれていく。
さぁぁぁぁぁぁ――っと。
彼女の幻影が消えていく。
「え……?」
勇者に縋る手が空を滑り落ち、女は地面に落ちていた。
どさり……。
そこにあった筈の草原は無くなっていた。
ただ冷たい闇が広がっている。
掴もうとしていた光は――そこにはないのだ。
「勇者様、どこ……?」
女は腕を伸ばした。
必死になって、伸ばした。
そして。
何かを掴んだのだろう。
私は彼女の視界をハックして、それを見た。
そこにあったのは――……。
勇者の亡骸。
もはや蘇生魔術すらも届かない程に魔力の損壊した、肉塊。
その首筋には、禍々しい一匹の獣が食らいついている。
佇む黒猫。
ギラリギラリと血のように紅い目を照りつかせる猫魔獣は――おそらく、彼女の中で肥大した憎悪の対象である私だろう。
彼女の顔が、悲痛に歪む。
「そん……な、勇者さま……いやよ、いや。わたくしは……もう二度と、あなたを失いたくないのに」
幻影の躯を抱いて。
女は静かに涙を流し続けた――。
ありもしない光を求めて足掻く彼女の呪いは――続く。
幻影の檻はくるりくるりと回り続ける。
◇
魂をフォックスエイルの呪縛に戒められ。
悪夢の草原を走る女は叫ぶ。
腕を伸ばし、細い手を伸ばし――まるで悲劇のヒロインのように無辜な顔色を悲壮に染めて。
勇者を求めて喚き続ける。
「まって、おねがい……いやなのよ、もうたえられないの……」
彼女の視界をハックした私には、その悲痛な場面が見えていた。
何度目の場面転換だろうか。
もう、彼女は何度もこうして絶望に泣いているのだ。
勇者の幻影が振り返り、女に向かい手を伸ばす――が。
やはり、その腕は女の身体を抱きとめることなく、スゥッと霧へと消えて散っていく。
重なり合って、あと少しで届くという場面になると――嘲笑うかのように、勇者の幻影は闇に溶けて消えてしまうのだ。
「……っ、ねえ、どうして……どうして」
しかし叫びは届かない。
何度光を求めても――全てが幻。
悪意の霧の見せるあやかしの中。
虚影は崩れて消えていく。
掴もうとすればするほど、遠ざかって女の必死さを嘲笑う。
女の心を支えていた勇者の影が、闇に溶けて消えていく。
やがて女の腕は止まり。
自らの二の腕を抱き寄せ、静かに、虚しく咽び泣く。
「わたくしを、むかえにきてくれたのでは、ない……のですか?」
髪を乱した女は呆然と周囲を見渡し、地に手を伸ばし、探し回る。
そして気付いたのだろう。
伸ばした先にあるモノが、愛しき者の遺骸だと。
目を見開き、首を横に振って……後ずさる。
「ちがう……、あなたは――勇者様じゃない……ゆうしゃ、さま? どこ? 勇者様、ゆうしゃ……さま」
光を求めて這いつくばる女の頭上で、魔性の光がギラギラと照り始める。
これは彼らの復讐だ。
魔性の霧がギヒヒと微笑み。
糸をツツツと釣り上げる。
再び、勇者の遺骸が浮かんできた。
恨みがましく女を見つめて、揺れている。
どうして、無関係な人たちを殺したんだい――と。
「……いやよ、見せないで、こんなの、ちがう。こんなの、わたくしの知っている現実じゃない……わ」
絶望に打ちひしがれる女の肩をそっと撫でて、魔性の霧は再び糸をつり上げる。
ぎしししぃぃ……と。
魂から女の心を嬲っているのだろう。
しばらく経って――。
ダイアナの瞳に僅かな光が戻っていく。
何事もなかったかのように。
全てを忘れた顔で女神の微笑を零して、誰もいない無に向かい女は言った。
「あら、勇者様。おはようございます……ほら、やはり……。あれは……夢だった。真実ではない幻の夢。ええ、そう。笑わないでください……わたくし、あなたがいなくなってしまう夢を見ましたの」
女は架空の勇者を前にして語り続ける。
「愚かで心弱いわたくしが、恐れてしまったあまりに見た悪夢。あり得るはずのない未来を見てしまっただけ……ふふ、ごめんなさい。勇者さまが、わたくしを置いて、消えてしまう筈なんて……ないのですから」
腕を伸ばし、縋りついて……女は幻影の虜になっていた。
幻の意識の中で、彼女は彼女だけの朝を迎えたのだろう。
再び始まる悪夢とは知らずに……。




