魔帝の誓い ~あの日みた黒き獣の背中~
時間を停止していた事も気になっているのか。
魔狼は私に問う。
『ここに、何かが仕掛けられていたのか? いや、何が仕掛けられていたのだ』
『おや、断定かい。んー、なんて言ったらいいのかな。ここはもうダンジョン領域の中だったんだよ。仲の悪い攻略パーティーの心を試すしょーもない罠が仕掛けられていたのさ』
言って。
私は指を鳴らして見せる。
ダンジョンの奥から流れ出ていた瘴気と迷宮要素を可視化できるようにしたのだ。
次元の狭間だった場所に迷宮が出現していく。
まだ名も無き神話級ダンジョンの第一領域。
もし私が名前を付けるとしたら瘴気の平野。
そんな、ありきたりな名が浮かんだ。
魔狼は突如顕現した迷宮を見渡し、犬歯を覗かせる程に口と目を開いた。
『な……ッ、なんだこの膨大な瘴気と迷宮構造は!』
『既に私達は迷宮を進んでいたという事さ。こういう罠もいいよね、今度真似してみようかな』
『なるほど……道理で部下たちがいつも以上に混沌としておったのか。すまぬ。我は――ダンジョンに入る前だからと油断をしていたようだな。おまえが居なければ、どうなっていたことか――』
安堵したような息を彼は吐くが、対照的に私の心は揺れていた。
『……まあそうだけれど。いいや、はっきり言っておく。たぶんこれ、まともな精神の持ち主だったら掛からないような低レベルの精神トラップだったと思うよ』
『なにがいいたい』
『人間程度の最低限の倫理観があったのなら、どうとでもなる、影響を受けないような瘴気だったということさ。まあ私みたいな憎悪の魔性、悪心の塊なら、多少は影響も受けたけど……君たちは曲がりなりにも神族なんだろう? それがあの精神汚染。すこし、異常だよ。それほど、今の君達神族は腐っているという事だ。君がじゃなくて、組織全体がね――私はそれが……少し心配だよ』
『すまん……』
もし、神族たちの腐敗を知っていて。
それを試すようにこの罠を仕掛けたのなら――相手は神族たちに詳しい存在ということになる。
ならばおそらく次は……善の暴走を――問う試練が……いや、考え過ぎか。
『いや、私に謝罪されても困るんですけど……別に神の眷属たちが腐っていても、私には? なんも? 関係ないし?』
『それでもおまえは、我を案じて……我慢をしてくれていたのだろう』
ドヤりと口の端に濃いシワを刻んで魔狼は微笑む。
ちょっと照れ臭くて、私は口をとがらせてみせた。
『まあ、君の顔を立てると約束したからね』
『ありがとう、友よ。しかし――どうか、我を連れ帰るというその考えは……しばしの猶予を与えてくれると、我は助かるぞ』
魔狼は僅かに魔力を放ちながら、私を見る。
まっすぐに。
自分の選択を告げるように、私と対峙していたのだ。
私もまた、その魔力につられて少し魔力を零し始める。
とりあえず。
真意が分からないので、私は無難な答えを返した。
『えーと……何の話だい?』
『我は裁定の神獣。そなたの嘘も真実も――全てお見通しだ』
魔狼は嬉しいような、困ったような。
けれど、はっきりとした拒絶の色を浮かべて、眉を下げた。
私も眉を下げて、和やかに答えた。
『そうか。うっかりしていたよ――うまく隠せていると思っていたのだけれど、失敗だったね』
けれど。
静かに蠢く魔力は臨戦態勢を取ろうと尖り始めている。
『すまぬがケトスよ。友だと、仲間だと、魔王様の家族なのだと我を認識してくれている、その心は嬉しいが――我はまだ、彼の地を離れられない。少なくとも、主の弱体化が回復されるまではな』
『分かっているよ。だから、この私が、君よりも神なんかを優先して――我慢をしたんじゃないか』
今の私はどんな表情をしているのだろうか。
おそらく。
無。
だと思う。
本音を言うならば、大いなる光などという神になど興味はないのだ。
私が興味あるのは、あの日の香りと懐かしさを運んでくれる情景だけ。
深淵の底。闇の中から腕を伸ばし、迷い揺れる魔狼のその頭を優しく撫でてやりたくなっていたのだ。
もう、いいのだよ。
と。
けれど。
私はその願望を抑え込んで静かな笑みをこぼしていた。
それはきっと、彼の望みではないと知っていたからだ。
私の零した無の微笑から感情を読み取ったのか。
ホワイトハウルは遠くを見ながら――呟いた。
『魔猫よ、そなたは……本当に我の居ない所で成長していたのだな。お眠りになる魔王様の御前で、独り、全てを拒絶し咽び泣き続けていたあの日にはなかった……精神的な強さを感じる程に――な』
それはおそらく、魔王様の眠った日。
『あの日の私は……そんなに頼りなかったかい?』
サバスくんも、古参幹部達も。あの日の事は――あまり口にしない。
私にも、あの日々は――あまり記憶に残っていない。
ただ、終わらない雨をいつまでも眺め続けていた。
ただただ。
黒い雨を浴びて、黒い身体を濡らし、終わらない雨を眺めていた。
そんな景色がイメージとして浮かんでいた。
私は、泣いていたのだろうか。
『いや、そうではない。ただ我は――無邪気さを捨て、世界を呪い、全てを憎悪し泣きじゃくるあの時のおまえを見るのが少し……辛かったのだ。我には唸り鳴くそなたを見ていることに……耐えられなかったのだよ……魔猫よ。我にもう少し力があれば、魔王様を御守りできたのではないか? 我がもう少し知恵をつけていれば、お前を泣かせる事もなかったのではないか。そう、何度も自問して――その果てに、我は魔王城を離れた』
それが――君が袂を分かった理由だったのだろうか。
私には分からないが、きっと理由の一つだったのだろうと思う。
あの時期の私は――全てを拒絶していたのは確かだ。
魔狼が喧嘩をしかけてきても、応えずに……私はただ天を睨んで鳴いていたのだと思う。
『君たちが居なくなってしまったのは――私のせいだったのかい?』
魔狼の言葉を胸の中で考え呟いた私に、彼は首を横に振った。
『我は強くなりたかったのだ。皆を守れるほどに、自分の愛する者を守れるほどに。そして何より、もしそなたが暴走をしたとしても止められるほどの力がな』
欲しかったのだよ――と、魔狼は自答するように呟いた。
力を求める。
その心が漏れているのか、彼は腕を伸ばし空を握るようなしぐさをして見せた。
それはまるで、神の力を奪うかのように――。
汚泥を這って、神を呪い睨んだ、あの光に向かって手を伸ばした私のように――。
しばらくして。
ずっと言えなかった、あの日の話をしよう。
魔狼は私を真剣なまなざしで見据えながら、そう言った。
『あの日、魔王様が御言葉を残され御眠りになられた日。
その数日後のことだ――。
我ら元大魔帝は話し合った。
未来のため、魔王様のため、そして声さえ出せずに咽び泣く魔猫のため。
それぞれの意志を確認した。魔王様の結界をより強固にするため、安全を確保するためにも我らは各地に散る必要があった。
我は魔とは別の力を得るため母なる神の元へ帰り、魔帝ロック……ロックウェル卿は魔王様の御心に従い、離れた地より未来を見通す道を選んだ。
あのニワトリはそなたが世界を滅ぼす未来を予言した、その時にだけ霊峰を下り、未来を変えるために動くと眠る魔王様と約束を交わしたのだ。
他の元魔帝もまた――それぞれに使命を抱いて懐かしきあの地を離れた。
我は――ただ強く、ただただ強くなるために。魔猫の暴走を止める楔となるために神へと昇る事を自らの使命と定めたのだよ。
全ては一人、魔王様を守るために何度も死に、何度も藻掻き苦しみ勇者を噛み殺した――そなた一人にその重責を押し付けてしまった我らの贖罪なのだ』
獣毛がぶわりと膨らんだ。
魔風に靡いて、揺れていた。
『聞いていないよ、そんな事』
『ふははははは、言ったらそなたは反対しておっただろうからな。それがそなたも知らぬ魔帝の誓い。元大魔帝が自らに定めた使命だったのだよ、ケトスよ』
それは、私の知らないあの日の出来事だった。
だから、ロックウェル卿とホワイトハウルはたまに私の知らない場所で連絡を取っていたのか。
私は――私の知らない場所で、手段で、何度も守られていたのだろう。
私は……何度も助けられていたのだろう。
『だから、今のそなたを見て安心した、感心した。
精神的に強くなったそなたを友として、嬉しく思う……だがそれと同時に、我は恐ろしい。
我は強くなった。
あの日のお前を守れるほどに強くなった。
そう――思っていた。なれど、そなたは我の成長をも凌駕する勢いで更なる高みへと前脚を掛けている。今も尚――そなたはその肉球を止めない。その揺れる感情のままに膨大な力を得る。
おまえは――我のためならば、魔王様との思い出を守るためならばと、神族を皆殺しにしてもいいと、今この瞬間も心のどこかで思っているのではないか?』
私は答えなかった。
否定すれば嘘になるからだ。
そして嘘は見破られる。
裁定の神獣である彼は、未来を見せる冥府魔狼印の天秤を見せつけ――続けた。
『もし、我が部下たちが魔王様を愚弄する発言をしていたとしたら。もしそなたが、あの日のまま心を成長させていなければ――魔猫よ、そなたは、その魔力糸を躊躇いもなく引いていたのだろうな』
天秤には――。
ほわいとはうる、と雑な黒ペン文字で書かれた天秤には、神族を消滅させるあり得たかもしれない私の未来が、映しだされていた。
これも、私が教えてあげた文字だったか。
懐かしさと同時に、様々な感情が浮かんでいた。
今の彼の巣。
神族の棲み処である天界、神界。
何と呼ぶのかは正式には知らないが、あの地を滅ぼす私の未来が魔狼には何度も見えていたのだろう。
私の手に繋がる、不可視の糸を見ながら魔狼は瞳を伏した。
そう。
あの時。
神の眷族たちを殺すかと一瞬、思った時、既に私は動いていた。
糸を――仕込んでいた。
あの場にいる神の眷属全員の魂、その生死を自由に操れる状態にまで支配していたのである。
ホワイトハウルの安全に影響があるようならば。
皆殺しにする可能性も。
あったのだ。
私が心で確認した、その後。
魔狼は言った。
『障害になるもの全てを殺戮の海へと沈め、神をも滅ぼし嗤い――ただ混沌と破壊を齎す闇の魔性となっていた筈だ。同意も得ず、許可も得ず……我を――魔王様の元へと連れ帰っていた筈だ。
そしてこれから、おまえはその糸を引いてしまうのかもしれない。
ただ魔王様のためだけに。あの日の思い出を守るためだけに。
それはお前の魔性だ。本能だ。
我にも同じ感情は存在する、だから今更に責めるつもりはない。
なれど。
今の我には――そなたを止める力はない。ロックウェル卿にはできても、我にはできぬ。それが怖くて、悔しくて――情けなくて。なれどそなたが立ち直り強くなった事は嬉しくて……我には分からぬ。もはや、分からぬのだよケトスよ』
魔狼が指摘した通り。
いつこの手に握る命の糸を引いてしまうかは――私にも分からなかった。
私にとって、魔狼は家族でも神族は家族ではないのだから。
邪魔ならば、排除する対象。
ただそれだけの蟻と同義の存在なのだ。
それを知っているのだろう。
無機質な魔猫の顔の前で、魔狼は口を動かした。
『ケトスよ。我はいっそこうも考えておる。そなたも天に上がらぬか? 我と共に――新しき光となり、地上を導く気は……ないか?』
腕を伸ばした魔狼は私に問う。
私は知っていた。
腕を伸ばし、誘う者たちを何度も見た。
私は人間から――心を学んだのだ。
ホワイトハウルも、友も知らない私の成長だ。
きっと彼は腕を伸ばした彼らのように、私のように……寂しいのだろう、と。
私はそう感じていた。




