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恩讐剣 紅葉颪

 遠く仰ぎ見る隙羅山ひまらやまが赤く色づきはじめている。

 また一つ年が過ぎたのだな、と深津牧戻郎ふかつまきもどろうは思った。

 田園の中の小径である。周囲は開けており、その中にぽつり、ぽつりと農家と思しき家屋が立っている。草木の類いも少なからず見受けられるが、背の高いもの、密集しているものはない。だからこそ遠くある隙羅山がはっきりと見え、またその変化に気付くことができた。

 山だけではない。牧戻郎が歩み行く道道に茂る下草もまた、夏の頃の青々とした色を失い、土そのものと同化するかのような色へと移り変わってゆく。それがいかなるはたらきによってそうなるものであるのか、牧戻郎は知らない。ただそれを見て、秋が訪れ、そして過ぎ去りつつあることを知るのみであった。

 村には平穏な気配が漂っている。城下にある長屋町のように、日々細々とした争いが起き、やくざ者や無頼の輩が跳梁しているような場所であるようには見えない。

 このような場所に、まことに高郷征四郎こうごうせいしろうは棲みついているのであろうか、と牧戻郎は訝しく感じた。

 高郷征四郎という男を牧戻郎が探しはじめてから、およそ九年を経ている。征四郎のことを知らされたのは、十三の歳であった。

 牧戻郎の昔の家名が時尾ときおである、と知らせてくれたのは上役の宇和佐鋤太郎うわさすきだろうである。宇和佐の家は、牧戻郎が役目につく以前より深津家とは結びつきの強かった家である。殊に鋤太郎は、牧戻郎が幼き頃より何かと世話を焼いてくれていたという覚えがある。

 牧戻郎がお役につき、鋤太郎がその上役となってからも、態度は変わらなかった。牧戻郎の見る限り、普段の鋤太郎は相手によって態度を変えるような裏表のある男ではない。職分や規律にもどちらかといえば厳しい方だ。さすがに牧戻郎は訝しく思った。

 そうしたところで、ある日宇和佐の家に呼び出しを受け、過去の顛末を知らされたのだ。

 お主のもとの家名は時尾という。わが宇和佐家の主筋だ。知っておろうな。

 牧戻郎は頷くしかない。確か深津家の主筋も時尾家といったはずだ。だが今や、その家名が失われていることも知っている。

「時尾の家が失われているには、仔細がある」

 そう言って、鋤太郎は昔の顛末を語った。

 同じく時尾の分家から失われた家名のひとつに、高郷がある。この家にあった高郷征四郎という男が、時尾家当主の妻に懸想した。

 周囲の目を盗み、ふたりは深い仲になったが、それは長くは続かなかった。

「事態を知った御前はふたりを手討ちにしようとなされた。だが、この高郷征四郎がなかなかの遣い手でな」

 逆に当主を斬り伏せ、出奔したのだという。

 牧戻郎は、あまりの話に相槌を打つことさえできない。ようやくにして、口を開いた。

「それが、わたしの、まことの父なのですか」

「そうだ。そのとき、そなたはまだ二つの歳であった」

 つまり、その妻が己の母なのだ、ということもわかり、牧戻郎は愕然とした思いに捉われた。

「これを聞き、何と思う」

 鋤太郎が、お役目のときのような鋭い目を向けてくる。しばし考えてから、答えた。

「聞きとうなかった、というのがまことの気持ちです。深津の父も母も、わたくしにはよくしてくれ、わたくしも慕っております」

「知らぬ方がよかったこと、というのはあろう。だがそなたが一人前になったときにこれを話すというのが、約定であった。そして、そなたが仇討ちを果たせば、時尾の家は戻されるとも約されておる。これは、わしら分家の悲願じゃ」

 鋤太郎は鋭い目を外さない。

「今日より衿屋えりやの道場に入れ。やりたかろうがそうでなかろうが。これを果たすまでは、そなたがそなたとして生きてゆける道すじはない。すべては、仇討ちを遂げてからじゃ」

 その日より牧戻郎の剣術修行ははじまり、この日までその道一筋に生きてきた。

 そして今、牧戻郎は人気のない農村を歩んでいる。

 高郷征四郎の行方は、中途までは掴めている。出奔した征四郎は各地で強殺を繰り返し、人非道に落ちていると聞き及んでいた。

 生きていれば、歳の頃は四十を越えているはずだと鋤太郎は言っていた。

 いったいどのような男なのか。様々な想いが渦巻く中、牧戻郎の中で最も大きいのはその興味だ。己をこのような退くに退けぬ道に引きずり込んだ、という恨みはある。だが牧戻郎の中においては、その恨みは時尾の血や宇和佐鋤太郎にも等しく向けられている。

 牧戻郎の望みは何より、すべてのことどもから解き放たれることであった。

 ようやくにして、人のいそうな里村へとたどり着いた。

 そろそろ野良仕事を終えようかという百姓をつかまえ、征四郎のことを尋ねる。征四郎がよく用いている名のいくつかを聞いたところ、応えがあった。

「たぶん山に住んでる、あの方じゃねえですかね」

 楊緑ようりょく、と号して庵を結び、地元のものらに読み書きを教えているのだという。牧戻郎の聞いていた征四郎とは違っている。特徴を聞いてみると、頬に大きな刀傷があるという。父がつけたいう傷とは合致している。

 ともかくも、訪ってみることにした。

 夕頃に庵についた。小さな粗末な小屋が、崖に建てかかるようにつくられている。周りは蔓草と葉の広い草木に覆われ、それと知っていなければ、近づいてみるまでそこに人の棲みかがあるとは思えない。そのようになっている。今が春か夏頃であれば、牧戻郎もここまで足を運んですら見つけることが難しかったやもしれぬ。そのようなつくりであった。

 なるほど、隠れ住むにはよい場所である。

 征四郎と思しき人の姿はすぐに見つかった。教導を終えて間がないのか、墨の汚れが目立つ厚手の衣を纏っている。

 その顔を見て、牧戻郎は訝しく思った。

 四十過ぎほどの歳であろう、と聞いていた。だが、その多くの皺に埋もれたその顔と首すじは、到底四十男のそれではない。髪もほとんど白く変わってしまっているようだ。

 六十。下手をすれば七十は越えているか。遠目の牧戻郎にはそのように見えた。

 右頬にはしかと刀傷がある。判ずることができるのはそれだけであった。

 二間ほどのところまで近寄った。男はとうに牧戻郎には気付いている。

「もし、高郷征四郎か」

 大声で呼ばわった。

 男が笑みを浮かべる。唐突に、物腰が侍のものになる。

「いかにも、高郷征四郎でござる。その顔、もしや時尾さまのご子息か」

「いかにも。深津牧戻郎と申す。尋常に立ち合いを願う」

 男が空を見上げた。つられて牧戻郎もやや上に目をやる。

「間もなく日が暮れる。明日。明朝ということでは、いかがか」

 何を、と言いかけて、呑み込んだ。己が、征四郎という男自体にはさほどの恨みを覚えていないことを思い出す。

「よかろう」

 歩き去ろうとした牧戻郎を、征四郎が留めた。

「わが小屋に逗留されてはいかがか。この辺りに宿はありませぬぞ」

「何を」

 征四郎は笑っている。どう見ても、痩せた翁である。敵の家に留まるなど、あり得ぬことだ。だが。

 知りたい。そう、思ってしまった。何より、野宿を経て翌朝斬り合いをするのは避けたい。また、ここで逃げられるのも業腹であった。

 小屋の内で襲われるのであれば、そのまま斬り伏せてしまえばよい。それくらいの自信が、牧戻郎にはあった。この枯れた老人に斬られる像は、まったく思い浮かばない。

「厄介になろう」

 牧戻郎は庵に足を踏み入れた。



 軽い夕餉が出た。

 汁に稗の飯、それに小鉢がついている。精いっぱいのもてなしであろう、ということはわかった。毒を仕込まれているやも、という気にもなったが、それならそれでよい、という心持にもなっていた。

 小鉢は、匂いから大根であろう、ということはわかった。おそらく摺下ろされているのであろうが、何やら赤色に染まっている。

 恐る恐る口に運んでみる。辛い。大根の辛みと、それとはまた別の熱さとでもいうような辛みが舌を刺した。

 慌てて飯をかきこむと、驚くほど穏やかに、辛みは引いてゆく。なるほど、と牧戻郎は感心した。

 飯を終えると白湯が出た。

「それがしが聞いていたのとは、違うようだな」

 聞きたい、と征四郎が言ったので、牧戻郎は己が知る限りの征四郎ことを語った。

「これらはまことか」

「いくつか誤りはありますが、そのようですな」

「これらの話と目の前にいるお主は、いささか違うように見受けられるが。それに、歳の頃は四十過ぎほどであろうと聞いていた」

 征四郎は両目を閉じる。

「九年」

 何かを吐き出すように、言った。

「穏やかに生きる一年と、何ものかから逃げ回り続ける一年。外から見れば同じときの流れであるように思われますが、その実は違っております。そこに費やされた気力。胆力。心力。それはいったい、いかばかりか」

 疲れたのですよ、と征四郎は呟いた。

「拙者がそのような生業を続けられたのは、三年ほどでございましたかな。斬られた方がいっそ楽なのではないか。そのように思うようになり申した。かといって、己から名乗り出ることは叶わず。そうしているうちに、この身は段々と痩せ枯れてきましてな」

 目を開き、白湯をあおる。牧戻郎も残った湯を飲み干した。

「気がつけば。このような仕儀と相なりました」

「左様か」

 牧戻郎が知りたいと思っていたこととは違う。だが、一連の顛末が誰をも幸いにはしなかったこと。それだけは、はっきりとわかった。

 征四郎を目の当たりにしたとき。この男は、牧戻郎の聞いていた征四郎から変わったのだと思った。だがこうして話をしてみればわかる。この男は変われたのではない。ただ疲れただけなのだ。

 征四郎が変わったのだとすれば。それはこころではなく、別の何かだ。

「悔いているのか」

「あのときから、ずっと」

 それだけ聞ければ、牧戻郎には十分だった。あとは、牧戻郎自身が頸木から解き放たれるだけである。

 二人して、浅く眠った。翌朝、目を覚ましたのはほぼ同じときであった。

 支度を整え、庵を出る。向かい合って立ち、互いに刀を抜き放った。

 まっすぐに立つ牧戻郎と違い、征四郎は脚を開き、やや腰を降ろして構えている。まるで、地と一体になるかのような構えだ。

 征四郎の足元、下草が揺らいでいる。僅かばかりの青さを残していたそれらが、みるうちに、土色へと変化してゆく。

 変化してゆくのは草ばかりではない。牧戻郎に対峙する、征四郎の髪が黒さを取り戻し、顔の皺が減じる。腕が、肩が、盛り上がってゆく。

 人であることも捨てていたか、征四郎。

 人は年を経れば弱くなる。だが、年を経るほどにその肉体が強靭になるものがある。樹木だ。

 人や獣の身体は、その巡りが己自身の身体の内で閉じている。だから、生まれ出たそのときより、老いへ向かって歩んでゆく。

 草木はそうではない。常に、天地と繋がっている。己の外へ、何をかを持ち、託し、巡らせている。

 草は一年で生え変わるものも多い。だが樹木は何年も、年を経るたび強く、大きくなってそこにある。征四郎はおそらく、そういうものになったつもりなのだ。

 己の中の何ものかを、己の外へと追い出した。牧戻郎には、征四郎の姿はそのように見えた。

 樹木のごとき肌を得た征四郎が踏み込んでくる。咄嗟に受け止めた。

 剛力。それは先ほどまでの征四郎のものではない。

 すぐさま押し流すようにしてすり抜け、離れる。足ゆきは牧戻郎の方が速い。というより、征四郎はほぼ地から足を離そうとしない。

 呼気を整える。己も天地から力を取りこむように。肌のすべてに、山の息吹を覚えさせるように。

 風が強さを増した。

 山々が赤い。その赤が風に紛れて一葉、二葉と舞う。

 風が巻く。木枯らし。それに合わせ、動いた。

 下から征四郎が斬り込んでくる。迷わず、刃を走らせた。

 征四郎の瞳が驚愕に見開かれる。征四郎の動いた先、その先で赤い葉を混じらせた突風が巻いている。

 征四郎の動きが遅れる。そこを狙ったかのように、牧戻郎の一刃が滑り込んだ。

 血は、さほどにしぶかなかった。

 征四郎が倒れる。その髪と肌は、すでに老翁のものへと戻っていた。

 刀を拭い、納めた。

 征四郎は己の外へ、己を捨てた。だが、牧戻郎もまた、これまで己の外へ己の意志を置いて、生きてきたようなものであった。

 取り戻せるのだろうか。わたしは人に、戻れるのだろうか。

 果たして人は、変われるのであろうか。

 頭を振る。人が変われたかどうか。それを決めるのは己ではなく。きっとそれを取り巻く他者なのであろう。

 巡っておるのは天地だけではないな。苦い笑いを一つ浮かべて、牧戻郎は庵をあとにする。

 赤く色づく山々だけが、その後ろ姿を見ている。



(完)

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