継承剣 上塗
鏝絵、と呼んでいるのだそうだ。
長く伸びる練塀の一番端、その下側に、親父が細やかに鏝を使っている。それが離れた下から現れたのは、盛り上げた漆喰でつくられた亀の姿だった。
「すげえ」
長八は思わず零した。親父がこの界隈では一番の左官屋だというのは知っているし、長八の密かな自慢でもある。だが、まさかこれほどの腕前を持っていようとは、今日この日まで知る由もなかった。
仕事の現場に、はじめて長八を連れてきてくれたのだ。長八が幾度もねだった末のことだ。
「今にも動き出しそうだ」
「だろう。今日のは、いっとう上手く仕上がったからよ」
鼻の頭を掻く親父は、少し誇らしそうに見える。
近づいて見てみる。亀を間近で観察したことなど長八はないが、壁の端の部分に、実物の亀が這っているように見える。もしも色が着けられていたなら見間違えただろう。
「いつもこんなことやってるのか」
「そうだ」
「知らなかった」
そりゃそうだろう、と親父が頷く。この鏝絵というのは、左官屋連中の間で、密やかに広められている。描くのは主に鶴や亀、宝船や七福神などで、これは屋敷の持ち主に福が訪れるように、という縁起を担いでのことなのだそうだ。
そうして描かれた鏝絵は、塀が完成する際には塗り込められ、消されてしまう。
「消しちまうのか」
「そりゃあな。頼まれたとおりに仕上げるのが職人だ。余計なものは、あっちゃいけねえ。こいつは、俺たちが技を磨くために、ちょいと隅をお借りしてるだけよ」
けど、と親父が言う。
「これだけ上手く仕上がったときは、面白えもんが拝めるぜ」
見てろ、と親父が亀を指し示す。長八はそのとおりにした。その技は見事で、どれほど眺めていても飽きない気がした。
しばらく経った頃だ。
「あっ」
長八は飛びのいた。亀の脚が、動いたからだ。
眺めすぎて目がおかしくなったのかと思った。だが亀は確かに、するりと端から内側に向けて動きはじめている。
親父が鏝で塀を軽く叩く。這っていた亀が、地面へ落ちた。落ちた亀は、みるみるうちに白灰色から土の色へと変わっていく。
そうして立派な亀へと変貌した漆喰の塊は、のそりのそりとその場を離れていった。
長八は驚きすぎて、口も利けなかった。親父を見ると、とてもいい悪戯っぽい笑みを浮かべている。
「うまく仕上がったときはよ。ああやって、絵に命が吹き込まれるときがあるんだ」
使う漆喰の中に、ほんの少しだけ、亀の血が混ぜてあるのだと親父は教えてくれた。その血が混ざった漆喰で、姿を寸分の狂いもなく再現できたときだけ、亀はその血から、肉体を再び得るのだという。
「こいつは内緒だぜ」
塀より亀が出で、鶴が飛び立つのは瑞兆なのだという。己の仕事に寿ぎが表れるのを信じて、職人たちは皆、腕を磨くのだ。
そのような職人になるのだと。視界から遠ざかってゆく亀の背を見ながら、長八は決心していた。
晴れて十三の歳になった長八は、左官の見習いとして親父について回ることが許されるようになった。職人連中はおしなべて、頑固で勘の強いものが多い。その中では親父は比較的温厚な質で、怒ったり怒鳴ったりせず、じっくりと教え込むやり方を好んだ。
その年は雨が多く、川からの出水が続いて、川べりの土塀が随分とやられた。その補修に、親父を含め腕のいい左官屋たちは引っ張りだこだった。
もちろん漆喰はもとより土さえ練らせてもらえぬ見習いの長八だが、道具を持って親父の後をいそいそとついて回っていた。
修行には、熱心に取り組んだ。長八が思い寄せるのは、親父がつくり出す精緻な鏝絵だった。親父が仕上げの前に描き出す鶴や亀は、何度見ても惚れ惚れとする。あの幼き日に見たのと同等のものはなかったが、そうであってもどれもが生き生きとした素晴らしいもので、長八を魅了した。
あの日の不思議な出来事は、長八の性格すら変えた。それまではどちらかといえばおしゃべりで、口の軽い長八であったのだが、あの日よりふっつり、無駄な口をきかなくなった。
長八は、自分がつい余計なことをしゃべってしまう質だと知っていた。そのままでは、いつかどこかで、親父の秘密をほろりと漏らしてしまう。親父との秘密を、そして自分のうちにある宝物を守るために、長八は無口になった。
口を使わないようにしようとすれば、勢い行動で示さねばならぬことが多くなる。長八は、率先しておのれの行いで意思を伝えるということをやりはじめた。口を開かず、おのれの手と足で示す。それはまさに職人連中のやり方で、周囲のものたちは、ああ、長八も親父さんのようになりつつあるのだ、と感心を持って変化を迎え入れた。そのときはまだ、長八は明確に弟子入りを許されてはいなかったのだが。
ともかくも。無事、跡取りに据えられた長八が、親父の様子がおかしいのに気づいたのは、本格的に修行をはじめてからひと月ほどが経った頃だ。
はじめにおかしいと気づいたのは、焚き付け用の薪の間から繋いだ反故紙を見つけたときだ。紙には、縞を持った猫のようなものが描かれていた。
時折、親父が絵の手習いをしていることは知っていた。書かれているのはいつも鶴や亀や七福神で、それはつまり鏝で描くための手習いである。猫の絵を見かけたことは、ついぞなかった。
そののち猫の絵は幾度か見つけた。やたらと爪や牙の鋭い、恐ろしそうな猫の絵は、塀に描くにはよろしくないように思える。何より、今までに親父がそのような絵を描くのは見たことがなかった。
そうしてから後、今度は黄表紙屋の店先で、親父を見かけた。何やら難しげな顔をして、店の前をうろついていた。もちろん、これまでに親父がそのような店に出入りするのは、見たことがなかった。
声をかけようと思ったが、なぜだか躊躇われた。
親父は何をしているのだろう、と寝床に入った後に考える。おそらくは、新しい図案を試そうとしているのだろう。あの、怖い猫の絵を。
思い浮かぶのはあの日のことだ。本物そっくりに描かれた亀が、塀から這い出た日のことだ。
もしもあの猫が。親父の鏝によって精妙に描かれ、命を吹き込まれて、塀から飛び出したなら。
大事になるだろう。あの恐ろしげな獣が、大人しくしているとは思えない。その爪や牙で、誰かを傷つけるやもしれぬ。亀を呼び出すのとは違う。
親父のことだ。それくらいのことはわかっているはず。なのになぜ。
訳があるのだろうと思う。だが、放っておいてはよくないように思えた。
意を決した長八は、隠しておいた反故紙を握って、仕事を終えた頃を狙って問い詰めた。
「これを塀に描くのかい」
猫の絵を広げて突きつけると、親父は苦い顔をして、そうだ、と答えた。
「おいらにはこれがよいものだとは思えねえんだけど。これは、塀に描いてもいいものなのかい」
親父はしばらく思案してから。
「わからん」
と答えた。
「わからねえのにやるのかい。親父らしくねえじゃねえか。いったいどうしたんだ」
「頼まれごとだ。塀の持ち主の意向なら、やらなきゃいけねえ」
聞けば、その猫は、依頼主の守り神なのだという。
先ほど親父と仕事を終えたばかりの土塀を眺める。川に沿って伸びる小径から一間ほどだけ離れて、土塀の屋敷が連なっている。この一帯は出水の被害が大きかった場所で、川沿いのほとんどの塀や立垣が、建て直しを余儀なくされている。ここいらの多くは商家だったはずだ。
「だからって何でもほいほい聞く必要ねえだろ。何でだ」
親父は目を閉じ迷っているそぶりを見せたが、意を決して答えた。
「鏝絵のことが、ばれた」
「そいつは」
少し驚いたが、それ以上ではない。こういったことは、端々から漏れるものだ。左官屋本人が漏らさずとも、その家族や、作業を目にしたものの口から、人伝に膾炙するのは考えられぬことではない。
現に、これまでにも鏝絵のことが、依頼主に発覚したことはあると聞いている。
職人が依頼主に黙って勝手をしているのは、宜しくないことだ。が、職人たちのそれは、住む者の寿ぎを願っての行為である。招福の絵を塀の内に塗りこめてくれたと聞いた依頼主の多くは、怒るよりはむしろ喜ぶ。縁起を担ぐ商家であるならなおさらだった。
だからこそ、この行いは密やかに、多少の悪戯心と共に続けられてきたのだが。
「それだけならよかった。けども、それだけじゃねえ。どこから漏れたかは知らねえが、そいつは、おれたちの秘密を知っている」
背筋が伸びた。親父のいう秘密に思い当たるのは、一つしかない。亀のことだ。
それだけは。鏝絵のことが漏れるのとは、まったく意味合いが違う。知っているのは長八と、親父だけだ。おふくろすら、親父の妙技のことは知らない。
あ、と一つの過去が、長八のこころに思い出された。
「親父。その依頼主ってのは」
「老虎屋の雀太郎さんだ」
伸びた背筋は、そのまま固まったように戻らなかった。
相談できそうな大人は、ひとりしか思い浮かばなかった。
仕事が休みの日を見計らって、長八は長屋を抜け出した。
長屋町の外れ、町の賑わいが途切れた界隈に目指す庵はある。寺院仏閣が多く立ち並ぶ、藩が起こる以前からの寺内町だが、今やそれらの多くは無人となり、打ち捨てられて寂れるに任せてある。だがその幾つかは、物好きが買い受け、作業場や道場、小さな庵として改築されている。荒廃と生活臭が入り混じったような、奇妙な趣を、その一角は湛えていた。
町側にほど近くにある一軒を、長八は訪った。
門は開かれていた。低い竹垣が、申し訳程度に、寺院の風格を残すあばら家を囲っている。長八と入れ違いで、幼子二人が走り出ていった。どうやら目的の主は在宅のようだ、と長八は判じた。
「先生」
戸をくぐると、頭を剃り上げた、髭の長い老爺が立っている。庵の主であり、私塾の塾頭でもある上堂佛円に違いなかった。
「おや。確か……長八だったかな」
「へえ。ご無沙汰してます。先生」
ふむ、と佛円は一つ頷くと、長八を奥へといざなった。今日の講義は終わったようで、子どもたちは捌けている。懐かしさに負けて塾内を眺めまわしつつ、長八は後へと続いた。
長八は職人だが、読み書き算盤ができる。親父が、できるようになっておけとしつこく教え諭したからだ。親父が言うには、どの仕事であれ、一流成す職人の多くは読み書き算盤ができるというのが、親父の見立てだった。それを身に着けているかいないかで、越えられぬ技、というのがあるのだという。
あちらこちらと尋ね回った親父が見つけ、息子を放り込んだのがこの佛円の塾だった。今は僧形であるが、もとは武家であったと聞いている。姿振る舞いは武家にも僧にも見えぬ、何とも掴みどころのない老爺なのだが、教え方は上々らしく、塾の評判は今も昔もよいようだ。長八も一年前まではここで学問を修めていたのだ。
「あんまり身にはつかなかったけど」
「そうであったなあ。だが、おまえの親父さんはえらい。学ぶことの大事さを、よくわかっておる」
しみじみといった感で佛円が言う。おまえの親父さんはえらい、というのは、ここに通っているときにもよく聞かされた。職人の徒弟で学問をやるものは少ないのだと、佛円は嘆いていた。農民の倅の方がまだしも多いと聞いたときは、何とも驚いたものだ。
離れで二人は腰を下ろした。
「それで、如何した」
長八は経緯を包み隠さず話した。反応を伺いながらの話であったが、佛円はまんじりともせず耳を傾けている。亀が動き出すくだりなどはさぞ荒唐無稽な話であるはずだったが、口を挟むことなく聞いていた。
「それですべてか」
「へえ」
「では、誰から漏れたか、長八は存じておるのだな」
「へえ、おいらです」
忘れられない、消してしまいたい過去だった。ただ一度、長八は親父との約束を破り、秘密を吹聴してしまったのだ。
その相手が、今は老虎屋の主となっている雀太郎だ。
長八と雀太郎が出会ったのこそがこの塾であり、互いが膝を並べていた頃は、そこそこに仲のよい友人であった。
その雀太郎が、塾にからくり仕掛けの亀を持ってきたことがあった。珍しいものを手に入れたことを仲間うちに自慢するために、わざわざ持ち込んだのだ。雀太郎にはそういうところがあった。
雀太郎は長八にも亀の玩具を見せびらかし、歩かせては、それがどれほど貴重なものか言い募った。長八はさほど興味は惹かれなかった。むしろ内側の仕掛けの方に興味があって、由来や値段はどうでもいいから甲羅の中身を見せてもらえないだろうか、などと考えていた。
そんな態度が、気に入らなかったらしい。
おまえんとこじゃあ、からくり仕掛けの玩具なんぞ贖ってはもらえんだろう。そんなことを言った。
そのとおりであったし、長八が親父からもらったことがあるのは、左官道具一式だけだ。そう答えてやるのは癪に思えた。
だからつい、「うちの親父は生きた亀を生み出せるぞ」などと言ってしまったのだ。
あのときのことを、長八はずっと悔いている。
「そうか。あの雀太郎か。見栄張りなのは、今も変わらんらしい」
「おいら、どうしたらいいでしょうか。先生」
ふむ、と佛円は腕を組んだ。
「おまえの親父さんが描こうとしているものは、虎という。海を渡った先の大陸にいる生き物で、この国にはおらん」
「あれが虎、ですか」
「左様。姿と名だけが、伝わっておる生き物だ。だがな。わしらが絵で見る虎は、実物とはだいぶ違うものだ。それをそのまま描いたとて、動き出したりはせん。そのはずだ」
「だったら」
安堵しかけた長八に、佛円は若き日の一休禅師の逸話を語った。
幼少のみぎりよりその利発さで名を集めていた一休は、あるとき、地元の長者より難題を吹っ掛けられる。曰く、屏風の中に逃げ込んだ虎を捕えて欲しいという、なんとも馬鹿々々しくも意地の悪い頼み事であった。
一休は快諾すると長縄を持ち、たすき掛けをして長者の屋敷へ赴いた。その前に、見事な虎の絵が描かれた屏風が引き出される。
長縄を構えた一休は、笑みを浮かべる長者に向かって言った。
「準備万端整いまして候。さては、屏風より虎を追い出していただきたく存ずる」
こうして一休を遣り込めるつもりだった長者が逆に遣り込められたという逸話である。
「そのお話が、何か関わりがあるんですか」
「これには別の逸話もあってな。このとき、虎はまさに絵から出でて、それを禅師は見事に捕らえた、という話だ」
親父の鏝絵に限らず、見事に描かれた絵が命を持って絵から抜け出す、という逸話は、古来より数多くあるのだという。
「どちらが、本当なのでしょうか」
「わからぬ。そういう話もある、ということだ」
それはともかく、と佛円は言葉を継ぐ。
「似せる、というのは、元来そういうものだ。お主も、親父どのの技を真似、似せてゆくことで、立派な左官屋に近づいてゆく。そうしてゆくゆくは、ひとりの立派な左官屋になる。どこまでも似せてゆくことで、それは本ものになるのだ」
長八は頷く。現に動き出す亀を見ているだけに、合点がゆくように思えた。けれども、いったいどこまでが似せもので、どこからが本ものなのだろう。その境目というのはいったいどこにあり、何が決めるんだろう。
「似せものでも、動くことがあるんですか」
「あるだろう」
似せものが本ものに取って代わることは、あるのだという。
「我らの生きておる世はな。そういう曖昧なものでできあがっておるのやもしれん。ともかくも、知ったからには放ってはおけぬな」
佛円は長八から塀の完成する日を聞き取ると、今日は帰るように促した。
「わしのほうで策は講じておく。案ずるな」
長八には、その言葉にすがるしかなかった。
塀は当初の予定とずれることなく仕上がった。
最後の本塗りに手を着けたのは夕暮れ前で、常日頃なら始末を急ぐ頃合いの時刻だった。
なのに親父はいまだ道具を広げたままだ。
その少し離れた後ろには、今回の頼み主である雀太郎が、手代一人を連れて仕事を眺めている。
「あの日から、ずっと気になってたんだ」
昔と変わらぬ意地の悪そうな目で、長八を見やる。
「鏝で描いた絵が動き出すってんだからな。本当だったら、こいつは見ものだ」
まあそんなことはあり得ないけど、と言い捨て、薄く笑みを浮かべた。
「……本当に動き出したら、どうするんだ」
親父が鏝を使いだした。ささ、とまずは大きく、虎のおおよその形を描き出している。ここからいったん盛り上がりをつくり、それから細部を作り出してゆくのだ。
「そりゃあもちろん、うちで飼うさ。うちは何たって老虎屋だ。いい客寄せになる」
表向きの理由だろう、と長八は思った。誰も持っていない珍しいものを手に入れるのが、大好きなのだ雀太郎は。そうして、それを見せびらかすのも。
幼馴染二人が言葉を交わしている間にも、親父は虎を描き出してゆく。近頃の親父は、暇があれば野良猫を眺めては、地面に枝で写し取っていた。
漆喰には猫の血が混ぜてあるらしい。何もかも紛いものだらけだ。これでは、絵が動き出すはずがないのだが。
佛円の語ってくれた逸話が、長八のこころからは離れなかった。
親父が、鏝を置いた。
「これで、いかがでごぜえやしょう」
親父が脇にのける。そこには一間ほどの大きさで、虎と思しき獣が精緻に描かれている。
今にも動き出しそうだ。そう長八には思えた。
「こりゃあ……見事だ。本当に見事だ。塗り込めてしまうのが惜しいくらいだ」
絵に近づいてまじまじと見る雀太郎の賞賛に、ありがとうごぜえやす、と親父が頭を下げる。
「こいつをこのまま残しておくってのは、だめなのかい」
「左官屋の手慰みでございやす。ご勘弁を」
ふむ、と雀太郎が顎に手をやる。
「あたしはこいつが気に入った。残しておくのがだめだってんなら、ここは一つ、塀から追い出してやってはくれないかい」
さも今思いついたかのように言い放った。親父はしばらく黙っていた。
親父と目が合った。いたたまれなかった。おいらは今、どんな顔をしているんだろう。親父、すまねえ。
長八はこぶしを握り締め、うつむいて親父から視線を外した。
「よござんしょう」
その言葉に驚き、顔を上げた。
親父が鏝で塀を二度叩く。頑丈に設えられたはずの塀が震え、軒が揺れる。
親父の目が長八のさらに奥を見ている。長八は振り返った。
長身の黒衣。剃髪に長い髭。佛円が、捕り縄を肩掛けにし、右手に縄端を構えている。腰には二刀を手挟んだ、はじめて見る姿だった。
「離れよ」
大音声で佛円が怒鳴る。咄嗟に動けたのは、親父と長八だけだった。
隙羅山の先にかかりかけた日が延びて、虎の絵を舐めるように照らしている。まさに沈みゆく日はじわりじわりと容を移し、影を増やして、絵に縞の斑をつくりだす。
ぬるり、という感で頭と前足から先に虎が抜け出してくる。抜け出した頭が顎を開き、吠え声をあげる。
胴体が抜け、後ろ足が抜け、尾が抜け。
縞模様を持つ巨大な猫とでもいうべき獣が、地に降り立った。
その前に、雀太郎がへたりこんでいる。手代が手を引いているが、立ち上がれないようだ。
虎が飛び掛かる。それと同時に鉤のつけられた縄が走った。
前脚に縄が絡みつく。虎の爪は空を切り、着地を誤って横倒しになる。佛円はといえば、縄を握ったまま、いつの間にか虎の斜め後ろへ回り込んでいる。
縄手を左に持ち替え、大刀を抜き払った。
佛円が斬り掛かる。が、縄の緩んだ前脚を払って、近づかせない。その前脚や後ろ脚を狙って刀を振るうが、毛皮には容易く刃が通らぬようであった。
「首の後ろを」
親父が叫んだ。長八の位置からちょうど見えるところ。どうしてかそこだけは、漆喰のまま変化していないように見える。
そこを狙って佛円が突き込んだ。通った。だが浅い。
虎が身体をひねる。佛円が跳ね飛ばされた。地に落ちた刀の切っ先は折れている。
虎は佛円を無視して、身動きできない雀太郎へと近寄ってゆく。たまらず手代は逃げ出した。雀太郎の顔色は真っ白で、今にも倒れてしまいそうに見えた。
虎の首元が落ちかかる日を受けて光る。刀の切っ先がそこに埋まっている。
腰を落として警戒している長八の右手に、何かが触れた。鏝。蹴とばされた道具箱から、転がり出ていたのだ。
それを、握りこんだ。
虎は雀太郎の目前まで来ている。長八にはさほど気を払っている様子はない。
助けるのか。だがこの事態は、雀太郎が自ら蒔いた種である。気に食わないやつだ。腹立たしいやつだ。そのまま食われてしまえばいい。そうすれば、長八たちにとっても都合がいい。
けれども。それでいいのだろうか。そうして見捨ててしまって。そのあとも長八は、まっとうな職人として、やってゆけるのだろうか。
親父のような鏝絵を描くことに、躊躇いはしないだろうか。
躊躇うだろう。悔いるだろう。そうして、鏝を持つたびに、この日の昏いこころ持ちを思い出すだろう。
だったら。
長八は駆け出した。刀のように鏝を突き出す。そうして虎の背から、その奥の首筋をめがけて。
鏝を、突き出した。元に戻れ。そう念じた。
硬いものに触れる。それを強く押し込む。
虎が吠えた。音が何も、聞こえなくなった。
色が消えていく。虎が溶け、漆喰へと巻き戻ってゆく。
転がったのは、土の上だった。虎は、跡形もなく消え失せていた。
半身を起こした。親父がいる。よろめきながらも立ち上がる佛円がいる。雀太郎は倒れているが、伸びているだけだろう。
右手を見る。大事な職人の道具があった。
恐ろしさが込み上げてくる。だが同時に、喜びもあった。取り返しのつかぬ過ちから広がっていたかもしれぬものを、塗り替えることことができたような気がした。そして、その手助けをきっと、親父と佛円はしてくれたのだ。
今はまだ、似せものかもしれない。でもいつか。
一本の筋が長八の前に伸びている。日が隠れようとしている。途切れていたかもしれぬ細い筋。その筋を掴み取るように。
長八はおのれの腕と鏝を掲げた。
(完)




