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喪失剣 掛金

 御国元付年寄、柴羽鴻学さいばねこうがくには悩み事がふたつある。

 ひとつは、近頃、帳面の文字が見づらくなってきたことだ。

 年寄のお役目は、書類仕事と談合で占められている、といってもよい。現に、出仕している刻限の大半で、鴻学は各所から上がってくる書付を読み、整え、仕分けして、考えをまとめることに費やされる。それらのあとに控えるのが、各所の責任者との談合である。

 至極簡単にまとめてしまえば、年寄のお役目というものは、それだけのものだといってもよい。

 だがそれだけに、目の弱りはそのままお役目の遂行に関わる。

 墨で記された文字がぶれる。しばらく眺めていると像を結ぶのだが、そこまでにいささかのときがかかる。光量も必要だ。夕暮れ時に差し掛かると、途端に文字が読みづらくなる。明るい場所から暗所へ、また逆へ移動した際には、目を慣らすまでまた、しばらく待たねばならなくなった。ともかく、様々な時と場において不便を感ずるようになったのだ。

 鴻学は今年で四十一を数える。四十の歳を越えれば目が弱ってくることがよくあるということは聞き知ってはいたが、まさかこれほどに不便になるとは予測していなかった。またこれは寄る年波というものでどう対処することもかなわず、それゆえに悩んでいる。

 もうひとつの悩みは、二年ほど前から取り組んでいる、傷病藩士たちへの対策だ。

 太平の世になったとはいえ、争いがなくなることはない。国境での小競り合いは少なくなったといえどもまれに起きるし、村同士の境界や水源をめぐる争いは耐えることがない。城下町での喧嘩や刃傷沙汰を取り押さえるのは同心や与力の役目である。

 そうしたお役目の中で、身体に重度の怪我を負い、復帰できなくなるものというのは出てくる。また病は今でも、等しくすべてのものに降りかかる厄災だ。

 重い傷や病を負い、役目を全うできなくなったものは、必然的に役目を解かれることになる。それは仕方がない。だがその後の保証というものは何も規定されてはいない。

 見舞金が出される場合もある。また、本人か家かが藩に大きく貢献したとみなされる場合には、捨扶持が与えられることもある。しかしながら、それはほんの一握りに過ぎない。ほとんどのものは、最もひどい状態のまま、藩政から放逐されることになる。

 それらのものたちの多くが、身過ぎ世過ぎのため、荒事や悪事に身を染めることとなる。

 そうした元藩士たちを放置しておくことは、治安の悪化に容易に繋がるという献策は、他でもない鴻学自身が上奏したものだ。

 以来、鴻学は元藩士たちの対策を藩主より一任されている。ただし、予算は割けぬ。そういうことであった。

 銭で困っている者たちを救済するのに銭を出せぬとはどういうことか、と思う。だが、そもそも銭を出せるのであればこういう問題は持ちあがらなかったわけではあるので、道理といえば道理ではあった。

 とはいえ、立場上対処しないわけにはいかぬ。また、そういうものどもを何とかしてやりたいと思うのも、鴻学の誠心であった。

 鴻学の朝は早い。夜明け前には起き出して、顔を濯いでいる。身の回りの支度を終える頃にようやく明け六つになる。

 表通りに人の行き交う気配が立ちはじめるのと同時に、日課となっている剣の鍛錬をはじめる。これは十代のころから今まで、ほとんど欠かしたことがない。

 武士としては勘定方を振出しとして小頭、奉行と内勤めばかりを拝命してきた。お役目として荒事に関わったことは一度としてない。

 だが、幼少の頃より城下の衿屋えりや道場で稽古し、今でも鍛錬を怠っていない剣術は、密かに鴻学が自身の恃みとしていることのひとつであった。

 春も半ばに差し掛かるはずだが、明け六つ頃の朝はまだ日もほとんど差さず、もろ肌脱ぎの上半身にはひりついた寒さを感じる。

 そして。屋敷の庭の軒先の、距離感が掴みにくくなっていることが、鴻学に老いを実感させる。目の弱りがもたらしたものは、お役目上の不便だけでは決してなかった。

 老いというものは、こうして奪ってゆくものか。

 木刀を下す。肌を冷やす風と共にひそやかに匂ってくるものがある。梅か、と判じた。目には見えねども、花が綻びはじめているのがそれでわかった。

 今日は遅くなる旨を家中に伝えて、屋敷を出た。毎節季ごとに、立ち寄っている場所が鴻学にはある。

 城を下がった鴻学は、供もつれずに徒歩でそこへと向かった。

 夕暮れの町はずれを歩いていると、やはり流れる空気が変わったと感じる。遅くはあっても、確かに季節は移ろおうとしているのだ。そうしてそれは、鴻学の老いを進ませるということでもある。

 早く進んでほしい物事と。ゆっくりと訪れてほしい物事と。それらは等しく、同じ時の流れに沿って、近づき、通り過ぎてゆく。人の身でそれをどうにかしたいと思うのは驕りであろうかな、と益体もないことを思った。

 遠く薄くに眺めることができる隙羅山ひまらやまはこのあたりからだと全景が見える。季節によって装いは変われども、山はいつでもそこにある。

 田畑の広がる村の境を避けるようにして、百姓家とは趣の異なる垣つきの東屋が点在しているのが見えてくる。そのうちの一軒が、鴻学の目的地だった。

 垣の外から訪いを入れる。歳を経てやや皺枯れたが、それでも鴻学の地声は大きく、よく通る。

 戸が開き、まあ殿さま、という華やいだ声がした。見知った顔の女性が現れる。主の妻女、鯖江さばえだ。

 鯖江の顔立ちは奇妙だ。目と目の間が大きく開いて、耳の側に寄っている。そして頭の造作は常人よりやや平べったい。全体として、どことなく魚を真正面から見たようなつくりになっている。はじめて見たとき鴻学は少々驚いたのであるが、幾度か見るうちに慣れてしまった。この辺りでは多い顔つきであるということは、後に知った。

「鯖江どの。無沙汰をしている」

 案内を受けて屋敷へ入る。敷地の広さはさほどではないが、最低限の武家屋敷の体裁は整えられている。奥に増設された離れ以外は、変哲ない間取りだ。柱も壁板も、いずこもが古さを感じさせる屋敷だが、手入れが行き届いているのを感じる。

 玄関口の上りに、杖を支えに中年の侍が立っている。はたしてこの屋敷の主である伊束孝蔵いたばねこうぞうであった。

「柴羽さま、よくぞおいでくださいました」

「具合はどうだ、孝蔵」

「近ごろは、少しよいようです」

 聞けば、そのように薄く笑って答える。足元を見やると、左の脚が着物の裾から伸びていない。先年、喪ったのだ。

「毎度そのように立って挨拶をせずともよい。戻れ。座っておれ」

「そのようなわけには」

「よいのだ」

 背を押すようにして部屋へと戻す。幾度か訪れているので、屋敷の勝手は知っている。その後ろを、妻女である鯖江が静々と従った。

 孝蔵を座らせ、鴻学も腰を下ろした。改めて顔色を見るが、確かに悪くはなさそうだ。

 孝蔵が左脚を喪い、嫁を取ってから二年ほどが経っている。この地の見回りを役目としていた孝蔵が、野伏の襲撃より村人を守ったときからだ。

 隙羅山の裾野にほど近いこの辺りは、大小の河川や森林が多く、村々や地域の繋がりが薄い。人の行き来が少なく、情報が広がりにくいので、古来より落ち武者や咎人、野盗の逃げ込みやすい土地として有名で、藩としても他所より警護のための衛士を多く配していた。当然、配備されるのは腕の立つ侍ばかりで、当時の伊束孝蔵も達人といってよい腕の持ち主であった。

 孝蔵は鴻学にとって姉の息子、甥にあたる。幼少の頃より剣才に恵まれたこの甥を、鴻学はことさらかわいがっていた。衿屋道場への紹介文を認め、また謝礼の一部を肩代わりしたのも鴻学である。己が進むことのできなかった剣の道を邁進してもらいたい。そう思っていた。

 はたして孝蔵は頭角を現し、道場でも上位に食い込む力を身に着けた。そして、理知的でまっすぐな若者にも育った。

 だから襲撃を目にしたとき、迷わず刻を稼ぐことを選んだ。

 野伏の数は七。現場に居合わせた孝蔵ともう一人は、多勢よりの略奪を阻止するため、刀を抜き払い、相対した。二人を仕留め追い払ったが、孝蔵は左脚に深手を負った。

 そのとき救われたこの村の、庄屋の娘が鯖江である。

「杖を新しくしたのか」

 傍らに刀の代わりに置かれた杖をみやる。前に見たときは櫂のような形をした木製のそれであったのが、金物のそれに変わっている。

「鯖江がつくってくれたのですよ。以前より、こういうものをつくるのが得手なのだそうです。奥の離れは、彼女の工房になっているのですよ」

「それは知らなんだな」

 手に取って見せてもらう。とても素人が手慰みにつくったものとは思われぬ。銅か錫に鉄でも混ぜてあるのか。持ち重りのする頑丈そうなつくりであった。

 庄屋の娘がどこでこうした技を身に着けたのか。不可思議なことではある。

 その鯖江が茶を運んできた。海の深いところに泳ぐ魚のような所作でふるまう鯖江は武家の妻として文句のつけようがない。

「実は、叔父御どのにお渡ししたいものがございまして」

 鯖江が茶と一緒に小さな木箱を運んできたのに気付いた。孝蔵の両手を介して、鴻学の前に差し出される。

「開けてもよいか」

「もちろんでございます」

 縄紐を解き、蓋を持ち上げる。覗き込んで、驚いた。

「これは、ぎやまんか」

 ぎやまんと呼ばれる南蛮渡りの金物。その特徴は、透けて向こう側が見える素材であるということだ。例えばこのぎやまんで壺や筒をつくれば、中に入っているものが見分けられる入れ物になる。得難い素材であった。

 小さなものであったが、板状に延べられたそれが二枚。板の周囲には銅と思われる金物が細く巡り、一か所で二枚を繋げている。

目金めかね、と申すものだそうです。この間から、目が利きにくくなったと申されていたので。鯖江に話をしたら、つくってくれました。目の前に当てることで、ものを大きく見せるようにしてくれるのだそうです」

 持ち上げる。下に萌黄の絹糸が入れられていた。見れば、目金の両端に紐を通すための穴が開けられている。

「これで括りつけるということか」

 試しに着けてみる。鼻に当たる部分には返しがつけられており、上下にずれるのを固定できるようにしてあるようだった。

 顔を上げる。孝蔵の顔がはっきりと見えた。やはり少々、やつれたようだ。

 頭がぐらぐらとする。目の部分から頭の奥へ、つんと痛みを感じた。

「慣れるまでは、お付けになったときに、少々目まいがされるかと存じます。ですが、すぐに慣れるかと」

 鯖江が口を挟んだ。焦点とやらが変わったために起こる現象なのだという。

 鴻学は一旦目金を外した。

「これは嬉しい。嬉しいが、しかし」

 ぎやまんは高価だ。粗悪な安物もあるが、実用に耐えうる厚みと透け具合を持つものは、途方もない値がつけられる。いや、そもそも手に入れようと思っておいそれと手に入れられるような素材ではない。それがなぜ、このようなところに。

「かがく、とわたくしどもは呼んでおります」

 鯖江が伏せていた顔を少しだけ上げた。

「かがく、とな」

 聞き覚えのない言葉に、つい問い返す。

「はい。この世にはまだ知られていない摂理、ことわりが数多ございます。ぎやまんは、そこらにあるありふれた砂からつくられます。ご存知でしたか」

「いや、初耳であるな」

 鯖江は小さく頷いた。

「材料はありふれたものです。ですが、つくりだすのは技が必要です。そういった技を編み出すための、ことわりをひとつひとつ掘り起こし、解き明かしてゆく。それが、かがくです」

「うむ」

 目金に目をやる。ぎやまんがそこいらの砂からできるということであれば、これもまた、様々な技の積み重ねで、ここに形を成したということだろう。そういえば、鉄砲の玉薬もまた、そういうものであったはずだ。

「我が夫、孝蔵さまは片脚を失くし、お役目を退かれ、その他にも難儀をしております。そして今、鴻学さまは目の弱りで困っております。こういった生害は、いつ誰に訪れるともわからぬものであります」

「で、あろうな」

 であればこそ皆、苦労をしている。

 鯖江は鴻学を手元を示した。

「ですが。例えばその目金を用いられれば。鴻学さまの目の弱りは、解消されることと存じます。そして、技が広まり。あちらこちらで良質のぎやまんが産されるようになり。誰もが目金を用いるようになれば。目の弱りはもはや、生害とはみなされなくなることでしょう」

「ちょっと待て。ちょっと待て鯖江どの。そこもとは何を言っておる」

「先の。もっともっと先のお話でございます」

 鯖江と目が合う。魚のような深淵が見つめ返してくる。

「孝蔵さまの脚も、そうでございます。生身でなくとも。技の積み重ねで、新たな脚を得ることができたならば。そして、これまでと変わりなく生きていくことができるならば。そうして、それが当たり前の世となれば。それはもはや、生害とは申せぬでしょう」

 鴻学のこころに渦が巻く。そのような世が。そのような世が、来るというのか。

「叔父御どのにはお世話になっております。何か恩返しができぬものかと、ずっと考えておりました。それに……我らのためにも叔父御どのにはまだまだお役目を勤めてもらわねばなりません」

 孝蔵がにこやかに鯖江を見ている。

 孝蔵には、救いが必要であった。足を喪ったばかりの頃の孝蔵は、己の先行きを見失い、自暴自棄となっていた。粗暴浪人の一党に落ちる一歩手前まできていたのだ。

 平民である鯖江との縁談を承諾したのは、最早侍としての出立は見込めなかったからだ。これまでを忘れ、新たな道を探してほしい。それは鴻学にとっても哀しく、辛い決断であったが。

 新たな道を得て、救いを得たのだと、そう思っていた。思っていたのだが。

 得たのははたして。救いではなく、深淵であったのだろうか。

 そうして今、その深淵を鴻学も覗き込んだ。

「相わかった。これは、ありがたくいただいておこう」

 そう告げて、鴻学は蓋を閉じた。



 孝蔵を訪ねてからひと月ほどが経った。

 鴻学もようやく目金に慣れてきた。それまでの不便がなかったものであるかのように、目金は鴻学の書類仕事を助けてくれる。

 その間に、鴻学は新たな施策を実行に移している。城下に住まう傷病浪人の中から希望者を募い、辺境や国境に移住させたのだ。その中には、孝蔵たちの村も含まれている。

 城下にいては、どうしても昔を思い出してしまう。ならばいっそ孝蔵のように、違う土地で新たな生き方を見つけてもらう方がよい。

 それに、傷病人とはいえ、戦う術を持つものが辺境や国境に増えれば、野盗どもの跳梁を多少なりとも防げる。何なら彼ら自身が戦わなくともよい。地元民に剣術を教えるなど、そういった生業に就くであろう者が一定数出るであろうことを、鴻学は期待していた。

 ただし、実行に際して、やはり多少の銭は必要であった。

 大きく対立したのが同じく年寄格の岡根大輔おかねだいすけ那間巳天念なまみてんねんである。岡根とは以前から財政上の問題で幾度か対立していた。今回移住者の支度金を捻出するために典礼用の予備費を一部回してもらうよう根回ししたのが、気に障ったらしい。鴻学の施策に大々的に反対した。

 典礼に関連する事柄は、岡根の職分である。典礼職とそれに付随する役職を転々としてきた岡根は出入り商人との結びつきが強く、様々な便宜を図るとともに賄賂を受け取っている。そういった裏事情を掴んでいる鴻学は少々の締め付けを行って、小銭を吐き出させた。このまま癒着が進めばいずれ事が露見するであろう岡根に釘を刺す目的も含んでいたのだが。鴻学同様老いの見える岡根は、箍が外れてしまったようであった。

 とはいえ、岡根に大反対されれば銭の算段が立たぬ。失脚させるには今少し時がかかる。

 どうするかと考えているうちに、その岡根が死んだ。闇討ちされたのだ。

 岡根屋敷の前、月明りすらない暗闇での一刀であった。声もかけず、従者には目もくれずに、岡根本人だけを狙って襲ったということで、相当に夜目の利く手練の仕業であろうと、鴻学の耳には届いた。

 ともかく、障害のひとつは取り除かれた。

 もう一方が、那間巳天念である。那間巳は、傷病浪人たちが野盗の側に取り込まれることを危惧していた。そうしてそれは、大いにあり得ることでもあった。

 だが、彼らを放置しているのは藩ではないか。ならば、少しでも、彼ら自身に生きるための道すじをつけてやらねばならぬのではないか。

 野盗になるものとて、多くはなりたくてそうなっているわけではないだろう。本来は、そこにこそ手を入れるべきなのだ。

 鴻学はそのように説くが、現実主義で、かつ藩政寄りの那間巳は頑迷に耳を貸そうとしない。

 やはり、岡根と同じように対処せねばならぬ。そう思った。

 目金を馴染ませるため、鍛錬の際にも身に着けておくことを続けているうちに、気付いたことがあった。

 この目金による補正は、夜目にも多くのものを与えてくれる。現に月がない日の夜明け前でも、鴻学は庭の梅をはっきりと見取ることができた。

 岡根を闇討つのは容易かった。そして、はじめて己の技を存分に遣った鴻学は、歓喜に打ち震えた。

 己の一生で人を斬ることなど、ないと思っていた。そしてまた、そのような道すじを辿って来もした。

 目の衰えを感じたとき。こころの奥底、最も深い部分に燻っていた剣への渇望を完全に消し去った。そう思っていた。だが。

 目金。これがあれば、もうしばらくの間だけ、夢を追うことができる。

 老いは日ごとに進んでゆく。残された時は少ない。鯖江の語った夢物語。それを一歩でも近づけるため、わしは。

 頭巾と風呂敷で覆面を施す。今日もまた、月の隠れた夜である。那間巳はその昔、剣術の修業をしたことがあると聞く。岡根よりは、手強いやもしれぬ。

 どちらにせよ、鴻学が剣を振るうのは、これが生涯で最後だ。

 那間巳屋敷の前で待ち伏せる。警戒はされているだろうが、構わない。日を選んだ闇夜で、対処できることは少ない。本来ならば、襲撃者とて相手を認めることが難しいのだから。

 だから、そこに待ち受けているものがいるのは、驚きでしかなかった。

「叔父御どの」

「……孝蔵か」

 目金を身に着けていても、闇夜で像を絞ることには難儀する。顔の造作まではわからぬが、立ち居振る舞いと声で、孝蔵であるとわかった。

 わかってから、おかしいと気付いた。それは、鴻学の知るかつての達人、伊束孝蔵の立ち姿である。

 ようやく像を結び、再び驚愕した。

 杖を、ついていない。孝蔵は、己の二本の脚で立っていた。

 いや。それを脚と呼んでいいのか。

 暗闇でしかとは見えぬ。だがそれは、一本の板のように見えた。孝蔵の膝から下。股立を取った着物の下から、板のようなものが二本、生えている。

 かがく。鯖江の言葉が蘇る。

「無事な方の脚も捨てたのか、孝蔵……」

 孝蔵が刀を抜いた。鴻学も抜き合わせる。

「目金を得た叔父御がどちらへ進もうとするのか。鯖江は心配しておりました」

 孝蔵はしっかと構えたまま動かない。鴻学もまた、動けなかった。

「いくつもの摂理と技が、これからも見つけられてゆくでしょう。ですが、使うのは、人です」

 だからか。だから目金を使う鴻学を止めるために、新たな脚を使う孝蔵が。

 鴻学はわかった。このどちらもが、これから向かうやもしれぬ、先のありようなのだと。

 先に動いたのは孝蔵だった。

 間合いには遠い。入った矢先に、先の先で斬れるだろう。鴻学は上段から切り落としをかけんとする。

 固い音が響く。孝蔵の金物の脚だ。薄い板のように見える。それが地に叩きつけられ、暗闇に火花を散らす。

 例えば薄い曲げた鉄が手を放すとどうなるか。鴻学は知っている。勢いをつけて、元へ戻ろうとするのだ。孝蔵の新たな脚はそういうものだと。今わかった。

 反発した板が元に戻り。その勢いで孝蔵の身体を持ち上げ。

 すさまじい勢いだった。短い距離を、まっすぐに進む。そういったときにこそ、力を示す脚なのだろう。

 間合いなどなかった。はじめから、孝蔵の間合いだった。

 斬られたとはわからなかった。だが斬られただろうと思った。

 孝蔵を見上げている。目の前に刃金の脚があった。その曲線を、美しいと感じた。

 来るのだろうか。これが当たり前となる世が、来るのだろうか。

 きっと来ます。鯖江が答える姿を幻視した。鴻学は両眼を閉じた。割れた目金が、その貌より落ちた。


(完)


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