逆境剣 矢切り 上
肌寒くなってきやがった、といらぬことを羽鳥乙十郎を考えはじめた。
この日のために宛がわれた馬場に乙十郎は立っている。股立ちを取り、襷を掛け、鉢巻を締めている。刀はすでに抜かれ、両腕をまっすぐに下げた、真一文字の向きで構えられている。さながら、短すぎる槍か長刀を無理やり構えているかのような格好だ。
大風がいくつか藩内を通り抜けた。大風は藩内に澱んでいた暑気をすべて吹き飛ばし、村々に大きな被害を残しつつも、雨と過ごしやすい気候をもたらした。
十五間ほど離れてもろ肌脱ぎの弓手が重籐弓を引き絞っている。あちらはおれよりもっと寒いんだろうな、御苦労さんなことだな、と同情してみたものの、真に同情されるべきはあちらではなくこちらであると思い直した。
弓手と暫し目を交わす。
矢が放たれた。乙十郎はすでに半身になっている。剣先を上げ、鏃の行く先を逸らすように当てる。切り、逸らしても矢の進みは止まらない。乙十郎は身体を逃がしていた。
乙十郎の背後に渡されていた板に矢が届き、破裂する。四方からおお、という嘆息があがった。
「これが秘剣矢切りか。見事である」
筆頭見分役であった目付のひとり、丸薙慈安が立ち上がり、乙十郎を大声で褒めそやしながら大股で寄ってきた。乙十郎は頭を下げる。
「思っておった以上の素晴らしい腕前であった。羽鳥乙十郎よ。その腕前を見込んで、頼みたいことがあるのじゃ」
いやな予感がした。いや、話を持ち掛けられたときから、ずっとしていた。
乙十郎は役替えの危機に晒されていた。
羽鳥の家は代々郡方で、藩の北側の村々を見廻る役目を負っていた。藩領地の中央には霊峰と名高い隙羅山がそびえ、北部へはその山の左右を縫うようにして街道や峠道が伸びている。頻繁な行き来は難しいことから、城下からは実際の距離以上に断絶しており、かくいう乙十郎も、生まれてこの方一度として城下へ足を踏み入れたことはない。
おそらくこのまま城下の賑わいなど知らぬまま生き、そして死んでゆくのであろうと乙十郎は思っていたし、またそうなるはずであった。
そのことに不満はない。むしろ多くのものに比ぶれば、乙十郎は境遇に満足していた方であると思う。
子どものころから腕っぷしの強かった乙十郎は、元服する頃には同世代たちの顔役、まとめ役といった立ち位置にあった。乙十郎自身もまた己の才覚を頼り、人に頼られることに喜びを感じる質であった。その性質と立場が乙十郎をつくり、育て、父の跡を継いでお役につく頃にも、土地における乙十郎の影響力は変わらずそこにあった。
家格は容易く改まらぬから、家を継いだ乙十郎は相変わらず郡方のままではある。が、直属の上司である小頭は乙十郎の昔からの乾分であるし、郡全体を差配する郡奉行も、その配下も多くが乙十郎の見知ったものたちに入れ替わりつつある。そして彼らは、これまでと同じように何かと乙十郎を立ててくれるし、また困ったときには相談事を持ち込んでくるのであった。
早くに嫁ももらった。郡奉行の親類にあたる筋の娘である。己にお役目以上の重きを置かれているのが、その一つことからもわかった。中央ではない、地方の田舎であるからこその込み入った関係の差し引きである。
郡方は身分の高いお役目ではない。それだけは確かに、悔しいことではある。おれはもっと大きな働きができる。そういう思いは、常にあった。
おれがすべての伝を使えば、出世も叶うのではないか。そう考えたことは、幾度もある。だがそれは、己の住む北の土地とそこに住むものたちを騒がせ、慌てさせる行為であるともわかっていた。
それは乙十郎の本意ではない。乙十郎は、己の住まうこの土地と人々が好きなのだ。
だから乙十郎は気持ちをこころの奥底に沈め、家格や役職といった権力では片付かぬような揉め事を、地元の顔役として取り仕切っていこうと。それが己の生きる道だと思い定めた。そうして、そのための己の本分として見出したのが剣術の道であったのは、理にかなったことでもあった。
北部は隣藩と接する土地であるからか、城下や南部に比べると尚武の気質が強い。乙十郎はそれを知らなかったが、いくつかの道場を見回り、これはと思った大規模な道場の一つに入門を決めた。
果たして剣術は乙十郎の気質に合っていた。すぐさま頭角を現し、遂には師範代並みまで上がった。多忙な郡方のお役目についていなければ、そのまま剣の道へ進んでいたやもしれぬ。
そうはならず、粛々と郡方もお役目を勤める。そうなるはずだったのだが。
ことが起こったのは、乙十郎が城下へ呼び出される十日前のことだ。北の端、隣藩との国境に、大きな矢が降ってきたのだ。
異様な矢であった。長さは五尺、およそ人ひとりの背丈ほどもある。太さも並みの矢を十本ほどまとめたほどもあり、通常の弓から射ち出されたものであるとは思われない。落ちた場所は未だ道も開かれておらぬ荒野で、幸いにして人死にや田畑への被害は出なかった。だがもちろん、藩としては見過ごすわけにはゆかぬ。すぐさま調査が始まった。
近隣からの聞き取りや着弾具合から、それが隣藩から射込まれたことはすぐさま判明した。奉行はそれを城下へ知らせ、早馬が戻ってきたのがその三日後である。
乙十郎は小頭に呼び出された。
「乙さんは、道場で『矢切り』なる秘剣を授けられたと聞いたんだが、本当かね」
いつも気さくに話しかけてくる幼馴染の上役が、いつもとは違う神妙な顔つきで、そう切り出した。乙十郎は腕組みをして対面に座っている。
「……道場のしきたりで、そういう問いには答えられんことになっている」
「知っている。それを曲げて、聞きたい。お偉方からのご下問なのだ。頼むよ、乙さん」
そう言って頭を下げる。本来ならば命令すればよいところだが、乙十郎を立ててくれているのだ。となれば乙十郎とて無下にするわけにはいかぬ。
「……確かに、伝授された」
「そいつは飛んできた矢を斬ることができるという秘剣だ。そうだね」
「……そういうことに、なっている」
事実だった。だが伝授の中で、実際に鏃のついた矢を切ったことは、一度もない。乙十郎が成功したのは本物の矢に見立てたまがい物ばかりであった。
「その秘剣をぜひ見たいと、お偉方が仰せなのだ。これは藩の行く末にも関わるとのことだ」
乙十郎の身体中からはいやな汗が噴き出ている。どうにも嫌な事態に巻き込まれつつあると感じていた。だがそこで、いかにも何ともないよう泰然自若とふるまってみせるのが乙十郎という男である。生まれてこの方そうしてきたのであるから、これはもう、年季が入っている。
だがそれと、事態の解決とはまた別である。乙十郎は必死で考えを巡らせる。
「聞かれたゆえ答えるが。実のところあれは、香具師の類なのだ。弓手を目の前に置き、射込む場所を導いて、そこを斬る。そういう技なのだ。実戦で用いることのできるものではない」
「……まことか」
今度は幼馴染が難しい表情を浮かべる。これで退いてくれれば、と思ったのだが、そう容易い話でもないらしい。
「隣藩から、見たこともない大矢が射込まれたことは知っているでしょう」
「もちろんだ。どの村でも、その話でもちきりであるからな。皆、次は己たちの村に落ちてくるのではないかと、気が気ではないのだ」
「その大矢だが。実は、見たことがあるという者がおりましてな。ほれ、隙羅山のふもとで集落をつくっておったものたち。どうやらあのものたちの手によるものであるらしい」
「……あやつらか」
一年ほど前になる。乙十郎は巡検の最中に、三十人ほどの集落を発見した。それは地図にも人別帳にも記されておらぬ集落で、ごく最近に人が住みつき、つくられたものであると思われた。
乙十郎はお役目の領分として、当然のように上役へと報告を行った。
「確か、隣の藩から逃れてきたものたちが、つくっておった集落であったか。そやつらは隣藩へ送り返されたと聞いたが」
「そうだ。だがそやつらの中に、件の大矢をつくるものが混ざっておったということだ。それを知った郡代どのは、誰に責を負わせるべきかと考えておられる」
「まさか、その中におれが」
幼馴染が頷く。
「誰かが被らねばならぬ。郡代どのは下へと責を押し付けるつもりだし、関わったものの誰もがまたそうしようと思っている。その中で一番家格が下なのは乙さん、あんただ」
「何という……」
もちろん乙十郎に非などない。むしろ役目をまっとうしたと褒めてもらってよいくらいだ。だがおそらく、見つけた時点でもっと穏便な方法はなかったのか、とか。そういう話にもっていって、無理やり責を負わせるつもりなのだろう。
「さほど重い罪には問われぬはずだ。おそらく役替えくらいでしょうが……」
「ばかを申すな」
罪を問われる行いなど、何一つない。
乙十郎のこころうちは、すでに怒りで煮え滾っている。だがそんなときでも、表向きには落ち着いて見せるのが乙十郎の習い性だ。そして、己のこころうちの冷静な部分は、ただ怒ったところで問題は解決せぬと判じてもいる。
大きく一つ、息を吸った。
「で、それをわざわざ告げるということは、何か策があるということか」
「あります」
幼馴染が膝を勧めてくる。
「実は、目付の丸薙さまが、その秘剣に興味を持っておられてね。ぜひ見分したいとの仰せです。これはすでに決まったことであるので、覆せない。乙さんには、すぐさま城下へ向かってもらうことになる」
「……まことか」
結局二人して、似たような難しい表情になってしまった。
「私の方で、できる限りのことはする。香具師の真似事でもなんでもよい。とにかくその矢切りとやらを、披露してほしい。ことの次第によっては、事態が変わるやもしれん」
そういうことになった。乙十郎に逃げ道はなかった。
矢切りを披露した乙十郎が目付から申し付けられたのは、とんでもないことであった。
「隣藩から射込まれるであろう矢を切り落としてほしい、などと無理難題を……」
ここ数日、ほとんど絶えることなく乙十郎は低い唸りを漏らしている。おかげで同僚はもちろん、妻や息子も容易く寄り付かぬようになっている。
乙十郎は断るつもりであった。いくら主命といえど、できぬことはできぬと言わねばならぬ。害を被るのが乙十郎自身であればよいが、そうではないのだから、お上にはしっかと方策を講じてもらわねばならなかった。
「もちろん藩としては、その他にいくつも応じる術を考えてある。が。今のところその中に、飛んでいる最中にある矢を落とすなどという方策はない。新たな術の一つとして、お主の矢切りを加えたい、ということだ」
そう説得、というか丸め込んだのが目付の丸薙慈安である。背が低く小太りで、髪が薄くなりすぎたためやむなく出家のかたちを執ったという風采の上がらぬ男だが、押しの強さと弁舌の巧みさには、さすがに目付と唸らせるものがあった。丸めるのは自分の頭だけでよかろうなどと思った乙十郎ではあったが、もちろん口には出さなかった。
「では逆に聞こう。どのような条件が整えば、矢切りが可能となる。それを逐一申してみよ」
乙十郎は遠慮なく言った。この点は、乙十郎の性質が幸いしたといえた。
これで御役御免だろう。そう確信して、乙十郎はいくつかの重大な点を述べた。丸薙の返答は短かった。
「あいわかった。できうる限り、何とかしよう」
そうして乙十郎は頭を抱え、唸り続けることとなる。
そんな乙十郎のもとを、訪れる一団があった。
知らせを受けて郡の番所へ駆けつけた乙十郎は、旅装の妙な一団と会い見えた。そろそろ寒くはなってきているが全員冬支度で、身の回りのものなどが侍にも百姓にも見えぬ。
代表と思しき三人が、前に進み出た。
「田宮だ」
「長谷川」
「青島です」
聞けば、専門は違うが全員学者であるという。それで集団の奇妙さにも納得がいった。全員家名を持っているということは、それなりに藩に重用されているのだろう。
「それで、拙者にいかな御用で」
「あんたの「矢切り」を成功させるために来た。話を聞いたときは驚いたが、なるほど面白い試みだ」
「弓箭の間合いは、日々伸び続けておる。これから先、今までとは違う防衛のかたちというものも考えねばならんだろう」
「私どもの専門は軍艦なのですがな。大筒の知識が役に立つかもと考え、員数に加えさせていただいた所存で。ええ」
乙十郎はひときわ大きな唸りを漏らした。どうやら丸薙は、本気で乙十郎の矢切りを成功させる気であるようだ。
「こちらへ来る前に、射込まれたという矢を見てきた。なるほど、あれを隣の藩から丘一つを越えて放ったとなれば、大したものだ」
「相当高くまで撃ち上がったのであろうな。大変興味深い」
「軍艦からの砲撃の場合は遮蔽物のない海上ですからな。それとはまたどうも、発想が違うようです」
「見ただけで、それほどのことがわかるのでござるか」
代表の三者は、それぞれ顔を突き合わせてうむうむと頷き合っている。彼らがただものでないことはわかったが、乙十郎の不安がむしろ深まったのはむべなることであった。
「乙十郎どのと言ったか。あんたの矢切りについてもひととおりは聞いてきた。要は、矢が放たれるところが見えていることが肝要であるということだな」
田宮という頑固そうな学者が乙十郎へと向き直る。三人のうちではこの男が一番の年嵩に見えた。
「……いかにも。実のところ、この矢切りという技は、放たれた瞬間にはもう、どこを切るのか決めておるのだ。でなければ、間に合わぬ」
「射線を見切るということだな。さもあろう」
そうしてまた三人で顔を突き合わせはじめる。諦めてくれればいいのだが。いや、彼らが諦めても、目付の丸禿、いや丸薙が諦めねば、事態は変わらぬだろう。
「鉄で覆った車……そう、戦車が必要だ。これが落ちてきても平気なほどの」
「何を言う。これからは空だ。空の時代よ。この空を武具が駆ける時代がきっと来る」
「いえいえ。今もこれからも、軍略の要は海でありますよ。より多くの軍船を持つものが、大陸を制するのです」
そして学者どもが何を言い合っているのかもまったくわからず、乙十郎は頭が痛みだしてきた。
「ともかく、問題を一つ一つ潰してゆくとしよう。まず一つ目の問題は、発射されるところを、あんたの目で捉えることは無理だということだ」
「で、あろうな」
矢は隣藩から、しかも丘と関一つを越えて射込まれている。その射られる瞬間を見るには、乙十郎自身が今や一触即発ともいえる隣藩へ赴かねばならぬ。しかも発射されるところを見たとて、矢の落ちる場所はそこよりもはるか遠いところなのだ。走って追いつくものでもあるまい。
「策はある。幸い、我ら学者は、お侍ほどには藩同士の行き来を戒められてはおらん。隣藩にも我らが同志は多くあり、それらのものと繋ぎをつけてある」
「それが、どう関わるのだ」
「つまり、隣の藩より報せを送ってもらえるのだ。少々工夫を施せば、矢の落下地点を推測できるのでは、と考えた」
「射られた場所と、角度、そして速度を複数の学者が計算するのだよ。それをこちらへ伝えてもらう」
「要は、乙十郎どのが鍛錬と経験で積み重ねた読みを、人手と算術で行おうということなのですよ。これを我らは観測、と呼んでおります」
「何度か着弾を確認し、それらを集積しながら修正を加えていくのが本来のやり方なのだがな。この度ばかりは一発勝負でやるしかあるまい」
「幸いなことに、発射されてから実際に落ちるまでには、結構な間があるらしい。観測が大きく外れるのでもなければ、あんたが場所を移すことで直しが利くだろう。なかなか悪くない策だと思う」
学者連中は、どうもこの策に乗り気のようである。が、乙十郎にはどうにも危なっかしいものに聞こえてならない。
「……それで、他の問題というのは」
聞きたくないが、聞くしかなかった。
「撃ち込まれる矢が、あまりに大きすぎることだ。あれを切るのは、普通の刀じゃ無理だ。せめて倍の長さと厚さがいる」
「太刀か馬斬り刀がよいですが、実際にはそれでもまだ小さすぎるくらいです」
「なのでさっき、鍛冶に頼んできた。一度だけ斬れるものであればいいと言ってあるし、こいつはご上意でもあるからな。さほど時はかからぬはずだ」
なぜこやつらはこれほど手回しがよいのだ、と思った。どうにも世のすべてが乙十郎の敵に回っているような心持ちがする。
「……打ち上がるまでに射込まれたら、どうするのだ」
「そこらに転がっている野太刀でやるしかあるまい。残念だが」
「太刀の扱いに、少しでも慣れていてください。かなり勝手が違うはずですよ」
「わかっておるわ」
つい声を荒げた。最早我慢の限界であった。
「拙者のできることはやらせてもらう。ただし、できることだけだ。それ以外のことは、知らぬ」
学者たちをその場に放り、わざと大きく足音を立てて、乙十郎は立ち去った。だが、できることはそれだけだった。
(続く)




